第7話 聖女の治癒が効かない
「聖女様の治癒が効かない」
その言葉が王都を震わせた日、辺境の砦は静かだった。
——だが、それを知るのはもう少し先の話だ。
◇
王都、王宮。
レオンハルトは謁見の間の玉座に座ったまま、目の前の光景を見ていた。
灰色の発疹に覆われた患者が、担架で次々と運び込まれてくる。高熱。呼吸困難。灰色に変色した皮膚。
灰死病。
二週間前に下町で発生し、瞬く間に王都全域に広がった。死者は日を追うごとに増えている。
「ミリアーナ」
声をかけた。
聖女は患者の前に跪き、両手から白い光を放っていた。治癒魔法だ。聖女の称号を持つ彼女の光は、この国で最も強い治癒の力であるはずだった。
——はずだった。
光が患者を包む。だが灰色の発疹は薄まらない。熱も下がらない。白い光が弾かれるように消えていく。
「殿下……」
ミリアーナが振り返った。その顔は蒼白だった。
「この病は……私の治癒の範囲を、超えています」
謁見の間が静まり返った。
大臣たちが顔を見合わせる。白髪の筆頭大臣が額の汗を拭いた。
聖女の治癒が効かない。
この国の医療の最高峰であるはずの聖女の力が、まったく通じない。
「範囲を超えている、とは?」
声が硬くなったのは自覚していた。
「わかりません……私の光は確かに患者に届いているのに、病の原因に触れられないのです。何かが——何かが、私の治癒を拒んでいるように……」
ミリアーナの目に涙が浮かんだ。本物の涙だ。芝居ではない。
——なす術がないのか。
苛立ちが込み上げる。ミリアーナにではない。この状況に。自分に。
脳裏に、顔が浮かんだ。
灰色でもなく白でもない。金色の光を放っていた——と、辺境の報告書にあった。あの使者が言っていた。「闇の魔女」が兵士を治し、子供を治し、辺境伯に医療顧問として重用されている、と。
あいつなら。
——あいつなら、治せるのか?
思考を打ち消した。断罪したのは俺だ。追放したのは俺だ。今さら——
「殿下。疫病対策本部の設置を進言いたします」
筆頭大臣の声で、思考が断ち切られた。
「……ああ。進めろ」
ミリアーナがこちらを見ていた。
縋るような目。助けてほしいと言っている目。
三ヶ月前なら、その目を見て迷いなく手を差し伸べていた。
今は——その目が、少しだけ重い。
◇
辺境の砦に灰死病の報が届いたのは、王都で流行が始まってから三日後だった。
伝書鳩が運んできた王都の通達を、辺境伯が食堂で読み上げた。
「灰死病。王都で蔓延。死者多数。各領地に警戒を通達する」
食堂がざわついた。兵士たちの顔に不安が広がる。
私は通達の文面を聞きながら、頭の中で知識を探っていた。
灰死病。文献で読んだことがある。数十年に一度、王都や大都市で発生する疫病。原因不明。治癒魔法が効かない。致死率は三割とも五割とも言われている。
——原因不明。
本当に?
(灰色の発疹。高熱。呼吸困難。治癒魔法が効かない……魔法で治せないということは、魔法では触れられない原因がある。この世界の治癒魔法は外傷と一般的な病気には効く。効かないものがあるとすれば——)
頭の奥で、知識が弾けた。
浄水。隔離。消毒。
前世の知識だ。感染症の予防原則。原因が何であれ、人から人への感染を防ぐ方法は共通している。
(水だ。まず水を確認する。井戸の水、川の水。黒斑熱のときと同じ——いえ、同じではない。灰死病はもっと深刻だ。でも予防の原則は変わらない)
「辺境伯閣下」
立ち上がった。食堂の全員が私を見た。
「予防策を講じさせてください。井戸水の検査、煮沸の徹底、患者が出た場合の隔離施設の確保。今すぐ始めれば、辺境での蔓延を防げる可能性があります」
辺境伯が目を細めた。
「根拠は」
「黒斑熱のときと同じ原理です。感染経路を断てば、病は広がりません」
正確には、灰死病の原因が黒斑熱と同じとは限らない。でも予防の方法論は応用が利く——と、前世の知識が言っている。
(本当にこれで合っているのか。前世の知識を信じていいのか。間違っていたら——)
不安はある。でも何もしないよりはいい。
「やれ」
辺境伯は一言だけ言った。
◇
三日間、走り回った。
井戸という井戸の水を検査した。煮沸の手順を村ごとに伝えた。隔離用の小屋を砦の外れに設置した。兵士たちに手洗いの方法を教えた。
手洗い、という概念がこの世界にはない。前世では当たり前だったことが、ここでは一から説明しなければならない。
でも兵士たちは素直だった。
「先生が言うなら」と、文句も言わずに従ってくれた。村人たちも、黒斑熱のときの恩がある。協力は惜しまなかった。
結果。
辺境では、灰死病の発症者は一人も出なかった。
王都から続報が届くたびに、死者の数が増えていく。百人。二百人。聖女の治癒は依然として効果なし。
辺境は——静かだった。
「先生の予防策がなければ、うちも大変なことになっていた」
若い兵士がそう言ってくれた日の夜、私は医務室の机に突っ伏して眠ってしまった。
三日間ほとんど寝ていなかった。薬草の煎じ薬を作り続け、煮沸用の窯の火を管理し、隔離施設の消毒手順を確認し——気づいたら意識が落ちていた。
だから、知らない。
夜半過ぎに、医務室の扉が静かに開いたことを。
灰色の髪の男が、机に突っ伏した私の肩にそっと毛布をかけたことを。
灯りの芯を、指先でゆっくり絞って、炎を小さくしたことを。
男が扉の前で一度だけ足を止めたことを。
私は何も知らない。
ただ翌朝目覚めたとき、肩に毛布がかかっていたことだけは気づいた。
(……誰だろう。軍医さんかしら)
花瓶の花が新しくなっていた。今日は白い花だ。
◇
その日の午後。
砦の応接室に、三人が集まった。
辺境伯。ゼルギウス様。私。
机の上には一通の封書。王家の紋章入りの蝋印が押された、正式な文書。
辺境伯が封を切り、内容を読み上げた。
「——王太子レオンハルト・フォン・ライヘンバッハの名において命ず。流刑囚ベアトリクス・フォン・ヘルダーリンは、速やかに王都に帰還せよ」
帰還命令。
非公式の打診ではない。王太子名義の正式な勅令だ。
応接室が静まった。
雨はもう止んでいる。八月の日差しが窓から差し込んで、勅令書の羊皮紙を白く照らしている。
辺境伯が勅令書を机に置いた。
ゼルギウス様は壁際に立ったまま、何も言わない。
私も——何も、言えなかった。
三人の沈黙が、応接室を満たした。




