女王蟻と、蟻の王
銅鑼が演習の終わりを告げる。
過去と同様の演習内容であったことで兵士たちは顔には出さないが内心で安堵していた。
そんな気の緩みを突くように、指揮官より号令がかかる。
「よし、隊に分かれて並び直せ!」
演習の終了後は指揮官からの訓示と総評があって解散となるはず。
常にない指示に、さわりと空気が揺れた。
そして並んだ兵士の背後に回り込んだ兵士長の手で突然、水がぶっかけられた。
「なっ!」
「冷たい!」
「真冬ではないし、大袈裟に騒ぐな!」
甲冑越しであろうと、水に触れた肌は風に晒されて冷えるのも当然。
だが理不尽とも思えるような叱責を受けた兵士は黙り込む。
陣幕の奥から漂う、ただならぬ雰囲気を感じとったからだろう。
そして兵士達の視線が、前列に並ぶ兵士の甲冑の背に付けられたあるものに釘付けとなる。
いつの間に、こんなものがつけられたのか?
まるで絵の具のついた手で触れたような人間の手型だった。
あるものは不吉なほど鮮烈な青で、あるものは遠目から見てもよくわかる黄色で甲冑の背についていた。
「全員、回れ右!」
号令に従って、兵士が陣幕のほうへ背を向ける。
地上から高い場所へ設置された来賓席からは、押された手形の数はよく見えた。
全体からみれば、二割から三割の兵士の背に手型が押されている。
「思ったより多いね」
「この様子では追加の訓練は必須でしょう」
帝である劉尚の声に、軍部の長たる青隆輝は愉快そうに口角を引き上げる。
ただ顔は笑っていても、蒼い狼と呼ばれるにふさわしくその眼光は鋭い。
眼下では劉尚の指示により背に手型を押された人数が集計されていた。
その最中に、陣幕を捲って紫鄭舜がゆっくりと姿を現す。
最近宰相位を引き継いだばかりであったが、当主に代わり若くして紫家を仕切ってきただけに貫禄は十分であった。
「無事に帰還したかい?」
「はい、お気遣いをいただきありがとうございます」
氷のようと評される顔に穏やかな笑みを浮かべ、優美な仕草で腰を折る。
そして彼は何事もなかったかのように劉尚の背後に侍った。
程なくして集計が終わり、速やかに帝の手元へと結果が届けられた。
資料に全員が目を通す。
やがて劉尚がぽつりと呟く。
「まさかここまで鄭舜の予想どおりとは思わなかった」
鄭舜は、ほんの少しだけ口角を引き上げるた。
資料に目を通した全員が同じことを思ったのだろう、場の空気がさわりと揺れる。
そこには手型の合計数だけでなく青色と黄色の手型の数も、それぞれ分けて記されていた。
そして演習場では背中に押された手型について指揮官により説明がなされる。
「甲冑背に押された手型は、本日のためにアデラ妃が開発された特殊な塗料が使われている。我々への妃殿下からの贈り物だそうだ。この塗料は無色透明であるけれど、水をかけると反応して色が浮かび上がるというもの。その塗料が兵の背後に人の手によって塗られていることの意味をあらためて説明する必要はないだろう。手型のついている者については、帰還してから追加の訓練が課されることを申し伝えておく」
背に手型のついていた者は揃って顔色を悪くした。
軍の追加の訓練とは非常に厳しいものであるというのは、すでに身をもって知っていることだったからだ。
それも、今までよりもさらに厳しいものが課されるだろう。
なにしろ背に手型がついている理由とは、背後から攻撃を受けたという証拠にほかならない。
最後に総指揮官である青隆輝の言葉をそのまま伝えるとして、指揮官は一層厳しい表情を浮かべた。
「命があって、よかったな?」
ざわりと空気が揺れる。
兵士たちを戦慄させて、演習はつつがなく終了した。
「……多少は変わるといいが」
劉尚の呟きを鄭舜が拾う。
無言で首を垂れた彼の脳裏には、先日、南陵関で行われた会合の様子が蘇る。
発端は、難しい表情をした隆輝の言葉だった。
「小競り合いがなくなったせいで、気の緩みが見受けられる……なんとかならないか?」
つまり直近で戦が起きる心配がないせいで、緊張が緩んでいるということか。
南陵関はかつて戦の絶えなかったバセニア皇国との国境にある。
同じく国を接しているランダールと共に、両国との緊張が続いていたというのは、決して昔の話というわけではない。
バセニア皇国からは和平の証としてアデラ妃が輿入れし、ランダールについては国を潰す代わりに賠償金の支払いが現在も続いている。
そしてランダールと同時に平安国へと侵攻しようとした広寧国もまた、現在の状況は不安定だ。
高額となった成安国への賠償金の支払いだけでなく、たて続けに明らかとなる国の不祥事に王家は国民からの求心力を失いつつあるとして信頼回復に躍起になっているところだとか。
現状、自国を取り巻く状況は落ち着いているとはいえ、再び争いが起こってもおかしくはない状況だ。
そして戦が起きれば最前線のはずの南陵関ですら気が緩んできているというのなら、なんらかの手を打たねばならないだろう。
「そう考えるとアデラ様の開発された塗料は、まさにうってつけでしたね」
「彼女が何手先まで読んでアレを作ったのか、私にもわからないよ。とはいえ、これはこれで今後も使い道はありそうだし他国からも問い合わせが来ているしね。我が国の開発力を示すという意味でも今回の目標は達成できたかな」
劉尚は溺愛する妻を思い浮かべて、ほんの少し表情を緩めた。
故国では糸の切れた凧のようと貶されていた彼女は、この国では自由を謳歌している。
そんな彼女が興味の向くままに開発した農具や補助器具はこの国をさらに潤わせた。
彼女が開発した塗料のお披露目と他国への軍事力の誇示。
今回の演習には表向き二つの目的があったのだ。
「それでは、こちらも結果を知らせようか」
劉尚は陣幕内に設えた席より、ゆったりと腰を上げる。
表には出さないもう一つの……裏の目的を果たすため、陣幕をくぐった。
そこには紫鈴麗と青海が劉尚の動きを読んでいたかのように片膝を付き、胸に手を当て頭を垂れている。
二人に頭を上げさせた劉尚は労う気持ちを込めて、にこやかに微笑んだ。
「此度の演習における働き、大義であった。本来は表に出さないはずの君たちを引きずり出しただけの効果はあったよ。これで気持ちの緩んだ兵を一から鍛え直すことができる」
彼らは今一度深く頭を下げた。
だが顔には出さぬものの、内心では間近で見た兵士の緩慢な動きに呆れていたのだ。
表立って戦がないというだけで、一旦裏に回れば他国との緊張関係は続いている。
裏の人間にとっては、戦争中も平和であっても緊張が途切れることはないというのに……。
むしろ平和な時代を一刻でも長く保つために、諜報活動は活発化する。
「今回の件に関わる報償は紫家を通じて支払われるだろう。これは国からの特別手当として受けてほしい」
国から報償をもらうなど、前例がなかった。
裏の人間へ国に対する忠誠心を高めるためでもあるのだろう。
にこにこと劉尚は人の良さそうな微笑みを浮かべている。
ただ鈴麗は、この場に二人を呼んだのは別の目的がありそうだと予想していた。
青海もなんとなく胡散臭そうなものを見る目で見ているからたぶんアタリだろう。
「それからもう一つ。今後、活発化するだろう他国への諜報活動を円滑に進めるため諜報機関を設けることにした」
近くに人がいないことを知っているとはいえ、不用意にこんな開けた場所で口にすることではないだろう。
念のためと、周囲の気配を探りながら鈴麗は訝しげに眉を顰めた。
「紫家に倣って、蟻と名付けたよ。この機関には紫家だけでなく青家と陶家からも人を選んで一つの組織を編成することにした」
つまり、裏の人間にとっては身元の引き受け先が家から国に変わったというだけだ。
鈴麗は内心で首をかしげた。
この話を、なぜこの場で私たちに?
所属変更だって、いつものように鄭舜様を通じて指示を出せばいいだけのことだ。
鈴麗は、つと視線を主へと向ける。
彼は微笑みを浮かべながら心得たように頷いた。
「劉尚様、今までにない状況に二人が困惑しているようです」
「ああ、公の場ではないから直接聞きたいことは聞いてかまわないよ?」
軽く劉尚が答えると、鈴麗は口を開いた。
「この場に私たちを呼ばれた理由を教えていただきたいのです」
「うん、もっともな疑問だ」
すると劉尚様は鄭舜様が差し出したあるものを受け取る。
見慣れた形をしたそれに、鈴麗は目を見張った。
「青海。王家の蟻をまとめる王に任ずる」
「……は?」
「おめでとう、昇格だ」
数々の修羅場をくぐり抜けてきたはずの青海の口がパカリと開いた。
彼の凶悪顔が、ここまで可愛らしく見える日が来るとは正直思わなかったわ。
鈴麗は唇の端を引き上げた。
「そして紫鈴麗。あなたには女王蟻として国のために働いてもらいたい。……ただし、蟻から切り離して引き続き単独行動を許そう」
「御意に」
私は深く胸に手を当てて、礼の姿勢をとった。
だから私たち二人をこの場に呼んだのか。
青海を頭とする蟻と、蟻とは離れて単独行動を許された私。
彼はもう部下ではない。
今このときから、私たちの道は分たれた。
青海は、とまどうように兵隊蟻の紋様が刻まれた犬笛を受け取る。
その頼りない背を、私は軽く叩いた。
「胸を張りなさい。私に並んだのだから萎縮することはないのよ」
「……は? 俺が姐さんに?」
「青の塗料はあなた、黄色の塗料が私。手形の数が同数であったからこそ、頭として並ぶことができる」
「まさか、そんな……本当に?」
「言っておくけど全力だからね? 手を抜いたと疑われるのは私の矜持が許さない。」
それからニヤリと笑う。
「昇格おめでとう。これからは別行動だけど手が必要なときは声をかけてね」
「え、いきなり俺が仕切るの?」
「そう、今からよ。要請がなければ互いの領分には手を出さない協力関係というのも魅力的だと思わない?」
「部下は他家の人間もいるのか、他家との一から関係構築なんて俺にできるかな……」
「蟻の人選と最低限の教育くらいは言われなくても手伝うわよ? 紫家と他の家では習性から違うもの。新たに掟を作る必要があるものね」
蟻の巣にだって最低限の規律は必要だ。
混乱が予想される蟻の巣に一定の秩序をもたらすこと、それは女王と呼ばれる私にも無関係ではない。
放心したような青海に、私は心からの笑みを向ける。
頭として彼と出会ったとき、余所者に対する反感と反発で荒れ狂う仲間内にあって冷静さを失わなかった人だ。
そして偏見なく私の実力を測り、信頼に足ると判断すれば全力で尽くしてくれた。
……顔には出さなかったけれど、どれだけ心強かったことか。
巣全体が国のように構成された蟻の集団には、王と女王が並び立つという。
彼が頭となるならば協力することに不安はない。
そんな満足そうに微笑む鈴麗の側で、表情を伺う劉尚の手元には結果を知らせるものとは別の報告書が握られていた。
たしかに二人の手形の数だけで比べれば同数だ。
ただし青海の手形は押された位置にバラツキがあるのに対して、黄蟻の手形は狙ったように甲冑のど真ん中にだけ押されていたという。
人の動きに呼吸を合わせ、緩急をつけながら、中心を狙って背に手を押し付けたわけだ。
一列に脱いだ甲冑を並べたとき、ほぼ同じ高さ、同じ位置に寸分違わぬ黄色い手形が並んでいるところを想像する。
……人同士が激しくぶつかり合う戦闘中に、そこまで繊細なことができる人間がいるとは思わなかった。
鈴麗の計り知れない底力に戦慄する。
悟られなかったという点においては青海も同率で優秀だ。
だが黄蟻のほうが人外じみた技量が際立つぶん禍々しく、まるで死を知らせる予兆のようだと兵士達の目に映ったらしい。
その上さらに、染料ののっぺりとした黄色が恐怖を掻き立て、彼女の手形は『不幸を呼ぶ黄色い手』と呼ばれ兵士達を慄かせた。
劉尚は唇を歪める。
たしかに『危機感を高めるよう、バレなければ派手にやっていい』とは指示したけれどね。
さすがに恐怖心を植え付けろとまでは言っていないよ?
今一度、報告書に目を通しながら苦笑いを浮かべた。
手形の数は同数。
ただし、技量は女王のほうが上ということだ。
次でラストです!




