広寧国裏話 太陽と月の奏でる二重奏
「姐さんはこれから紫鈴麗として表に出る機会が増える。だから表と裏、どちらの立場であろうとも関係なく杏の手助けが必要なんだよ。」
自分という存在が紫家に必要ないのではないか。
数刻前までそう思っていたのに、こうまでお膳立てされれば欲望に抗うのは難しい。
裏から、表へ。
隠れるように生きてきた自分が、存在を晒す。
植え付けられた価値観を覆す事はとても勇気がいる、それでも。
「もし杏が表を選ぶなら、俺はそれを応援する。誰にも文句は言わせない。」
ここまで言われたら、心が揺らがぬわけがない。
いつもヘラヘラと笑っている桃林が珍しい事もあるものだと杏は目を見張った。
「ちょっと、どうしたのよ?大丈夫?」
「問題ないし。他人の心配よりも、自分のことを心配したら?」
「…。」
「どっちでもいいって言ったけれど…俺は、杏が表にいてくれた嬉しい。」
…嬉しいって、どういう事よ。
一度顔を知られてしまえば、二度と裏には戻れない。
桃林と二人で任務に就く事はできないというのに。
それを躊躇うのは私だけ?
そんなに私のことが嫌いだったの?
「違うから、むしろ逆。」
「えっ…!?」
「本当、昔から思っている事が顔に出やすいよね。そんなところも心配で放っておけなかった。」
一瞬、目の前の景色が揺れ、気が付けば桃林の腕の中だ。
華奢に見えて程よく筋肉のついた厚みのある身体。
全力で足掻いても彼の力には敵わない。
それに幼い頃はもっと近くにいたんだもの。
幼馴染みとしてこの程度の距離感はどうって事はない…はずだ。
抵抗するのも虚しくなって、行き場のない両手を彼の背に回した
宥めるように軽く背を叩けば、桃林がわずかに肩を震わせる。
「…こんなあっさり捕まっちゃうし。これが敵だったらどうするの?鍛錬受けてるんでしょう?」
「ねえ、貶すか心配するかのどちらかにしてもらえない?」
拘束されながらも、手加減されている事に気付いて胸が痛む。
耳障りの良い彼の声が任務の時のものと重なって、心が引き裂かれそうだった。
桃林が、こんな風に甘く囁くのは標的である女性達から情報を引き出すためのものと知っていたから。
この場で見せた優しさは全て、任務の一環なのだろうか。
もしそうだとしたら桃林の側にいた杏が気付かないわけはないのに。
それを知っていて…姐さんが彼を選んだのだとすれば、なんと残酷なことか。
「もしかして、姐さんに説得するよう頼まれてきたの?だったら…。」
「違う!!任務なんかじゃない!!」
強い口調で、射抜くような視線が突き刺さる。
困惑した表情で自分を見上げる杏に、桃林は深くため息をついた。
「前から言っているだろう?ああいう任務は嫌なんだよ!!好きな女を口説こうとしたのに仕事と思われるなんて、最悪じゃないか!!」
桃林の表情が、くしゃりと歪む。
好きな、女。
脳内で反芻した言葉の持つ意味に反応して首まで赤くなる。
見上げた先にある桃林の頬も赤い。
たしかに、彼が頬を染めるなんて任務では見られなかったものだ。
杏はそう思い直して…呆然となった。
こんな違いまでわかるなんて、私ったらどれだけ桃林を凝視してたのよ!!
抱き締められたまま、固まって動けない。
…バレたら恥ずかしくて死んでしまいそう。
動揺に気付かれたくなくて、そっと視線を逸らす。
たぶん好きの度合いだったら、自分の方がはるかに上だ。
杏はずっと前から…桃林に堂々と口説かれる彼女達が羨ましかった。
そして女性の扱いに慣れた優しい彼の隣に並びたいと思う女性達も沢山いる。
二人の関係が掛け違ったボタンのようにすれ違うことを、寂しいと思うのは自分だけだと思っていたのに。
「俺は杏のことが好きだ。」
「い、いきなりどうしたの?」
想定していなかった直球を投げつけられたせいで感情が追いつかない。
もしかして、本気で口説かれている?
心拍数が一気に跳ね上がった。
「杏は俺のことをどう思っている?」
「ど、どうって…。」
ほんの少しだけ腕の力を緩めて桃林は杏の瞳を覗き込む。
…好きじゃないって言われたら、どうしよう。
彼の焦茶色の瞳がそんな痛みに耐えるように揺れていた。
「任務中に杏の姿が見えなくなると心配になる。傷ついていないか、辛い目に合っていないか…まさか死んじゃったりしていないかって落ち着かない。標的が目の前にいるのに、気付けば杏の姿を探してしまう。任務には支障ないように隠していたけれど、とうとう姐さんにバレた。」
杏は息を飲んだ。
任務には人一倍厳しい姐さんがどう判断するか、予測がつかなかった。
「『今のままでは二人の命に関わる』と厳しいことを言われた。だけど俺の中にある気持ちは、すでに諦められるものではなくなっていたんだ。だからそう正直に答えたら…二人で話し合って選ぶように言われた。」
共に歩んで、滅びるか。
別の道を選んで共存するかを。
「今のままでは、俺や杏が任務に失敗するのは目に見えている。互いに互いを救おうと、周囲を巻き込み、任務に支障をきたそうが関係なく暴走する未来が見える、と姐さんは言っていた。そしてその言葉を…俺は否定できなかったんだ。裏で育ったはずなのに、命を掛けて紫家へ尽くす事が当たり前であったはずなのに…。杏は自分のことを裏には向かない性格と思っているかも知れないが、それなら俺も同じだ。」
紫家のために尽くすよう育てられたのに、紫家よりも大切なものができてしまうなんて思いもしなかった。
杏は桃林の服を掴む手に力を込めた。
そうなのだ、本当なら私達は互いを恋しく思う事すら許されない。
「姐さんは鄭舜様を選んだ。鄭舜様は紫家次期当主であり、紫家そのもの。だから命を懸ける事に躊躇う理由がない。そんな姐さんの献身と自分の忠誠心を比べたって、元々勝負にならないんだよ。」
生まれた時から紫家に尽くす立場であった自分達と、自ら紫家に尽くす事を決めた姐さん。
覚悟の差なのだと、桃林は呟く。
「それでも姐さんは、俺達の未来を自分達で決めるべきだと委ねてくれた。自身が負わねばならない危険を知りながら、『もし二人共に紫家へと残るのであればそれでもいい』と言ってくれたんだ。ただその場合は『任務中に暴走したとしても助けないし、二人を紫家から切り捨てることも躊躇わない』とは言われたけどね。それでも共にある事を選ぶというのなら俺達の意思を尊重すると…それが二人の選んだ生き方ならば否定はしないとも言ってくれた。」
優しいのか、厳しいのか。
判断に迷うところだろうが、姐さんらしいと思った。
「そしてもう一つの選択肢が、これなのね。」
杏の手の中で、紹介状の文字が踊る。
内容を読むと紹介状としてだけでなく契約書の写しも兼ねているようだった。
杏はまず見習いとして奉公し、ゆくゆくは当主夫人の侍女兼護衛として仕えることになるらしい。
この奉公が短期間で終わるものでないことは、文面を見れば明らかだ。
「姐さんには、『離れることで二人の関係が終わるのなら、その程度のものじゃないか』って言われたよ。」
いつも一緒にはいられない。
寝ても覚めても相手の姿はなくて、不安に駆られる。
いつしかその不安が二人の関係を変えてしまうかも知れない、それでも。
「杏は陶家で一番安全な当主夫人の側で学ぶことができるんだ。」
当主夫人を守る杏もまた、陶家によって守られる。
戦闘に長けた陶家の中で戦闘力が皆無とされる当主夫人。
以前ならば陶家の末っ子である華凉も非戦闘員であったが、嫁に出たため、今では陶家の守備力は全て当主夫人一人に集中していると言っても過言ではない。
そもそも策謀と武勇に優れるとされる当主が溺愛しているのだ。
彼と陶家が誇る鉄壁の守りを潜り抜けてまで夫人や杏に害を及ぼすのは難しい。
「今の俺では杏を守れない。杏だけを守る力も術も持たない。もっと力を付けて、紫家で揺るぎない地位を得るまでは迎えに行くこともできないし、そんな状況では、いつまでも待っていろなんて無責任なことも言えない。」
桃林の声が、全身が…悔しいという気持ちを物語る。
普段はいい加減なのに、こういう所だけは生真面目なんだから。
杏は温かく居心地の良い桃林の腕の中で目を閉じた。
姐さんならどちらを選ぶだろう?
離れたくないなら諦めろと諭すだろうか。
それだけは、ないな。
杏は瞼を開けた。
そっと桃林の胸を押し退け、視線を合わせる。
頭一つ以上身長の高い彼は、不安そうな表情で杏を見下ろしていた。
迷子になった大型犬みたいだわ。
図体は大きくなったけれど、こういう所は昔と変わらず可愛い。
彼が迷う時は、私が支えるの。
「私、提案を受けるわ。姐さんの期待に応えたい。」
満面の笑みを浮かべた私に対して、桃林は苦しそうな表情で唇を噛んだ。
「それでも、俺は…。」
「ついでに周りの人達を見返してやるのよ!!離れているとか、立場の違いには負けないところを見せるの。」
離れて上手くいかなくなるというなら、たしかにその程度の思いだったのだ。
「私も桃林のこと好きだから、諦めたくない。」
生きているのなら終わりじゃない。
任務で生き残る可能性に比べたら、成就する可能性の方がずっと高いもの。
桃林と歩む未来があるのなら、負けないわ。
背伸びした杏は、するりと桃林の首筋に腕を絡めた。
軽く彼の身体を引き寄せて、耳元で囁く。
「私のことよりも貴方こそ死なないでよね。」
「…善処する。」
「もう!!絶対に死んじゃやだからね…お願いよ。」
「本当は誰の手に委ねることなく俺の手だけで守りたかったのに、ごめんな。」
じわりと涙が滲む。
杏の身は陶家によって守られても、桃林が危険と隣り合わせの場所に残るのは同じ。
力不足は私も同じだと思うと、胸に痛みを覚える。
不安を隠して、そっと身を委ねた。
「初めの頃は精一杯で難しいかも知れないけれど、お休みの日は会いに行くからね。」
「うん。それに、俺の方からも会いに行くから距離なんてたいした事はないよ。」
紹介状には、紫家の人間と会ってはいけないなんて書かれてないしね。
飴と鞭を上手に使い分けるあたりが姐さんらしい。
緊張したような表情から一転、顔を綻ばせて頬を染めた桃林が杏の頬に軽く口付けた。
匂い立つような色気に当てられて、クラクラする。
なんでそんな平気な顔してるのよ。
「負けないよ、桃林。」
「別に負けてもいいんだよ、俺になら。」
桃林はニヤリと笑う。
上気した杏の顔は、おそらく真っ赤なのだろう。
翻弄するように、桃林の唇が杏の唇を掠めた。
「…その余裕が腹立たしいわね。」
「余裕なんてない。断られたらどうしようと思って、ずっと胃が痛かった。」
「そうなの?こういう女性を口説き落とすような場面には慣れているのに。」
「やけに絡むな…誰が慣れるものか。さっきも言ったとおり任務だから仕方なくだ。正直なところ、お前に見られているところで口説くのが一番きつかった。好きな女の前で、どうでもいい女を口説かなくちゃならないなんて、一種の拷問だ。」
桃林は、心底嫌そうな顔で深く息を吐いた。
嬉しくて、杏の顔が緩んだ。
「私はかまわないわ。最終的に貴方が手に入るのなら。」
そのために互いの力を尽くそう。
頷いて、桃林が唇を寄せる。
吐息混じりの口付けが一層深くなって呼吸すらままならない。
必死で応えていたら、いつの間にか桃林の胸に抱かれていた。
意識を失い掛けたのだと知って荒い息を整えながら睨む。
「多少は手加減しなさいよ!」
「お前が免疫なさ過ぎなんだよ!…まあ、その点は姐さんには感謝だけどな。」
たとえ任務だとしても杏が他の男のものになると知ってしまったら。
間違いなく、相手の命を奪っていただろう。
桃林は笑う。
どこか狂気に彩られた、執着。
それを嬉しいと思ってしまうのだから、杏もたぶん同類なのだ。
啄むように口付けて、桃林の胸に顔を寄せる。
彼の体温は高く、鼓動も早い。
余裕そうに見えていたけれど、緊張していたというのは本当らしい。
「二人で決めたこと、姐さんに伝えないとね。」
「うーん、でもたぶん姐さんの予想通りだ思うよ?」
「え、どうして?」
「…それは言えないし、絶対に言わない。」
「ちょっとどういう事よ!ちゃんと教えなさいな!じゃないと…うっかりでも浮気しちゃうわよ!」
「俺に隠れてできるの?バレないとでも思ってる?」
「くっ、何なの?それに浮気なんかするわけないじゃない!信用してないわね!」
「そんなことはないよ?信用してるから手を離せるんだ。それに…杏が俺のことを相当好きらしいということは、よくわかったし?」
揶揄うような口調の桃林に杏はプルプルと震える。
こっちばっかり翻弄されて、腹が立つわ!
「…よ。」
「ん?」
「覚えておきなさいよ!」
「ちょっ、いきなり殴るな!もしかして、欲求不満か?それとも俺の胸筋に惚れた?」
「なっーーーーー!桃林の変態!!キライよ!やっぱりアンタなんか大っ嫌いー!」
「えっ、ちょっと杏?!暴れるな、船が揺れる!下手すると落ちるぞバカ!!」
「うわーん、姐さん!!こうなったら姐さんのお嫁さんになるー!」
「ふふ、もう遅いぞ。残念だが姐さんは売約済みだ。」
「くうう、知ってる!!知ってるけれども!」
「いいか、どれだけ俺達が汗水垂らして姐さんと鄭舜様をくっつけたと思うんだ?俺達の最大の壁は姐さんなんだぞー?手を打たないわけがないだろう!!そういうところは未熟だなー、杏は。」
とりあえず好きな女性ができたら姐さんに根回しするというのが、紫家の裏では暗黙の了解となっていた。
なにせ杏だけでなく、花街の綺麗どころのほとんどは姐さんを慕っている。
姐さんが男だったら間違いなく花街一モテていることだろう。
男としては、なんとなく腹立たしい。
「ほんと、いつの間にか姐さんに信用されるようになって…これだって、直接姐さんが私に渡すはずのものでしょう?」
杏は失くさぬようにようにと、胸元にしまった紹介状を服の上から押さえる。
桃林は少しだけ視線を彷徨わせた後、ボソボソと呟いた。
「こういう時のために、どんな任務でも受けてきた。杏が迷う時は、できるだけそばにいたいと思ったから… 譲ってもらえるだけの信用を得るために…これからも紫家のために尽くすから、と姐さんに頼んでこの役を譲ってもらったんだ。」
「と、桃林…?」
「色々条件はついたけれど、杏に会いに行くことも認めてもらったよ。」
ほんのりと頬を染めて、桃林は杏の手を握る。
手のひらの温度に、彼が緊張していることがわかった。
「約束を果たしたら陶家へ迎えにいく。待ってろとは言えないけど…もし待っていてくれていたら、俺と結婚して欲しい。」
「そうね、考えておくわ。」
貴方が迎えに来る、その時まで。
言わずとも杏の気持ちが通じたようで、桃林は嬉しそうに笑う。
そして幸せ過ぎて潤んだ杏の視界に、差し出された彼の手に握られたものが映る。
それは、鮮やかな色合いの花が飾られた簪だった。
苟絽鶲国では婚礼で花嫁を彩る花を花婿が贈ることが流行っている、それになぞらえた贈り物。
飾られた小ぶりの花は繊細な細工が美しく、陽光にも負けない輝きを放っていた。
「一足先に渡しておくよ。」
「飾りの意匠は向日葵?」
「杏は、お日様だから。明るくてひたむきで…俺には誰よりも光り輝いて見える。」
「なら桃林は、お月様ね。」
「どうして?」
「気がついたら、いつも静かに見守っていてくれるの。」
「杏にだけは、そうありたいと思ってるよ。」
愛おしいものを見る時のような柔らかい視線がくすぐったい。
杏はクスリと笑う。
「当然、花言葉を知ってるんでしょう?」
「まあな、一応調べたし。」
「教えて?」
「ばっ、絶対に言わないからな!!」
桃林が狼狽え、一気に顔を赤らめた。
杏はさらに追い詰める。
「お願い、うっかり忘れちゃったの。」
「その顔…お前、絶対覚えているだろう!?言わないからな、絶対に言わない!」
「さっきまで散々恥ずかしいこと言ってたのに…今更じゃない?」
「おまっ、やっぱり知ってるだろう!」
「うん、知ってる。でも答えて?」
「…。」
「桃林の口から聞きたいの、駄目?」
「…お前、そんな可愛い顔、いつの間に…あーもう!!一度しか言わないからな!」
真っ赤な顔をした桃林が杏の耳元に唇を寄せる。
囁かれた言葉に心を揺さぶられながら、杏は幸せそうに笑った。
最後はバカップル爆誕w
次のお話は短めで、その後は少し間隔があきます。




