第1話 誘拐犯との邂逅
閉じた世界のなんと平穏なことだろう。ここには冷たい壁しかないけれど、静謐に満たされて、穏やかな空気が流れている。
先生は外の世界は争いが絶えないと言う。憂には特別な力があって、外の世界に行けば殺されてしまうらしい。
だから憂はここに囚われることを受け入れている。先生から与えられる食事だけ食べ、差し入れの本を読みながら、牢のついた部屋で暮らしている。
家具は最低限、服は白地以外ない。部屋は硬く冷たい石でできており、憂はその材質の名を知らない。
塔の窓からは、広大な庭と、遠くに民家、それから海が見える。この部屋はだいぶ地上から高い位置にあり、窓から落下したら怪我をすることは確実だ。下手したら死ぬかもしれない。憂が幼いころはここから飛び降りて逃げることを考えたこともあったけれど、いまは痛いのが嫌だからそんなことは絶対しない。
憂は景色を眺めながら、想像を巡らす。
町の娘が幼馴染に恋をする物語。モンスターが跋扈する世界を旅する冒険譚。そしてヒーローがヒロインを救い出す話。
――物語みたいに、私を迎えに来てくれる王子様がいたらよかったのに。
そんなことを妄想しながら、憂は自分の命がここで終えることを確信している。
それが覆ることは万に一つの、絶対に起こることのない奇跡だと思っていた。
「嬢ちゃん、ここで会ったんが運のツキやで。今から俺にさらわれてほしい」
胡散臭い眼鏡に黒髪のガタイの良い男――黎明に出会うまでは。
◆
夜半のころだった。憂は眠っていたが、人の怒声と、金属音がして目が覚めた。塔の下の方で、なにか騒ぎが起きている。
ネグリジェを着た自身の体を抱きしめる。
階段を上がってくる、ほのかな灯りの気配も感じる。
――塔の外では争いが絶えない。外の世界に出れば憂は殺されてしまう。
先生の言葉を思い出して、恐怖に身を竦めた。どこへも逃げる場所はない。鍵のかかった牢から逃げる術など持っていない。唯一、窓はあるけれど、そこから落ちても墜落死だ。自殺か、他殺か、究極の二択しかない。
「ここだ! ここに女がいるぞ」
「こいつが聖女だ」
にわかに騒がしくなり、見知らぬ山賊のような男たちが牢に迫ってくるのを見て、憂は硬直してしまった。彼らは抜き身の剣を持っている。
ぶるぶる震えて、指一本動かせない。呼吸が浅くなる。
脳裏によみがえるのは、先生とのわずかな思い出――。たいした記憶ではないけれど、本と一緒にドライフラワーをもらって嬉しかったこととか。ああ、これが走馬灯ってやつ?
「クソ、この牢には鍵がかかっている」
「おい、下から鍵束とってこい!」
牢が堅牢なつくりをしているおかげで、男たちはすぐには憂に迫ってこられないようだった。
憂はハッとする。
――ここで殺されるなら、一か八か、賭けてみる!
憂はどこにそんな力が残っていたのか自分でもびっくりするほど俊敏に動いた。窓を開け放つと、下も見ずに飛び降りる。
全身の骨が砕けて、中身が飛び散って、本当に死ぬと思った。
けれどそうはならなかった。
地面にぶつかる――と思った瞬間、ふわりと体が浮いた。まるで誰かが受け止めてくれたみたいに、優しい受け止め方だった。
そのままゆっくり足から着地する。裸足が土の上にあたる。初めて知る、土の柔らかな湿った感触。憂は堅い石でできた部屋しか知らなかった。
「なんやと思たら、聖女さんが自分で俺のとこに落ちてきてくれたんか。これはけったい」
目の前には見知らぬガタイの良い美丈夫が立っていた。
周りの闇に溶けるような黒い服に、色眼鏡。その奥では緑の目が鋭く光っている。まるでその目は憂を射抜くようで。男に睨まれて、憂は動けなくなってしまった。
男は手袋をした手をこちらに差し出す。
「まあ、悠長に事情を説明してる暇はないし」
にやりと薄く笑う。
「嬢ちゃん、ここで会ったんが運のツキやで。今から俺にさらわれてほしい」
憂がその手をとれず、じっと見ていると、男はするりと動いて憂の肩を抱いた。
「ぐずぐずしとったら死ぬで」
そのとき、背後で爆発音が響いた。同時に硝子の割れる音も。
びっくりして振り向くと、塔の、憂が落ちてきた窓からモクモクと煙があがっていた。硝煙のにおいがする。
「さ、さっさと逃げるが勝ちよな」
男に手を引かれるまま、憂は不安げな顔をして、駆け出した。
が、憂が靴を履いていないことに気が付くと、男は舌打ちして憂を背負った。
「めんどくせえ女」
彼が手を握って走っているからついていっているだけなのに。
憂はどこか茫然としてしまって、言葉が出なかった。なにもかもこの事態に頭がついていけていなかった。
◆
「俺の名前は黎明」
男はそう名乗った。
ここは男の事務所……らしい。塔から少し離れたところに仲間の馬車が待ち構えていて、それに乗せられて、ここまで来た。
憂はさきほどから周りをキョロキョロしていた。事務所というには立派な館であった。赤いじゅうたんがひかれてあり、裸足にもやさしい。
廊下の鏡で憂は自分の恰好がぼろぼろであることに気が付いた。艶のない老婆のような白髪は肩ほどまで伸びて、同じく真っ白い顔。紫の目には生気がない。頬は汚れで黒くなっている。服も、ガウンを着せられたが、ネグリジェは土と泥でめちゃくちゃだった。
通された応接間には、絵画や壺などの豪華な調度品が所狭しと飾られている。
憂はここに自分がいていいのか不安になった。なんだかこの館のなかで憂は惨めで汚いような気がした。
しかし目の前の男は、やはり涼しい顔をして、憂のそんな様子に気が付かず紅茶を飲んでいた。黒髪は後ろで三つ編みにされている。
「先に言っとくわ。俺は聖女を容認する派閥に雇われた傭兵や。あんたがどこまで知っとるんか俺は知らんから、いちおう言うとく。あんたのおった塔は、聖女を認めない派閥。襲撃したのは聖女を認めない派閥の過激派。内ゲバ……というとちょっと短絡的やな。事態はもうちょい複雑や。この説明、いらんか?」
「…………いります」
憂は舌がもつれそうになりながら、答えた。頭のなかは非常に混乱していた。まずこの黎明をどこまで信頼していいかわからないし、そういった話自体初めて聞くものだった。
それに、聖女って、なに?
「塔は聖女否定派なんやけど、聖女は人間なんだから、ただの人としての生活を送るべきという考え方をしとったんや。けどな、聖女否定派の過激派は、聖女は人間ではないから、殺すべきだとしている。ここでぶつかりあったんやな。俺はその騒乱を予見した人に頼まれて、あんたを迎えに行ったわけや。生きとって良かったなあ、自分。てかこんだけ急に話されてもわからんやろ。隔離されてるって噂やったし」
軽く言われて、うなづく。
「まあ、ゆっくり飲み込んだらええ。迎えに行く以外の仕事は頼まれてへんからな。命令があるまで待機や、待機。あんたにはここにいてもらうで」
「……私、外の世界を全然知らなくて……ここで、なにをしたらいいですか」
「え? なにが?」
「な、なにかしてほしいこととかありませんか!? 仕事とか! なんでも!」
憂の頭の中では、この男に媚びねば死ぬという予想があった。
黎明は少し考えると、ふっと笑った。
「聖女様ってもっと鈍いやつかと思ってたけど、あんたはただの少女みたいやなあ。そういうわかってるやつは好きやで。じゃあ館の掃除でもしてもらおうかな。外の世界のことはちょっとずつ教えたるで」
「わ、わかりました」
「ええ返事。あとあんた、裸足やったな。靴これ使いぃ。その汚れた格好でうちの絨毯汚されたらかなわん。風呂も用意させるからな」
黎明は部下に指示を出して、憂を部屋に案内させた。部屋は小さな屋根裏部屋だったが、自由に使ってよいと言われた。ひとりになって、憂はようやく落ち着いた。扉を背に、ずるずるとしゃがみこみ、俯く。涙がこぼれた。
先生はどうしてしまったのだろう。
私はこれからどうなるのだろう。




