第2話 初めての外出
初めて、ぞうきんを水に濡らして拭く作業をした。
初めて、鍋に具材をいれて、煮る調理をした。
初めて、黎明の靴を磨いた。
初めて、廊下をぐちゃぐちゃに濡らして部下の人を困らせてしまった。
初めて、包丁で自分の指を切ってしまった。
初めて、靴磨きを黎明に褒められた。
「なんや、なんもできひん子だと思っとったけど、細かい作業は得意なんやな」
夜ごはんの時間。黎明と憂は食卓に対面で座っていた。憂お手製の、決して美味しくはない雑炊を黎明は頬張っている。
味は最悪。部下の人と一緒に作ったものの、調味料の加減もよくわからなくて、塩辛い。
部下の人が作った、鶏肉のおかずが美味しいのだけは救いだった。
「……ごめんなさい」
私って本当になにもできなくて、迷惑をかけるだけの存在。
憂は今日一日でそう悟ってしまった。
食事も喉を通らない。美味しくないからではなく、気まずくて。そもそも二人で食事する経験はいままでに一切なく、人前で食べること自体初めてで緊張していた。
黎明の緑の目はなんでも見通すみたいで怖い。
憂は目を逸らし、俯いた。
「アホちゃう?」
「え?」
「なんでそんなに自信過剰やねん? 最初から上手くできるやつなんておらん。外の世界に初めて出たら、できひんのは当たり前やで」
「……慰めてくれてるんですか?」
「慰めてるわけやない。事実を述べているまでや。それよか、はよ食べや。冷めたらまずい料理がまたもっとまずなるで」
ごめんなさい、と言いかけたものの、黎明の目は料理だけに向けられていたので、やめた。代わりに粥をスプーンですくって食べた。とても、まずい。食べられたものじゃない。
本当になにもできない自分。
明日からもこれが続くのかと思うと、気が重い。
塔ではなにもしなくても生きられたから、なにも考えなくてよくて楽だったのに――
「あんたが使い物にならんのはあんたの責任やない。それだけ、なにもできないほど、飼い殺しにされてたってことや。鶏や豚なんかの家畜といっしょ。ただ生きてるだけ。ほんまに良かったな、出られて」
憂はその言葉で、はっとする。
そうだ。今までの私は飼われていたんだ。
「人は生きとったら働くもの。お給金が出る仕事だなんだとかは関係ない。ただ生きるために必要な活動をするんや。それが人間の最低限の条件」
「はい……」
人生哲学と励ましの想いを感じて、憂は少し表情を明るくさせた。
「ってことで、明日からも馬車馬のように働いてもらうわ」
黎明はにかっと、白い歯をみせて笑う。
「だから本来ならここで夜の世話もさせるところやけど、その鳥の骨みたいな体で抱きたくはならへん。免除、免除。ちゅーことで、今日ははよ寝ろや」
「……夜の世話ってなんですか?」
「子供は知らんでええ」
一瞬、ちょっと固まって、憂は遅れて理解した。
頬が赤く染まっていく。
え? あれ? そういうこと? な、なんで、そんなこと急に言うの?
「冗談や」
黎明はそう言うと、顔を背けて何事もなかったように食事を再開した。
憂は恥ずかしくて、やっぱり黎明の顔が見られなくなってしまい、黙々とごはんを口に運んだ。
◆
朝は大きな釜でご飯を炊く。
午前中は洗濯。
昼は部下の人が作ったごはん。黎明はなにか会議だとか、領地(?)を見回るとかで、不在であることが多い。
午後は階段や廊下の雑巾がけ。
夕方から夜にかけて部下の人といっしょにご飯を作る。
夜は黎明といっしょにごはんを食べる。
後片付けは部下の人がやってくれる。
憂は黎明の靴磨きをしてから、就寝。
そんな感じでおおよその一日のスケジュールが決まってきた。
憂は最初の頃、お皿を割ったり、廊下をべちょべちょにしたりして部下の人を困らせていたが、慣れてくるとそんなことも起きなくなってきた。
部下の人たちはみんな憂を「真面目で良いお嬢さん」として扱ってくれる。
少しずつ、部下の人の顔や名前を覚える余裕もでてきた。
「憂の部屋にも女の子らしい家具を用意してやれ」
と、黎明が指示したおかげで、装飾のついた立派な鏡や、化粧台、かわいらしい箪笥なども運びこまれてきた。街歩きなどしないのに、服や靴も上等なものが用意されはじめている。塔にいたときのような質素な服でいいのに、と思う。着飾るのは落ち着かない。
「おい、自分は本が読めたよな? 暇なときには、俺の書斎にある本を読んもええで」
「本、好きです。ありがとうございます」
就寝前に書斎から借りてきた本を読むのが日課になってきた。と言っても、黎明の本棚は難しくて厚い専門書ばかりであまり面白くはない。少しでも外の世界や、黎明の思考を知りたくて、読んではいるものの、文字を追っていると眠くなる。文字は教えられたけど、勉強は最低限しかしていないので、専門用語が多いとついていけない。
でも、なんだか毎日少しずつ仕事を褒められて、自由にしてもらえることも増えて、楽しいような気もする。塔での妄想するしかなかった時間がだんだん遠のいていくのを感じる。
……ただ、命を脅かされる危機感も去ったわけではない。もし黎明が殺害するように命令を受けたら、きっと憂は殺されてしまう。逃げる方法などない。
だから気を引き締めねば。
――できることなら黎明をもっと知らなければ。
黎明は憂を、空中で手を使わずに受け止めてみせた。明らかに異能だろう。そして聖女という力・地位も、憂はよくわかっていない。
わからないことが多すぎる。もっと黎明を、世界を、知りたい。
そんなころだった。
「ぼちぼち外に出となってきたやろ? 今日は休みやからいっしょに市場に行こか」
黎明は朝食の席で、いきなりそう言いだした。
「は、はい……!」
「そないに緊張せんでええで。俺の領地やし。危険はあれへん。最近は隣の組の侵攻も落ち着いてとるしな」
隣の組とか、領地の意味はまだわからないけれど、訊き返すのもなんだか怖かった。
憂はもじもじと指を机の下で揉んだ。
「わかりました。着替えてきます」
「あんたの思う、いっとうかわいらしい服選んでおいで」
「はい……!」
と言いつつ、憂は部屋に戻り、白いワンピースと、刺繍の入った靴を選んだ。おしゃれというものがわからない。塔での格好と似たりよったりなのを選んでしまう。
黎明に気に入られるか不安だったが、憂の姿を見た彼は、
「お、自分、着こなしてるやん」
と、褒め(?)てくれた。
憂の心に沈んでいたものが一瞬ふわりと浮いた。
館の外へ出るのは、ここに来たとき以来だった。
今日はどこまでも青い空がひろがる快晴で、風も吹いていて気持ちがいい。
「その白髪は目立つっちゅーほどでもないけど、北方民族を思い起こさせるから、帽子でも被っとけ」
黎明はそう言った。
部下の人に準備よく飾りのついた麦わら帽子を渡されたので、深くかぶる。
初めての外。
塔の窓から眺めては想いを馳せていた、街。
やっとそこを歩ける。
憂の目は、きらきらと輝いて、知らず知らずのうちに口元が綻んでいた。
◆
「わあ、街ってこんなふうなんだ……!」
市場はたくさんの人で賑わっていた。黎明のような、黒髪の人が多い。たしかに憂の白髪はあまりいないようだ。
様々な人の往来する道で、天幕の下で果物、魚、干し肉、なんだかわからないきのこを乾かしたやつ、蓑、薬のようなもの、それ以外もいっぱい。細工、工具、宝石、金属、理解が及ばないようなものが、なにからなにまで売られている。
憂は装飾品の店で足を止めた。
「色のついた石、好きなん? 好きなもの買ぉたるから選びや。これとかどう?」
「買ってもらうのは恐縮です……」
「給金なんか渡したら全部騙し取られそうやしな。俺が選んでやる」
黎明は紫の石がはめ込まれた指輪を指すが、憂は首を振って、緑の石を選んだ。
黎明の目の色。
思い出にとっておけるものがほしいと思って、選んだ。
黎明がどう思ったかはわからない。
ただ憂はその指輪を大事に右手薬指に嵌めた。
店先に並んでいるのはどれも魅力的な品物。
「というか、目ぇ離したらすぐ消えそうやな。手、繋ごう」
憂と黎明は並んで歩いていたが、憂が店の商品につられてしょっちゅう足を止めるので、終いには黎明と手を繋ぐことになった。
おそるおそる、黎明の手袋越しに手を握って。
握り返してくる手のひらの大きさに驚いた。
「なんや? どきどきしとんの?」
「いや、ただ、男の人に手を触れられたのが初めてで……」
「俺も子供の手握るのは初めてやねん」
にかっと黎明が笑うので、憂はムッとする。
「子供、子供って言いますけど、私はもう十八歳で……」
言いかけた直後、急に右からぶつかってきたもののせいで、二人の手は離れてしまった。
どころか、憂は尻もちをついてしまう。
帽子がふわりと浮いて落ちる。白髪が露わになった。
「な、なに?」
「邪魔なんだよ!」
子供の声で吐き捨てられて、憂は動揺して二の句が継げない。
そのまま置いていかれて、あ、と思ったときには……
「指輪がない……」
憂は震え出した。
「大丈夫か?」
黎明が手を差し出してきた。
だが憂はそれを無視して、地面を探すために這いつくばった。
見ていた人たちは走り去る子供の勢いにぎょっとして一瞬足を止めていたが、すぐに歩き出す。砂埃が舞う中を憂は四つん這いになって指輪を探していた。
「ない……」
つぶやく。
指先が冷えていく。涙がこぼれそうになる。
「あの子供……ッ」
憂は気が付けば走り出していた。あの子供が走っていた方向へ。
「憂!?」
黎明の制止の声が背中にかけられたものの、憂には聞こえていなかった。




