第24話 芥の華《咲夜視点》
名前を失くしたのは、十のとき。皇帝の血縁であることを知った、他の王族たちによって、暗殺者が送り込まれてきた日。
朝から黒い雲が天を覆い、ざあざあと雨が降りしきる、最悪な日だった。
僕の母は幼いころに亡くなり、父は最初からいなかった。屋敷の中でだけ大切に育てられた僕らは、そういうものかとあまり疑問には思わなかったので、叔父・叔母・親戚と妹と仲良く遊び暮らしていた。
妹・緋雨はおままごとが好きで、僕はそんな彼女に付きあい、さまざまな役をした。番犬、いじわるな継母、姉弟。現実には僕は兄だけれども、彼女は弟を欲しがった。
「お兄様は格好いいのよ。黒髪、黒目って、とても素敵だわ。でも、可愛いわたくしと似た茶髪のくるくるって髪をした、子犬みたいな弟もほしいの」
「人間を愛玩動物に例えるのって悪趣味だよ」
「あいがん……? 悪趣味? お兄様、おっしゃることがたまに難しいわ」
享年、八歳。わずかその程度で、儚く消えた妹のことが恋しくて仕方ない。
問題の雨の日。その日も朝起きて、妹の顔を見に行こうと一階に降りようとしたところで、そいつに出会った。黒衣を纏った、緑の目の少年。眼光が鋭いわりに、表情がどこか歪な、堅い仮面のような。僕は召使のほとんどの顔を把握していた。僕とそう変わりなさそうな年齢の召使はこの屋敷にいない。当然、僕は警戒した。
少年はパチリと指を鳴らし、こちらを指した。
頬のあたりがじゅっと音がして、なにか熱い――と思った。けれどそれだけだった。
「なぜ、発火しない?」
少年はそう言葉を発したが、僕にその意味はわからなかった。
「不審者だ! おい、捕まえろ!」
そんな叔父と私兵の声がして、少年はハッとすると、すばやい動きで逃げて行った。
そこから、妹の死を知らされた。
いわく、あの黒衣の少年は死神なのだと。
悪徳領主の飼っている、恐ろしい暗殺者。
叔父は言った。
「いいか、お前は、もうこの名前を名乗ってはいけない。妹のことはすべて、お前の記憶の中に閉じ込めるんだ。最初からいなかったものとして、誰にも言うな。それしかお前が生きる術はない。今日のことは忘れろ、ただ生きるんだ」
そこから、僕は名を捨てさせられ、名無しになった。
僕は叔父が雇っていた旅芸人たちに連れられて、領地を離れた。
旅芸人たちは芸事には厳しく、また、なんにも才能のない僕を疎んじていた。いくら練習しても楽器は上手くならないし、歌だって、演技だってできない。
彼等には、僕は「チビ」とだけ言われ、まるで召使のような扱いを受けた。年齢的にみれば小間使いをする少年というのは珍しくないけれど、僕の育ってきた環境から考えると過酷な仕打ちだった。
でも今考えると、その旅芸人たちは追手の可能性があっても、僕を守ってくれていた人たちなんだなと、ありがたく思う。
まあ、とにかく、子供の頃はそういう扱いを受けていた。
そこから、年齢は十七くらいまで飛ぶ。
いくら才能がないとはいえ、その年齢くらいまで楽器をしていたら、平凡なレベルくらいには弾けるようになる。「もうお前はこれ以上うまくなることはない」と僕の楽器の師匠をしていた人はそう言った。
なるほど、才能がとことんないらしい。
僕は旅芸人たちから離れて、定住地を決めて、働き始めた。帰る場所がほしかったから。とはいえ、手に職などはないし、頼れる知人親戚はいないので、勤め先を探して転々とした。その間、名乗った名前は数知れず。全部、自分で考えたものばかりだった。
僕は孤独だった。
ひとりの女と出会うまでは。
その女は、雨の日に傘をささず、家の前の坂道をいつも濡れて帰る人だった。
あるとき、その女に、僕は傘を差しだした。
見かねて――だったのかもしれないし、なんとなく雨というので妹を連想し、哀しくなっていたからかもしれない。
とにかく、女は、僕を受け入れ、たまに家に入って来るようになった。
女の濡れそぼって黒くなっていた髪は、乾かすと、栗毛で、それもまた妹を連想させた。
一緒に暮らそうなどと、僕も、彼女も一度も言い出すことはなかった。あまり彼女は自身のことを話さなかった。ただ彼女はぽつりと「わたし、暗殺者をしているの」。「暗殺者?」と僕が問うと、「雨のときに傘をささずに歩いているのは、そうしていると血の臭いが薄れる気がするから」と言った。
来たり、来なかったり。
ひと月ほど姿を見せなくて、心配していたころ――
「わたし、黎明を殺すことになった」
彼女が仕事のことを漏らすのは初めてだった。
「黎明というのはだれ?」
「凄腕の暗殺者。黒の髪に、緑の目をしてる。きっと私は死ぬ。死ぬ前に挨拶しに来たの」
黒髪に緑目――?
「その黎明って人のこと、教えてくれる?」
「とても怖くて強いひとよ。超越者。能力は【殺した相手の能力を奪う能力】。南の国のスラム出身で、成り上がり。少し前は貴族の暗殺者をしていたのですって。今は領主とつるんでる黒社会の組織に入ったみたい」
「……それは恐ろしいね」
「でしょう? でもあなたなら勝てるかもしれない」
「僕が? なんで?」
「ええ、私の【幻惑】が効かず、雨の中で私を視認したあなたなら。あなたはきっと、【無効化】の能力かそれに類するものを持っているはず」
「……そんな」
異能なんかいらない。ひとの命を救わない異能なんか。
僕は女には「行かないでほしい」と最後まで言えなかった。
それから一年ほど、その場所に留まっていたけれど、彼女は帰って来ることはなかった。僕もそこから離れた。
その後何年か、身を潜めるように帝国で暮らして、飽きて、楽器を手にして、西の国へ行って。僕は旅芸人たちのお眼鏡に最後まで叶わなかったけれど、一般的な感覚では、上手なほうにいるらしい。前線の兵士の慰安市場に招かれた。給料がよかったので、僕は乗った。
そこで、奴隷の少女と出会った。
正確には、奴隷の鎖をつけただけの、猛犬だけど。
初めて出会ったときに、彼女は犬とかじり合って喧嘩をしていた。古風な飾りのついた鏡をずっと手に持っていることだけが奇妙だった。
なんて大変な女の子なのだろうと思った。市場のなかで彼女の様子をみていたけれど、引取りにくる人もいないし、僕は可哀想で見ていられなくて、しょうがないからご飯をあげた。もう、犬に餌をやるみたいな感覚だよ。おなかが空いていたのかな? それから彼女は毎日、僕のあとをついてくるようになった。
異変は起きた。
ある日、竜が現れた。市場を破壊するくらい、それだけじゃ足らず、地形を破壊してしまいそうなほど大きな竜が。
黒い綺麗な鱗をしていて、赤い目が爛々としていた。
すべてを破壊しつくして、虐殺して、それで一人生き残った僕に、竜は言った。
〈ごはん くれた から つれて いって あげる〉
竜は人の舌を持たない。思念で話す。僕の頭にその覚束ない思惟が伝わってきた。
殺されないために、僕は一緒に行くしかなくなった。
そして、彼女が【竜化】の能力を持つ、脱走奴隷であることがわかった。人間の姿をしている彼女は舌がなくて話せない。竜のときだけ意思疎通できる。しかも、彼女は自由意志で人を殺しているわけではなくて(それも悪い事ではあるけれど)、なお悪いことに、神の命令を受けて暴れているらしい。
〈かみさま の めいれい したがう わたし〉
――神? 神などこの世界にいるまい。
そんなものがいたら、緋雨は八歳で死んでいない。
なんの罪もない緋雨が。
天使のようだった妹が。
死ぬわけがあるまい。
「神様ってどういう人なの?」
〈よろこび の かみ ひとに のうりょく あたえる〉
〈この つよい ちからも もらった〉
「なるほどね。神様から力をもらったから、神様のために力を使っているわけだね」
なるほど、と言いながら、まったく信用ならない神だなあと思った。喜び? 嘘くさい。真に正しい心があるならば、少女にこんな暴虐をさせない。もっと皆から愛されるような異能を授けるだろう。
僕は僕と同じく名を持たない少女に、星蘭という名を与えた。可能なかぎり、彼女を保護すると決めた。彼女の信用ならない神に代わって。僕が。
人間の体のときに、彼女に楽器を仕込むと、彼女はみるみるうちに上達した。
彼女には、所謂才能というやつがあった。僕が七年やった歳月に、わずか三か月で到達してしまえるほどの才能が。少しでもこの芸が彼女の将来の役に立つことを祈るばかりだった。
そして、前線に行き、星蘭と暴れてを繰り返すうちに。
〈せいじょ を ころせ って〉
〈さばく の さきに ある くに で あえる さだめ〉
〈あなた も きっと おもしろく って かみ が〉
「神が僕も面白がるって……?」
果たして、そこで出会ったのは、黎明と憂の二人組だった。最初は彼女たちが《《そう》》であることなんか気付いていなかったのだけれど、喋っているうちにわかった。名乗った咲夜という名前はその場で適当に決めたものだったけれど、親しみをこめて偽名を呼ばれるのは、いつもある種の快楽があった。
街に潜伏している間、星蘭は人間の体だから、意思疎通には限界があるのだけれど、それでも彼女が憂を気に入っているのはわかった。だって噛まないから。彼女は気にいらない生きものは、人間だろうが、犬、猫だろうが、噛むし、ひっかく。
憂が聖女であると、星蘭には伝えられなかった。神が命令するのならまだしも、そんな残酷なことを、僕自身の口からは言えなかった。
そのうちに、誘拐事件。
僕が星蘭を心配していたことはしていたけれど、彼女が竜化せずにそのまま死ぬなんてことはありえない。だから安心していた。
その安心が、黎明たちには、どう見えていたのか。僕はよくわからない。
僕は鮮血姫の城での【竜化】は、意図しないものだと思う。
おそらく神は星蘭に聖女を殺せと命令した。そこで星蘭は初めて神に逆らったんじゃないだろうか。
だって鏡を、彼女は自ら壊したんだから――
あの邪悪な鏡を。
僕はいちど、星蘭が寝ている間に、鏡を覗き込んだことがある。
そこに映っていたのは、世にも醜い、小太りの男だった。男は道化の化粧をしていて、僕に言った。
「君は因果律によって、不思議な能力が与えられているみたいだね」
「因果律?」
「運命と言いかえてもいい。君は宿敵と競ることのできる運命にあるんだ、ふふっ。たくさん遊べるね。僕は喜悦神、君のことはなんと呼べば――」
その気色悪い、背筋をぞわぞわと這うような悪意のこもった声なんて、もう二度と聞きたくはなかった。鏡を伏して、その男の声を遮断した。それ以来、僕は鏡を触ることはなかった。
けれど、男の言葉は僕の空洞の心に反響していた。
――宿敵と競ることのできる運命
僕が黎明と見えたとき、その言葉が予言だったことを知った。
もし、散り際に華を咲かせることができるのなら、この芥のような人生にも、意味はあったと思えるのだろうか。
いや、そう思いたい。
そう思いたかったけど、残酷なものだね。
――黎明を殺し損ねても、まだ生きている、なんて。




