2-26 堤の葛藤
――それから、二日後
ピンポン。ピンポン。ピンポン。
プルルルル、プルルルル、プルルルル。
「開けてくださーい! いるんでしょー!?」
悪意のあるインターホンのベルも電話も鳴りやむ事はなかった。朝も、昼も、夜も。
民衆の正義という名の好奇心は親子から静寂を奪い去ってしまった。古豊千はあれ以来一睡も出来ずすっかり骸骨の様に生気を失ってしまった。
「おかーさん……」
「……大丈夫だからね」
古豊千は何も理解出来ずに不安がる我が子を抱きしめる。だがそれが気休めにもならない事は彼女自身がよく理解していたのだ。
もし息子が普通の家庭に生まれていたのならばここまでの事にはならなかったかもしれない。けれど自分が普通ではなかったせいで息子はもう決して普通の人生は歩めなくなってしまった。
もう何もかもお終いだ。どうすればこの子は全ての悪意から護る事が出来るのだろう。
そして彼女はある事に思い至り精一杯優しい笑顔を浮かべてこう告げた。
「そうね、おやつを食べましょうか。ちょっとパンケーキを作るから待っていてね」
「ほんと? わーい!」
息子はその真意を理解せずに無邪気に微笑み、古豊千はいつもそうしている様にキッチンへと向かった。
今日のパンケーキは飛び切り美味しいものにしよう。いつもよりも愛情をたくさん込めて。
そして彼女はいつもの材料に加え、息子を苦しみから解放出来るとっておきのエッセンスを探しに物置へと向かった。
古豊千はそれを手に取ってジッと見つめる。
一時期家庭菜園にハマって購入はしたものの長らく使っていないので賞味期限があるならとっくに切れているだろう。出来れば最期の晩餐の味を損ねなければいいのだが。
……………。
………。
…。
マンションの事件の真実を自らの手で暴いてしまった俺は陰鬱な気分で曇天の街を俯きながら彷徨うように歩く。
あれから久しくホテルには戻っていない。何となくホテルには戻りたくなかった。きっと戻ればしたり顔の真矢が待ち構えているだろうから。
ポツ、ポツ。数日前と同じ様に雨が降り始めるも俺は濡れる事なんて気にせずに街を歩いていた。
歩道の泥は洗い流され側溝に吸い込まれていく。いっそ自分も溶けてドブの中に入りたかった。
「ほら」
しかし身体を濡らす雨が突然止む。
不思議に思って顔を持ち上げるとそこには慈悲深く微笑む真矢の顔があったのだ。
彼女は捨てられたダンボールの中の子犬にそうする様に自分が濡れる事もいとわず傘を差しだした。
真矢は全てを見通していたのだろう。最初からこうなる事を。全てはこいつの思惑通りだったのだ。
けれどズタボロに傷ついた俺はそれでも――その優しさを求めざるを得なかったんだ。
「温かいコーヒーでも飲もうか」
「……ああ」
俺は彼女に言われるがまま喫茶店に入る。その後は全て彼女に委ね、俺の目の前にはいつの間にか湯気の立ち上るコーヒーが置かれていた。
「古豊千さんは大変な事になっているみたいだな」
「そうだね」
二日ほどホームレス生活を送っていたが、元オリンピアンの息子が人を殺害し隠蔽工作を行なったという衝撃のニュースは警察が発表すると同時に瞬く間に世間を駆け巡ったので俺も当然それを知っていた。おそらく彼女と朝日君が日の当たる場所で生きる事はもう不可能だろう。
「お前はいつから気付いていた。この事件の真相に」
「最初から。玉砂利の上でこの寄木細工の欠片を見つけた時からね」
真矢はそう言ってポケットからハンカチにくるんだ寄木細工のひし形の欠片を見せてくれた。
きっと落下した時に壊れたのだろう。彼女の前に隠蔽工作をした今在家も急いでいたのでこれには気付かなかったらしい。
「そして財布を盗んでいる今在家がいたから僕は二秒でシナリオを考えたんだ。折角だから彼を犯人にしようってね」
「相変わらず悪知恵が働くんだな」
「それでごはんを食べているからね」
俺はその頭の回転の速さに脱帽するしかなかった。こいつは生き様はともかく間違いなく天賦の才を持つ探偵だ。ちゃんと普通にやれば本当に歴史に名を残す様な名探偵になっていただろうに。
「コーヒー飲まないのかい? 冷めるよ」
真矢はコーヒーをなかなか口に含まない俺に飲む様に促す。折角だからもう一つ聞いておくか。
「楊彩文といい今在家といい、お前が犯人に仕立て上げたのは穂久佐村連続幼女殺人事件の関係者ばかりだ。それには何か意味があるのか? 例えば復讐とか」
「そうだねぇ。だって警察ならちゃんと調べてくれるだろうし。実際警察の知り合いからチラッと聞いたけど楊彩文の取り調べはもっぱら過去の事件についてらしいよ。もう少し待てば新しい情報が手に入るんじゃないかな」
「つまりお前の目的は情報収集兼復讐だったわけか」
「否定はしないよ。だけど僕は本当に清廉潔白な人間は冤罪のターゲットにしない。そこは心に決めている」
「そうか」
無論相手が善人であろうと悪人であろうと彼女のやっている事は犯罪だ。しかし俺はその美学をほんの少しだけ理解出来る様になってしまったんだ。
「まあ今在家が罪を認めたのは予想外だったけどね。それも古豊千を庇うために隠蔽工作までして」
「……ああ。真矢にはその理由がわかったりするのか」
この事件で最後に残った一番の謎はその部分だろう。何故今在家が古豊千のためにそんな事をしたのか。
殺人事件の起訴をした検察官と被害者の関係者という間柄では動機としては弱い。もしかしたら何かしらの接点があったのかもしれないが俺達にはそれを知る由なんてなかったんだ。
「そうだね、多分だけど彼は……いや、そこは本人の口から聞くといいだろう。彼の住んでいる場所に行ってみるかい?」
「そりゃ会えるなら」
「そっか。ここによくいる場所の住所だ。手土産に酒でも買っていきなよ。日本酒が好きらしいから。ついでに穂久佐村連続幼女殺人事件に関する話を聞いてくれたら嬉しいかな」
「ああ、わかった」
真矢はスマホのマップ画面を開き指でスワイプして詳細な住所を教えてくれる。
ここまで関わったのなら責任をもって全ての真実を明らかにしなければならない。俺は腹をくくってコーヒーを飲み高ぶる精神を落ち着かせた。




