第2話 肩書は関係ない
「触るな! その女に触れさせるな!」
兵士の一人が叫んだ。
私の手から溢れる金色の光を見て、彼らの顔に浮かんだのは安堵ではなかった。恐怖だ。
「闇の魔女だぞ! 呪いをかけるつもりだ!」
腕を掴まれた。
強い力で引き離される。金色の光が途切れた。担架の上の兵士が呻く。傷口からまた血が溢れ始めた。
「やめ——今、止めたら死にます!」
怒鳴り返した瞬間、頭の中に声が響いた。
——動脈の損傷が深い。止血が先。感染を防ぐために傷口の異物を除去して。
誰の声だろう。私の声だ。でも私はこんな言葉を知らない。動脈? 感染?
考えている場合ではなかった。
「離せ」
低い声が、騒ぎを断ち切った。
指揮官の男——灰色の髪の男が、私の腕を掴んでいた兵士の手首を握っていた。
「治せるなら治せ。肩書は関係ない」
それだけだった。
命令でもなく、信頼でもなく。ただの判断。合理的で、冷たくて、けれど今の私にはそれで十分だった。
兵士の手が離れる。
私は担架に駆け戻った。
◇
医務室に運び込まれた兵士の傷は、腹部を斜めに深く裂かれたものだった。
内臓が見えている。砦の軍医は顔を青くして首を振っていた。
でも——知っている。
知らないはずなのに、わかる。
手をかざすと、また金色の光が溢れた。今度は私の意志で。温かい光が傷口を包む。
(まず深部の損傷を塞いで……そう、この層から。表層は後。出血源を先に)
頭の奥から湧いてくる知識に従って、手を動かす。光が傷の深い場所から順番に組織を修復していく。
不思議な感覚だった。
これは魔法であって魔法ではない。私の手は確かに治癒の光を放っているけれど、頭の中でそれを導いているのは——別の何かだ。
白い廊下を歩いていた誰かの記憶。
手術台の上で、メスを握っていた誰かの手つき。
メス?
今、私は何を考えた?
「……っ」
光が揺らいだ。集中が途切れかけて、慌てて意識を傷口に戻す。
(今は考えるな。目の前のこの人を助けることだけ考えろ)
自分に言い聞かせた。
光を注ぎ続けた。
どれくらい経っただろう。
兵士の呼吸が安定した。傷口が塞がっていく。完全ではないけれど、出血は止まった。内臓の損傷も、致命的な部分は修復できたはずだ。
軍医が息を呑んだのが聞こえた。
——よかった。
そう思った瞬間、視界が暗転した。
膝から力が抜けて、床が近づいてくる。
倒れる直前に見えたのは、灰色の瞳だった。
◇
目を覚ますと、天井が見えた。
木の梁。石の壁。小さな窓から差し込む朝の光。
ここは——医務室のベッドだ。
身体が重い。指一本動かすのがやっとだった。
魔力を使い果たしたのだと、頭の隅で理解する。
「飲め」
声がした。
視線だけを動かすと、ベッドの横の椅子に灰色の髪の男が座っていた。
水筒を差し出している。
起き上がれない私の口元に、無造作に水筒の口を近づけた。雑だ。ぶっきらぼうだ。でも、水筒の角度は——唇にちょうど触れるように、正確に傾けられていた。
冷たい水が喉を通って、体の芯まで染み渡る。
「……ありがとう、ございます」
声がかすれた。
男は何も答えず、水筒を引いて立ち上がった。
「お前の名は」
背を向けたまま、男が言った。
「……ベアトリクスです」
「ゼルギウス・ヴァルデン。この砦の騎士団長だ」
名乗った。
初めて。三日間一緒にいて、初めて名前を交わした。
——騎士団長。護送任務を騎士団長自らが?
疑問は湧いたけれど、口にする体力がなかった。
ゼルギウスが扉に手をかけたところで、足を止めた。
「昨夜、あの兵士が目を覚ました」
それだけ言って、出ていった。
……助かったのだ。
天井を見つめたまま、息を吐いた。
右手を持ち上げてみる。昨夜あれだけ光を放った手は、今は何の変哲もない。細くて白い、侯爵令嬢の——いや、元侯爵令嬢の手だ。
扉の向こうから、声が聞こえた。
兵士たちの声だ。
「おい、昨日の流刑囚の女……」
「ああ。闇の魔女、だったか」
「闇の魔女が、なんでアルトを治せるんだ? 軍医が匙を投げた傷だぞ」
「さあな。でも——」
少しの沈黙。
「——アルトは生きてる」
それ以上は聞こえなかった。
でも、それだけで十分だった。
◇
午後になって、来客があった。
まだベッドから起き上がれない私のところに、ゼルギウスが客人を連れてきた。
大柄な老人だった。
白髪を後ろに束ね、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。纏っている空気が違う。兵士でも官僚でもない。領主の空気だ。
「グレーフェンベルク辺境伯だ」
ゼルギウスが短く紹介した。
——辺境伯。この領地の主。
ベッドの上で身を起こそうとして、腕が震えた。起き上がれない。流刑囚が領主の前で寝たままというのは、さすがに無礼が——
「寝てろ寝てろ。流刑囚の礼儀なんぞ知らん」
辺境伯は大きな手をひらひらと振って、部屋の椅子にどかりと座った。ゼルギウスが持ってきた椅子ではない。もともと置いてあった椅子だ。遠慮がない。
「ゼルギウスから聞いた。腹を裂かれた兵士を治したそうだな」
「……はい」
「うちの軍医が匙を投げた傷を、お前一人で」
「はい」
辺境伯の目が細くなった。
品定め、ではない。もっと率直な——好奇心だ。
「ほう」
その一言に、値踏みも侮蔑もなかった。
「面白い娘だ」
それだけ言って、辺境伯は立ち上がった。ゼルギウスに向き直る。
「使えるなら使え。肩書は──なんだったか」
「関係ない、と言いました」
「そうだ、それだ」
辺境伯はからからと笑って、部屋を出ていった。
……なんなのだろう、この辺境の人たちは。
(王都の貴族は肩書しか見なかったのに。ここの人たちは——)
その先の言葉は、まだ見つからなかった。
夕暮れ。窓の外が橙色に染まる頃、廊下でゼルギウスと軍医が話す声が漏れ聞こえた。
「あの光は治癒魔法か」
「治癒魔法ではあるのですが……団長」
軍医が言いよどんだ。
「私が知る治癒魔法とは、根本的に違います」
それきり、声は聞こえなくなった。
ベッドの上で、私は自分の手のひらを見つめた。
金色の光。闇ではない。けれど、普通の治癒でもない。
——私は、何なのだろう。
答えはまだ、どこにもなかった。




