終幕 女王蟻の献身
劉尚は顔に出さずとも、内心では驚いていた。
自分も鍛錬を重ねてきたからこそわかる。
実際の戦闘を想定した場で同じことをしようとしても間違いなくできないだろう。
彼女がこれほど技術を持ち合わせていたなど想像もしていなかった。
いや、むしろ肉体的には男性に劣るからこそ技を磨いて補うしかなかったのか。
それに二人の技量の差を事前に指摘していた鄭舜の見立てがここまで当たるとは思わなかった。
もちろん青海には彼の持ち味がある。
技量の差は上に立つ我々が知っていればいいことであり、あえてその差を口にはしない。
それでも、今回の件で気づかされた。
彼女こそ、誉れ高き黄家の最高傑作。
それを当時の成安国は戦の混乱を収めきれず手をこまねいていたために、みすみす手放してしまったのだ。
演習の前に挨拶を交わした黄家現当主の血のように不気味な猩々緋色の瞳を思い浮かべる。
表向きは彼が黄家当主の名を継いでいた。
だが本当のところ、当主には一滴も黄家の血は流れていない。
抜き出た力とは、ときに人を不幸に陥れる。
選ばれし類稀なる血を引く二人が、血統を隠し、国を違えなければ、ささやかな幸せすら得られないとは。
傲慢さゆえに滅びた紅家の猩々緋が成安国では英雄となり、戦の果て国を追われた黄家の生き残りが苟絽鶲国で蟻の女王となった。
広寧国と緊張状態が続いている成安国は英雄の力を必要とし、紅家の血と武力を尊ぶだろう。
そして平和な時代を暗躍する裏の技術が欲しい苟絽鶲国は、黄家の血と知識を重用する。
形は違えど力を望まれた彼らが、自身の手を血で汚さない日は訪れないかもしれない。
それでも今まで苦労したぶん、幸せになって欲しいものだ。
子供を授かったから今だからこそ、余計にそう思う。
とはいえ、アデラも心配していたからちゃんと釘は差しておかないと。
国の安定と発展が、二人の幸せにも繋がるのだから。
自身の複雑な心境を綺麗に隠して、劉尚はにこりと笑う。
「ちなみに鈴麗には重要な仕事が別にあるから、そちらが最優先だよ」
一方で、名指しされた鈴麗は訝しげに首を傾げた。
国から任されていた重要な仕事なんてあったかしら?
鄭舜様は小さく笑って、とまどう私の手をすくい上げると迷うことなく指先に唇を寄せた。
色気がダダ漏れて、なりゆきを見守る周囲の目が点になる。
……いきなり何するの!
飛び上がりそうな内心が表情に出ないよう、羞恥心を無理矢理抑え込む。
彼の表情が心なしか嬉しそうに見えるのは、たぶん気のせいではないだろう。
そんな鄭舜様を咎めないばかりか、劉尚様は清々しい笑顔で言い切った。
「女王蟻には後継をもうけるという重要な任務があるからね」
「……!」
「アデラが、君にこれから生まれる子供の乳母になってほしいそうだよ」
国を跨ぐような仕事から解放された代わりに、今度は次代の帝のお守りをすると?
鈴麗は想定していなかった怒涛の展開に呆然として頭を抱えた。
「鄭舜から聞いていると思うけれど、君が自身で紫を背負う実力があると証明できたら、二人の婚姻を後押しすると約束したからね。立場を揺るぎないものとするために用意したのが黄家という後ろ盾、そしてアデラが提示した乳母の地位も君の地位を盤石にするための布石の一つだ」
鈴麗は黄家から嫁いだことで成安国との繋がりがあると苟絽鶲国内の貴族に認識されていた。
さらに、アデラ妃と仲がよいことでバセニア皇国とも交流があると思われている。
権力の権化のような紫の親族が、表面上だけでも大人しく私に従うのはこれらの繋がりがあるから。
他国と関わりの深い私を、紫家の親族であろうと無碍に扱うことはできなかったらしい。
それでも私を認めない人間は一定数存在するのよね。
今までも世情に疎い紫の親族が出自を蔑むような台詞を吐き捨て、鄭舜様の妻の座を狙っていたらしい他家のご令嬢から嫌がらせを受けることもあった。
悪口や、ささやかな嫌がらせなど私にとっては可愛いものだ。
悪評を流そうとした人間の裏を探って証拠をチラつかせればすぐに大人しくなったし、宴席で飲み物をかけようとしたお嬢様の酒器を受け取って返したら真っ青な顔をして次からは手を出さなくなった。
誘拐を目的に荒くれ者を差し向けられることもあったが、こちらとしてはむしろ望むところだったので、紫の私兵と片手間に捕まえては、物証と自白させた証言を揃えて鄭舜様に差し出していた。
そういえば、いつの間にかそういう雑事が減っていたような……。
ちらりと見上げれば、鄭舜様の若干黒さを滲ませた微笑みとぶつかる。
怒れる裁きの神の差し金ですか、ええそうでしょうね。
その上で、今度は駄目押しとばかりに苟絽鶲国の最高権力者が乳母の地位を用意したのだ。
これで私を積極的にどうこうしようとは誰も思わないでしょうね。
表にでる場合、たしかに身分ほど強力な武器はない。
手に取る武器は変わっても違う意味で最前線には変わりはないが……そこまで考えて、ハタと立ち止まる。
いや、ちょっと待て。
乳母には将来の側近候補となるような子供が必要なのではなかったか?
子供とは天からの授かりものだ。
乳母になってと簡単に言われても、こればかりはどうにもならないわ。
それなのに見上げた先にある紫の瞳は、私を捉えて離さない。
まさかどうにかする気ではないですよね、鄭舜様?
裁きの神には子授けの御利益はなかったと思うのだけど……視線の熱さに狼狽えた私は、ただ無言で視線を逸らすことしかできなかった。
青海が悪人顔で意地の悪い、ニンマリとした笑顔を浮かべる。
「たしかに互いの領分には手を出さない協力関係、ですな」
「……青海?」
「おっと! 劉尚様、これからの繋ぎはいかがしましょう?」
「手配しておくから、私の執務室に直接おいで」
「承知しました、それでは怖いので失礼します!」
そこからは呆れるほど鮮やかな逃げ足だった。
部下だった男の確実な成長を感じて嬉しくなると同時に、不安も過ぎる。
青海は気づいているのだろうか。
私が名だけであろうと女王蟻として君臨し続ける理由を。
蟻を、そして蟻の王を見張るための存在として据え置かれたのだということを。
そのことに気がつかず国を裏切るような真似をすれば、私が、彼らを……。
「鈴麗、それは君だけが背負うものではないよ」
寄り添うように立つ鄭舜様が私の手を握った。
じんわりと温もりを帯びていく手を握り返す。
「君が背負うものの半分は私にも背負う責任がある」
「……悪い癖ですね。全てを背負わなくては生きている価値がないと思ってしまうのです」
生者は、強く輝いていなくてはならない。
そうでないと死者は報われないと、今だにそう思ってしまうときがある。
鄭舜様は瞳を柔らかく細め、耳元で囁いた。
「君の手を下すまでもない、君の憂いは私が排除しよう。……だから安心して私に囚われていて?」
振りほどくのは容易なはずなのに、掴まれた手を離すことはできなかった。
この人だけは、いつも私を甘やかす。
ぐずぐずに溶かして、彼なしでは立っていられないほどに彼への愛は私の心を弱くする。
だけど彼の腕に守られる心地よさを知ってしまった私を強くするもの、それもまた愛だ。
私の頬に顔を寄せて鄭舜様は軽く口づけた。
「誰にも君を殺させはしない。君を殺すのは、私だと約束したから」
「ではもし私が裏切ったら、鄭舜様が自らの手で殺してくださるのですか?」
「もちろん、そういう約束だからね」
鄭舜様は一切ためらうこともなく言い切った。
二人の関係が変わったあの日に、そう誓ったのだ。
それを思い出せとばかりに耳元で甘く囁かれて思わず頬を染める。
「最高権力者の前で、恥じらいもなくイチャつくのは君たちくらいだよ」
苦笑いを浮かべた劉尚様の台詞で我に返る。
鄭舜様は冷たく微笑んで、ぐるりと周囲を見回した」
「おや、まだいらしたのですか?」
「ということだから、馬に蹴られる前にさっさと帰ろう」
劉尚様のからかうような視線が痛い。
彼は見てはならないものを見てしまったというような、呆然としたままの護衛を引き連れて場をあとにする。
「……女王蟻も番の前では、普通の女性なのだな」
最後に呟くような彼の声を拾った鈴麗は微笑んだ。
交わす会話の内容は殺伐としていて甘さとは程遠いものなのに、はたから見ただけでは気づかれないものなのね。
……普段は女王蟻と呼ばれていようとも、鄭舜様と一緒にいるときは普通の女性でいられる。
新たな発見があったと、私は彼の腕に抱かれながら小さく笑いをこぼした。
「浮気はだめだよ、鈴麗?」
途端に強く抱き込まれて、体全体に心臓の鼓動が響く。
腕の力を緩めた鄭舜様の指が私の顎を軽く掴んだ。
上向くと視線が絡んで、どこまでも見通すかのような紫の瞳は揺れながら私だけを映している。
「ただし今も君が死を望むかについては、疑問が生じているけれど?」
鄭舜様はからかうように目を細めた。
なんて意地の悪いことを。
答えなど、とうの昔にわかっているくせに。
「裁きの神は、なんでもお見通しみたいですね」
私は、ふいと横を向いた。
そんな私をあやすように彼の指先が私の頬を優しく撫でる。
ああもう、また甘やかして。
そんな風に困った顔をしても誤魔化されないわよ?
「私は神じゃないよ、ただ君を愛する一人の男だ」
だから君がそばにいてくれないと困る。
懇願するような、どこか甘えるような彼の台詞に驚いて目を見開いた。
あふれる愛おしさに、体が痺れたように動かない。
「……ええ、私も。あなたが隣にいてくれないと寂しいわ」
視線が合うと、そこには柔らかく微笑む彼の顔があって。
薄く目蓋を閉じれば唇に彼の吐息がかかる。
自分から彼の唇を掠めるようにくちづけた。
子供みたいなことをしてしまったわ。
すると呻くような鄭舜の声が聞こえて、赤らんだ目元を隠すように手で覆う。
「なんだか君には一生勝てないような気がする」
厳しくも、優しい人。
人々に裁きの神のようと恐れられる彼は私の前でだけ不器用で、どこか可愛らしい。
私は手を伸ばして彼の頬へと手を添える。
「その代わりに、いついかなるときも私があなたの背中を守ります」
「……鈴麗」
「これが私の答えです」
鄭舜様は、くしゃりと表情を崩した。
問うように首をかしげると、彼は叶わないと諦めていた願いが叶ったのだと言う。
喜んでいるような、でもどこか泣きそうな顔で私の肩に顔を埋めた。
羽のように滑らかな触り心地のいい彼の髪をなでる。
義務と重圧の狭間で苦しいことばかりだっただろうに、鄭舜様は今までたった一人で戦い続けてきたのだ。
裁きの神と同じ黒い髪に紫の瞳を持つだけで彼は神じゃない。
これからは、私がこの人を支える。
見上げた空は青く澄み、飛び去る鳥が名残りを残すかのように、ふわりと白い羽を落とした。
……今度こそ自分の望むように、幸せになるよう生きるからね。
鳥の背を追い、誰にでもなく微笑む私を鄭舜様はもう一度抱きしめた。
「それでは、今日の報告事項を受けようか」
「この体勢で、ですか?」
「そう、これなら他の誰にも聞こえないし好都合だ」
「しょうがないですね……かしこまりました」
これからは冷たい机越しでもなく、蝋燭の灯りに惑わされることもない。
その代わり、首筋に彼の吐息がかかる。
くすぐったくて、鈴麗は少女みたいに声を上げて笑いながら身をよじった。
かつて自分からは想像できないほどに軽やかで。
心の底から幸せだと思った。
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史実によれば、苟絽鶲国の黄金期は後世で賢帝と讃えられた劉尚とアデラ妃の時代から始まった。
劉尚は各地を精力的に飛び回るアデラ妃と共に生涯を民の生活水準の向上に尽力したとされている。
また夫婦仲も良く、二人の男児に恵まれ、優秀な後継者により苟絽鶲国はさらに隆盛を極めた。
そして劉尚の弟である青隆輝は武に秀で国を固く守り、文に秀でた紫鄭舜がそばで政治を支えたという。
特に宰相を務め、歴代最高と名高い紫鄭舜には公爵令嬢が如き完璧な礼儀作法と、熟練の侍女のような細やかな気遣いができる淑女の鑑と評された美しい妻がいた。
二人はアデラ妃の懐妊後、間もなく子を授かり、最終的には二人の男児と一人の女児に恵まれる。
そして妻はアデラ妃に望まれて乳母として帝の子と自身の子を育て上げた。
そんな彼女は長い髪が良しとされる時代にあって、終生、髪を肩までに切り揃えていたという、少々変わった人物であった。それはアデラ妃の髪型を真似たものだと人々に認識されていたが、実のところは有事の際に影武者として成り代わるためだという噂も当時は密やかに囁かれていたらしい。また婦女は夫の背後で離れて歩くのが一般的であった当時、彼女はまるで背後を守るかのように夫である鄭舜に寄り添い尽くした。その献身的な態度が慎ましやかとされた彼女の存在を際立たせる理由の一つでもあるのだろう。彼女が武に秀でていたという記述は一切残されていないにも関わらず、現在に至るまで、外敵から国と家を守るために身を尽くしたという高い評価を受けているのは、おそらくそのような献身的な態度が人々の目に好ましく映ったからではないだろうか。
なお、他国から輿入れした彼女の存在が人々に好意的に受け入れられる要因となったものの一つに、彼女を主人公としたと思われる創作本の存在も挙げられる。
現在は題名とあらすじ以外は散逸して残されてはいないが、女性を主人公とした冒険譚のようで、次期帝となる男児に差し向けられた他国からの刺客を何度も退けたとか、夫にかけられた冤罪を晴らすために政敵のお膝元へと単独で潜入したなどと、事実とも創作とも判断がつかないようなお話が当時は存在していたらしい。
実際のところ、主人公とされた妻については、夫である鄭舜本人が自身の日記で『偽りを本当で隠すために、実在する人物を手本としたのではないか』と否定するような文章を記載していることから、これは同時代に国の裏で暗躍したとされる『女王蟻』という工作員の仕業を想像した作者が、実存する紫鄭舜の妻の献身と女王蟻の活動を絡めて架空の冒険譚に創作したのではないかと推測される。当時、劉尚が『蟻』と呼ぶ諜報機関を作り、機関の頭として『蟻の王』を指名したことは当時の内部文書から判明しているが、女王蟻の存在に言及したものは一切は残されていない。このため女王蟻という人物そのものが実存したのかさえ怪しいもので、歴史家の間では創作や都市伝説の類ではないかと考えている。
なお、この創作本の作者は、多種多様な言語を操る天才だったアデラ妃であるという説や、バセニア皇国から付き従うアデラ妃の侍女の一人だとさまざまな説があるが、はっきりとしていない。
一方で、物語の主人公とされた妻は夫である紫鄭舜と互いに対する愛情の深さが有名になり、吟遊詩人が歌の題材に取り上げるほどであったという。ときに無情で厳格な判断を下さねばならない夫が、裏では冷徹な裁きの神と例えられるのを強く否定し、日常生活では愛も情もある素晴らしい男性だなのだと言葉を尽くした。
そうすると冷徹なはずの夫は常になく顔を赤らめ、妻への甘言と溺愛ぶりで周囲の人間を驚かせていたという。
そんな愛情深い一面もまた、彼女が淑女の鏡と呼ばれる由縁だろう。
彼女の名は黄鈴麗、のちの紫鈴麗である。
そして彼女を人物像の手本として描かれたとされる架空の物語は『女王蟻の献身』という題名であったという。
連載の開始が三年前……長い間、完結までお待たせいたしました。
私の思い描く、かっこいい女性像を描いたつもりです。
皆様にとって記憶に残るような人物となれたら、とてもうれしいです。
閲覧いただき、ありがとうございました!




