幕間 女王蟻の休日
裏の仕事には、基本休日などない。
不測の事態は休日だからと待ってはくれないからだ。
……それなのに、なぜ私はこんなところにいるのだろう?
「はい、鈴麗。口を開けて?」
ほどよく陽射しに照らされた明るい庭の一角で、なぜか私は茶卓を前に座っていた。
見知った仲の執事や侍女が温かい視線で見守る中、微笑みを浮かべた鄭舜様が手ずからお茶菓子を差し出している。
お茶菓子を凝視しながら、ここまでの出来事を反芻する。
まず夜勤明けに寝ていたら侍女軍団が特攻してきた。たしかにお昼は過ぎていたけれど、起こされるなんてことはかつてなかったことだ。相手は素人さんだから手を出すわけにもいかず、無抵抗で捕まったら、そのまま衣装部屋に連行される。さらに身ぐるみ剥がされ入浴させられ磨かれて着替えさせられて、気がついたらここにいた。
だから、もう一度聞きたい。
どうしてこうなった?
無言で固まる私に、鄭舜様は首をかしげる。
「このお茶菓子、嫌い?」
「……いえ、そういうわけではありませんが……どうしてこうなったのかなと?」
鄭舜様は極上の笑みを浮かべ、無言のままもう一度促された。
仕方なしに、ぱくりと茶菓子を食べる。
あ、美味しい。
ほどよい甘味が口の中に広がる。
途端、使用人の皆さんから安堵したような空気が流れた。
なんだろうと首をかしげると、鄭舜様が口元を綻ばせる。
「皆がね、未来の奥様の好みが知りたいそうなんだ」
「……!」
一拍停止して、次の瞬間にむせた。
慌てて鄭舜様がお茶を差し出すので、それをゆっくりと飲み干す。
鄭舜様の求婚を受け入れたのだからこう呼ばれるようになるのはわかっていたが、まだ実感がわかない。
落ち着いたところで、鄭舜様は周囲を見回した。
「ここにいる使用人は実力主義で私が選んだ者ばかりだ。基本、君のそばには彼らが付く。もし、緊急事態で彼ら以外に手が必要な場合は裏の人間を自由に使ってかまわないからそのつもりで」
つまり彼ら以外が近づいたら敵とみなして排除してかまわないということか。
当主の権限を食いものにするような親族は極力排除してきたけれど、隙を見せない者もいるから万全ではない。
表向きは華麗に見える紫家の闇の深さを、あらためて見せつけられたようだ。
「動じないね」
視線を上げると、硬質な紫の瞳が瞬く。
そんなの今更だろうと、無言で唇を歪めた。
「うん、さすが私の選んだ女性だ」
鄭舜様が私のあいたほうの手を取って、唇を寄せる。
一瞬で、余裕も思考も吹っ飛んだ。
「て、鄭舜様っ! 人目が、しかも昼間から!」
「ならば人目がなくて夜ならいいということだよね?」
被せるような台詞と余裕の微笑みを崩さない鄭舜様を呆然とした顔で見つめる。
この蕩けきったような顔は誰だ、本当に鄭舜様か?
そのとき、すっと近づいてきた老齢の侍女の手によって器に新たな茶が注がれる。
「ふふ、鄭舜様は鈴麗様を甘やかすのが嬉しいご様子ですわね」
「甘やか……!」
「……そういうことは言わなくてもいい」
「あらあら、失礼いたしました」
この古参の侍女は鈴麗もよく知っている。
裏で繋ぎをつけるときも、末端である鈴麗にまで丁寧に接してくれた人だ。よくよく見回すと家内に侍女のふりをして潜入することもあった鈴麗に対して、横柄な態度をとった人間はこの場に誰もいない。
つまりそういうことなのだろう。
「だって坊っちゃまのが心を許せる女性は貴重ですもの、逃すわけにはまいりませんわ!」
皆、同様にうなずく。
泣く子も黙るという次期宰相候補にして紫家の次期当主に、坊っちゃま。
一瞬にして、彼女との力関係が把握できてしまった。
鄭舜様はほんのり赤らんだ目元を押さえて深々とため息をついた。
「黛玉は乳母だったんだ。今は侍女を取りまとめている」
「鈴麗様とは何度かお会いしましたわね、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、精一杯努めますのでよろしくお願いします」
黛玉は、むむっと口を曲げた。
何か粗相をしてしまったのかと首をかしげる。
「硬いですわ、鈴麗様」
「そうでしょうか?」
「ええ、もう我々の前では鄭舜様の奥様として心おきなく存分に振る舞っていただいてかまいませんの!」
そして彼女は一拍、呼吸を置いた。
次に何を言い出すかと想像するだけで、鈴麗の胃が急に痛み出した。
あ、コレ危険な合図。
「さあ、我々は空気だと思って存分にイチャついてくださいませ!」
「イチャつい……!」
「黛玉、鈴麗が容量超えそうだからその程度にしてあげて?」
「紳士ですわね、坊っちゃま。それでこそ紫家の男です。ですから、先ほどのようにあまり鈴麗様をからかうものではありませんよ? いくら可愛いからといっても限度があります」
彼女はお湯を満たした器を手際よく扱いながら、ささっと壁際に戻って控える。
どうやら見かねて釘を刺しにきたらしい。
視線だけでありがとうとお礼を言ったら、同じく視線でどういたしましてと返事がきた。
うん、目線だけでもうまくやっていけそうな気がする。
とはいえ場の空気はなんとも言えず、気まずい。
困り果てて、取り繕うようにお茶菓子の皿を指す。
「鄭舜様は、どのお茶菓子が好きなのですか?」
「私はこの薄く焼いたものが好きかな?」
「でしたら、……はいどうぞ?」
摘んで鄭舜様の口元に差し出す。
鄭舜様が笑顔のままで固まった。
たっぷり十秒ほどかかって、彼の顔が朱に染まる。
「……どういうつもり?」
「ただ、お好きかなと思いまして」
ついでに宇陀が男を破滅に追い込む悪鬼が如き微笑みと評する、極上の笑顔を添えてみた。
結果、裁きの神が顔を真っ赤にして完全に固まった。
やり過ぎかなと使用人さんたちを見ると、よくやったとばかりに満足そうな笑みを浮かべている。
……そう、私なら許されるのね。
解凍するのを待っていると、動き出した鄭舜様は頭を抱えた。
「どうして君は私の想定を軽々と超えていくのだろうね?」
私は微笑んだ。
そんなこと、理由は決まっているじゃないですか。
「鄭舜様が、それを望むからです」
全ては、あなたの望むままに。
それが私の望みでもあるから、限界だって軽やかに超えていける。
鄭舜様が、ふっと表情を緩めた。
最近よく見かけるようになった素の顔。
私の、大好きな表情だ。
鄭舜様は、お茶菓子を摘む私の手を軽く引き寄せると、ぱくりと菓子を口に含んだ。
それを咀嚼して飲み込むと、ついでのように私の指先についた砂糖の粉を舐めとった。
「!」
「うん、指まで甘いね」
上目遣いに私の顔を伺って、口角を引き上げる。
そしてついでとばかりに私の耳元へ唇を寄せた。
「愛しているよ、鈴麗」
そして流れるように頬へと口づけを落とした。
呼吸が止まる。
想定の上をいくのはどちらですか!
取り乱すことのなかった自分を褒めてやりたい。
ぎこちなく固まった私の頬を指の先で撫でて、愛おしそうに鄭舜様は目を細めた。
どこからか、春告鳥の鳴く声がする。
どうやらもうすぐ春が来るらしい。
どうでもいいことに気がつくのは現実逃避している証。
だから余裕のない私は全く気づくことができなかった。
涼しい顔で控える使用人たちが、このむず痒い空気を初々しくて可愛らしいと悶えていたことを。
そして孤独に耐えていた主人に春がきたと狂喜乱舞し、背後に花吹雪の幻覚すら見えていたということを。
短い休日という設定のため、短めのお話です。
お楽しみいただけると幸いです




