第1話 結構です
「ベアトリクス・フォン・ヘルダーリン」
春の陽射しが大広間のステンドグラスを貫いて、白い大理石の床に色とりどりの影を落としていた。
こんなに美しい光の中で断罪されるのだと思うと、少しだけ笑いそうになる。
「貴女の魔力属性は闇——よって、闇の魔女として断罪します」
レオンハルト殿下の声が、天井の高い広間に響き渡った。
両脇に並ぶ貴族たちが一斉にざわめく。こちらに向けられる視線。嫌悪、恐怖、好奇心。どれも見覚えがある。ここ数週間、宮廷で浴び続けてきた目だ。
今日はそれが何百倍にも濃くなっただけ。
「ベアトリクス様の魔力は、闇属性です」
殿下の隣に立つ聖女ミリアーナが、涙を浮かべてそう証言した。青い瞳を潤ませ、震える声で、けれど言葉ははっきりと。
「私……あの方の近くにいると、闇の魔力を感じるんです。怖くて……」
その細い指が、殿下の袖をそっと掴んだ。
——ああ、そういうこと。
あの仕草を見た瞬間、ぼんやりとしていた頭が冷えた。
ミリアーナの指が殿下の袖を掴む角度。上目遣いの涙。怯えた声に混じる、かすかな甘え。
あれは怖がっている人間の手ではない。縋りついている人間の手だ。
鑑定院の鑑定結果は確かに「闇属性」だった。
でも私は知っている。あの鑑定具に手をかざしたとき、光が二度明滅して、結局何の表示も出なかった。「測定不能」を、誰かが「闇」に書き換えたのだ。
——証拠はないけれど。
「弁明はありますか、ベアトリクス嬢」
大臣の一人が形式的に問うた。問うただけだ。私が口を開く前に、殿下が手を挙げて遮った。
「証拠は十分です。弁明の必要はないでしょう」
ほら。
最初から、そのつもりだったのだ。
三年間の婚約。三年間の努力。殿下の好む茶葉を覚え、外交文書の補佐を学び、社交界では完璧な令嬢であろうと歯を食いしばった三年間。
それが今、春の光の中で、蝋燭の火を吹き消すように終わる。
……不思議と、涙は出なかった。
「——結構です」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「もう王都に未練はございませんので」
広間が静まり返った。
ざわめきが消える。殿下の目が見開かれた。ミリアーナの涙が止まった。
泣き叫ぶと思っていたのだろう。
それとも、膝をついて許しを請うと?
私は左手の薬指から婚約指輪を外した。サファイアが春の光を受けて、最後に一度だけ輝く。
殿下の足元に、そっと置いた。
投げつけるのではなく。置いた。もうこの人に感情を使う価値もないのだから。
背を向けた。
一度も振り返らなかった。
◇
控室で待っていたのは父だった。
ヘルダーリン侯爵。厳格で、冷静で、家門の維持だけが人生の男。
私を見る目に、動揺の色はない。
「ベアトリクス。家門を守るため、勘当とする」
短い。いつも通りだ。
母が亡くなって以来、父の言葉はいつも短い。私に向けられる言葉は特に。
母に似ているのだと、侍女に聞いたことがある。
だから父は私を見ない。正確に言えば、見ることができない。
「ご自由に」
私もまた、短く返した。
父の指が微かに震えたような気がした。気のせいかもしれない。気のせいだと思うことにした。
そうでなければ——この控室から、足が動かなくなる。
◇
護送の馬車は、見た目だけは立派だった。
中身は板張りの長椅子が一つ。窓は小さく、鉄格子がはまっている。流刑囚の待遇としては妥当だろう。
護衛は騎士が三名と、その指揮官が一人。
指揮官の男は、背が高かった。短く刈り込んだ灰色の髪。無表情。名前も名乗らない。
馬車が王都の門を出たとき、ようやく実感が追いついてきた。
——本当に、終わったんだ。
窓から見える景色が、田園に変わっていく。王都の尖塔が遠くなる。三年間通った宮廷の回廊。図書室の匂い。薬草園で土をいじっていた午後。
もう戻らない。
なぜか、頭の奥がちりちりと痛んだ。
白い廊下が見えた。消毒液の匂い。蛍光灯の冷たい光。誰かの声——「お疲れさま」。
何の記憶だろう。私の人生にそんな場所はない。
断罪のショックで、おかしくなったのかもしれない。
二日目の昼、山道の石に足を取られた。
馬車を降りて少し歩いていた時だった。右足首がぐきりと鳴って、バランスを崩す。
転ぶ、と思った瞬間——
目の前に、灰色の布が広がった。
指揮官の男が、自分の外套を地面に敷いていた。
私が倒れる前に。何も言わず。
「……座れ」
低い声。それだけ。
私を見もしなかった。ただ外套を敷いて、踵を返して、馬車の方に歩いていった。
……なんなの、この人。
困惑しながら外套の上に座った。厚い生地だ。軍用の、頑丈な外套。体温が残っている。
(怒ると敬語が丁寧になるのは母譲りだと侍女に言われたことがあるけれど、今のは……怒りではないわよね。困惑よ。ええ、困惑)
足首を押さえながら、私は誰に言い訳するでもなく、心の中でそう呟いた。
◇
辺境の砦は、想像よりも小さかった。
石造りの壁。錆びた門扉。塔の上にはためく旗は色褪せて、紋章の判別もつかない。
王都の華やかさとは別の世界だ。
三日目の夕暮れ。馬車が砦の前で止まった。
門が開く。中から出てきた兵士が、私を見て明らかに後退った。
——闇の魔女。
その呼び名が、もうここまで届いている。
足首はまだ痛む。引きずるように歩いて門をくぐった瞬間——
「誰か! 誰かいないか!」
叫び声が中庭に響いた。
担架が運ばれてくる。その上に横たわるのは、血まみれの兵士だった。腹部を深く裂かれている。魔物にやられたのだと、誰かが怒鳴っていた。
「軍医を! 軍医はどこだ!」
「もう手の施しようがない! 内臓まで……」
血の匂いが鼻を突いた。
赤い。あまりにも赤い。
——助けなきゃ。
考えるより先に、足が動いていた。
痛む足首を引きずって、担架に駆け寄る。兵士たちが驚いて道を空けた。「闇の魔女」を恐れたのか、それとも私の目が尋常ではなかったのか。
倒れた兵士の傷口に手をかざした。
なぜそうしたのか、わからない。
ただ——助けなきゃ、と思った。それだけだ。
手のひらが、熱くなった。
光が溢れた。
闇の色ではない。暗黒でも紫でもない。
——金色だった。
温かい、金色の光が、私の両手から溢れ出して、兵士の傷口を包んでいく。
広場が静まった。
兵士たちが息を呑む。
担架を運んできた男が、目を見開いて立ち尽くしている。
私自身が、一番驚いていた。
これは——何?
指揮官の男が、数歩離れた場所からこちらを見ていた。
灰色の目が、初めてまっすぐ私を捉えていた。




