第11話「最果ての地へ続く航路と、三人だけの決死隊」
王都の裏路地にひっそりとたたずむ郵便商会の床に、かすかな空間の揺らぎが生じる。
空気がねじれ、光の粒子が収束した直後、ルークの体が石畳の上に投げ出された。
彼は両手を床につき、肩を大きく上下させて荒い息を吐き出す。
肺の奥にこびりついた次元の海の冷気が、白い呼気となって空中に溶けていく。
奥の部屋から足音が響き、アリアとレオンが慌てて駆け寄る。
「ルーク様。ご無事で何よりです」
アリアが床に膝をつき、ルークの背中を優しくさすった。
彼女の手のひらから伝わる温もりが、凍りついていたルークの感覚をゆっくりと現実に引き戻していく。
レオンはルークの顔を覗き込み、安堵の息を長く吐き出す。
「顔色が悪いぜ。だが、五体満足で帰ってきたなら上出来だ」
ルークはゆっくりと身を起こし、アリアが差し出した温かい白湯を一口飲む。
喉を通り抜ける熱が内臓を温め、思考の霞を晴らしていく。
「診療所への配達は成功した。アリアの羅針盤は、次元の海でも正確に安全な道を示してくれたよ」
ルークが左腕に巻かれた羅針盤をなでると、アリアの紫水晶の瞳がわずかに潤んだ。
「本当ですか。良かったです……本当に」
「だが、事態は一刻を争う。診療所の先生や行商人たちの話と、この羅針盤の動きから、亀裂の発生源が特定できた」
ルークの言葉に、部屋の空気が氷のように張り詰める。
彼が羅針盤のつまみを回すと、空中に淡く光る立体地図が投影された。
王都周辺の空間の歪みを示す赤い光点が、何かに引き寄せられるように一つの方向へ流れていく。
光の軌跡が示す終着点は、大陸の北西に位置する広大な空白地帯だった。
「最果ての荒野……かつて魔王城があった場所だ」
レオンが地図の一点を指差してつぶやく。
彼の真紅の瞳に、複雑な感情が入り交じった光が宿る。
かつて彼ら魔族の拠点であり、今は激しい魔力溜まりとなって誰も寄り付かない不毛の地。
虚空の亀裂は、その最も空間が不安定な場所を中心にして世界を飲み込もうとしている。
「このまま亀裂が完全に繋がれば、各都市の孤立どころか、世界そのものが裏返ってしまう。発生源の最も大きな亀裂を、直接叩き潰すしかない」
ルークが静かに告げると、アリアは両手を胸の前で強く組んだ。
「しかし、ルーク様は最果ての荒野へ行ったことがありません。絶対座標転移は、一度訪れた場所か、視界に入る場所にしか移動できないはずです」
「通常ならな。だが、今の世界には次元の海流ができている」
ルークは羅針盤が映し出す、太くうねる銀色の光の束を指差す。
「すべての歪みが最果ての荒野に収束しているなら、この一番太い次元の海流に乗って逆流すれば、座標を知らなくても発生源にたどり着けるはずだ」
それは、濁流に身を任せて滝壺へ落ちていくような危険な賭けだった。
一歩間違えれば、虚空の果てで永遠に迷子になる。
レオンが腕を組み、壁に寄りかかったまま鋭い視線をルークに向ける。
「仮にたどり着けたとして、どうやってその巨大な亀裂を塞ぐつもりだ。俺の炎でも、空に開いた大穴を焼き尽くすことはできないぞ」
「俺の空間収納を使う。亀裂そのものを、俺の次元の底へ強制的に収納するんだ」
ルークの常軌を逸した提案に、レオンは言葉を失って目を見開く。
アリアも息をのみ、血の気を失った顔でルークを見つめる。
「空間収納は、物を出し入れするだけのスキルではありません。ルーク様の精神に直結した、独立した次元そのものです。そこに世界の亀裂を取り込めば、ルーク様自身の心が壊れてしまう危険があります」
「それでも、やるしかない。俺たちの郵便商会は、世界を繋ぐためにあるんだから」
ルークの迷いのない瞳を見て、アリアは小さく首を振り、そして深くうなずく。
「わかりました。ならば、私も行きます。私の魔法具で亀裂の波長を固定し、ルーク様が収納しやすいように空間を安定させます」
「俺を置いていく気じゃないだろうな。最果ての荒野は魔物の巣窟だ。虚空の化け物と魔獣の相手は、俺が全部引き受けてやる」
レオンが短剣の柄を叩き、獰猛な笑みを浮かべる。
ルークは二人の顔を交互に見つめ、静かに立ち上がった。
「ありがとう。三人で、この世界への最後の配達を終わらせよう」
彼らはすぐに準備に取り掛かる。
アリアはありったけの魔石をかき集め、亀裂を固定するための巨大な楔型の魔法具を組み上げる。
レオンは複数の短剣を丁寧に砥石で磨き、革鎧の結び目をきつく締め直す。
ルークは空間収納の内部を整理し、最大の容量を確保するため、不要な物資を店の奥へと積み上げていく。
準備が整う頃には、窓の外の空は濁った紫色の闇に完全に覆われていた。
三人は店の入り口に立ち、商会の看板を見上げる。
「帰ってきたら、また美味しいシチューを作りましょうね」
アリアが柔らかな声でつぶやく。
「ああ。次はもっと肉を増やしてくれ」
レオンが鼻先をこすりながら返す。
ルークは商会の扉にしっかりと鍵をかけ、二人に向き直る。
「手を出してくれ。次元の海は、少しでも離れればはぐれてしまう」
ルークが両手を差し出すと、右手にレオンの無骨な手が、左手にアリアの細く冷たい手が重なった。
三人の体温が触れ合い、かすかな脈動が互いの肌を通じて伝わってくる。
ルークは目を閉じ、羅針盤が示す最大の海流へと意識を潜らせる。
足元の石畳が液状化するように波打ち、周囲の景色が音を立てて崩れ落ちる。
強烈な重力が三人の体を下へと引っ張り込み、視界が真っ白な光に包み込まれた。
耳を劈くような次元の軋み音の中、彼らは互いの手を強く握りしめたまま、最果ての地へ続く見えない航路へと身を投じる。




