広寧国裏話 変奏曲、揺れる、揺れる
「ずいぶんと落ち込んでるじゃないか。」
「桃林…。」
「姐さんに怒られたのか?」
「別に叱られた訳じゃないのよ。ただ自分の不甲斐なさに嫌気が差したの。」
「迷いは剣の切先を鈍らせる。姐さんは命に直結するような機微には聡い人だからな。」
「私は、あそこまで割り切れる自信がないのよ。人生も、死ぬ時すらも誰かに捧げるなんて。」
杏は深くため息をついた。
桃林はからりと笑う。
「凄まじいよな、女王蟻の捧げる献身は。」
「自分の命を駒のように扱う事を献身と呼ぶのなら、私には無理だわ。」
「まあ捉え方は人それぞれだがな。」
少し考え込んでから、桃林は頷く。
「これは推測だが…おっと、俺から聞いた事は内緒にしてくれよ?」
杏が頷いたのを確認して、桃林は手すりに腰を下ろした
船縁を椅子がわりに座って膝から下が海の上に出ているような体勢。
命綱もなく、大きく船体が揺れれば船外に投げ出されるかもしれない。
何度黄蟻に危ないからと注意されても、この不安定さが彼はたまらなく好きなのだ。
揺れながら、子供みたいに笑う。
「今回、姐さんが曹絹雲の情報をタレ込んだ先の貴族、どんな奴か知ってるか?」
「高位貴族だってことしか聞かされてないけど…。」
「その男は貴族でありながら貴族の不正を暴き、民から熱狂的な支持を受けていて、今やその影響力は王家すら無視できないと言われていて、善悪入り乱れる広寧国で唯一、信頼おけるとされる貴族。」
「まさか、『広寧国の良心』?!」
「そう、そのまさかだよ。まあ表向きは清廉潔白という顔をしていても裏では清濁併せ呑むしたたかな一面持つ人物ではあるが、過去の事例を見る限りでは虐げられた者には手厚い。訳ありの彼女達だって、あの人に保護されれば、そう悪いことにはならないだろう。」
「で、でも姐さんは広寧国に初めてきたのでしょう?広寧国の良心…張皓然は警戒心がとても強いと聞いているわ。しかも潜り込める隙もないくらいに周囲を側近や信頼できる者で固めているのはよく知られているでしょう?そんな相手に、何の面識もない姐さんがどうやって繋ぎをつけたというの?」
危険の伴う情報には信頼という付加価値が必須だ。
つまりどれほど価値のある情報でも、信憑性がなければ動いてもらえない。
特に貴族から山ほど恨みを買っている張皓然は、その点が徹底していると聞く。
信頼する相手からの情報でなければ会ってももらえない。
彼の信頼するツテがなければ不可能だと杏はそう言いたいのだろう。
桃林は揺れながら、笑う。
「そこが俺達と姐さんとの違いだ。杏は姐さんが元々どこに所属していたのか聞いているだろう?」
杏はハッと面を上げた。
「まさか、陶家の?」
「当家夫人のツテを使ったのだろうな。」
杏の脳裏には陶家当主夫人の陽だまりみたいな微笑みが浮かぶ。
身分問わず誰に対しても分け隔てなく接し、良い印象しか抱かせない。
社交性の塊のような陶家の現当主夫人は国内だけでなく、国外にも友人が多いとか。
姐さん曰く、『どこで繋いだかわからないような、それでいてちょっと突いた程度では崩せない強固な縁』が他国にまで綿々と広がっているらしい。
「この高速艇も広寧国に嫁いだ青い鳥の持ち物だと聞いている。当主夫人のツテだけでなく陶家から高速艇を借りる対価として姐さんは青い鳥の願いを叶えたのだろうな。」
曹絹雲に関する情報の出どころは陶家だったのか。
広寧国に帰国しようとしたところを捕らえた料理人の男は雇い主の名前までは知らなかった。
ただ最終的には情報を受け渡す場所と、彼らの使ういくつかの符牒を白状したのだ。
それを元に鈴麗がどこからか情報を掴んできて、手分けして調べたところ曹絹雲にたどり着いた。
情報元が陶家であれば、紫家としては対価が必要。
それが青い鳥の願いを叶えること…黄家と広寧国を繋ぐことだった。
「曹絹雲は戦争推進派、張皓然は他国との和平を望む穏健派の中心人物。戦が起きれば黄家の主人たる自分の亭主が最前線に立つ事になる。だから亭主を守りたい青い鳥としては、できる限り戦争を避けようと手を打つのは当然だな。そして対する張皓然は敵対勢力の力を削りたい。」
本来は陶家当主夫人自ら繋ぐのが一番手っ取り早い。
だが友好国である成安国にとって敵国である広寧国の貴族に、今や将軍位を得た親が未婚の娘を紹介するなどあり得ない。
他の貴族に知られれば、国に仇なす行為と糾弾され立場を失うだろう。
しかも嫁ぎ先は広寧国と争う成安国の軍部に属する人物であり、接触すれば内通者だ。
ますます接触が難しくなった陶家と青い鳥に代わり、姐さんが縁を繋いだのだ。
敵の敵は味方。
あれだけ短時間にそこまで算段をつけたのかと、杏は驚くより呆れてしまった。
両方の思惑を知る彼女だからこそ得ることのできた張皓然と高速艇だった。
「で、タレ込んだついでに現場の情報として残された女達の身の上話くらいはしただろうな。」
「そう、なの?」
「だから推測だって。実際に居合せたわけじゃないし。」
「なんだ、都合のいい憶測じゃないの。」
「そう、憶測。だけど姐さんならそうするだろうって思わないか?わりと高い確率で。」
「…。」
「姐さんが言わなくとも張皓然が直接彼女達の事情を聞けば、それなりの身の振り方を提示するだろう。つまりそういう事後の副産物も込みでタレ込んだ。姐さんは人や物がどう動くか予測した上で動くような人だし、その予測が外れた事は少ない。それはお前も知っているだろう?」
「ええ、そうね。すごい人よ…私なんかとは全然違う。」
「まあ確かにすごいけど…全部が姐さんの手柄だというわけじゃない。」
「どういう意味?」
「切り札となる張皓然と繋がるには陶家の力添えが必要だった。」
陶家当主夫人の手助けがあったからこそ、張皓然に情報を渡す事ができた。
そして張皓然の介入がなければ曹絹雲の罪を明らかにする事まではできなかっただろう。
「蜥蜴の尻尾など、いくらでも後から生えてくる。今回も情報を元に曹絹雲の身柄の引き渡しを求めても、適当な理由をつけて国に始末される可能性すらあった。その対策も含めて今後のためにも、広寧国内に協力してくれる人間が欲しかったんだ。」
「今後のためにも?」
「姐さんの本当の狙いは広寧国という猫の首に”よく鳴る鈴”をつける事だからだよ。」
猫が動けば鈴が鳴る。
苟絽鶲国としては近隣国ではない広寧国に他国を使って領土を狙われるという状況は想定外だった。
今回は上手く収めたものの今後、同じ手を使わないとも限らない。
とはいえ、距離があるために動向を把握するのも一苦労だ。
そこで鈴をつける事にした。
鈴である張皓然が動けば、内容により広寧国の首根っこを周辺国が押さえることになるだろう。
苟絽鶲国であれば女王蟻の指示により国の暗部が動くというわけだ。
「そのための顔つなぎと…万が一、噂と違って張皓然が裏切るような屑であるなら、国の関与を疑われぬよう後始末までするために姐さん自らが接触した。」
張皓然もまた、今回の件を通じ、鈴として役に立つか試されていたのだ。
どのような密約が交わされたかは、知らされていない。
だが張皓然の動向を知れば機密性の高い情報が与えられた事がわかる。
それこそ、苟絽鶲国ならば国家機密に該当する類のものだ。
個人の裁量で機密すら武器として使う権限を国から与えられた者。
それが女王と呼ばれる由縁。
ますます自分との力量の差に嫌気が差す。
視線を落とした杏の前に桃林が軽やかな身のこなしで降り立った。
船上であることを感じさせない、しなやかな動きに驚いて視線を跳ね上げる。
まるで猫みたいだ。
柔らかい身体で揺れを吸収し、足先で地を掴む。
同じように努力してきたはずの幼馴染みが、いつの間にかここまで成長していたなんて。
自分だけが置いて行かれるようで、ますます不安になる。
不安に揺れる杏の瞳を桃林が覗き込んだ。
「人は誰しも万能というわけではない。直接助ける事が無理なら他人の手に委ねる道だってあるんだ。今回みたいに本人達の運と他者の慈悲に甘えるような不確かな手段であっても、救いの糸を垂らすことはできる。そしてその後は…本人達に垂らされた救いの糸を掴む気力があるか、もう一度やり直したいという強い思いが残っているか本人達が決めるものだ。命以外の全てを失ったような彼女達が歩む道は、さぞ厳しく辛いものだろう。それでも生きたいかは本人の意思であり、姐さんでもどうにもならない領域の話だ。」
救われることが本人の望みとは限らない。
それは単純だけど大切なこと。
改めて言われるまで気付けなかったなんて…。
翻弄されるように生きる彼女達にだって選ぶ権利がある。
それを自己満足のために捻じ曲げて、感謝されるとでも思っていたのか。
理想に酔い、傲慢だったのは私の方だ。
「彼女達について姐さんは多くを語らなかった。けれどあの人は常々、『自分の生死に関わる生き方くらい自分で選ぶべきだ』と俺達に言っていた。なぜなら『かつて自分もそうやって選ばせてもらったから』、とな。過去の姐さんにどんな選択肢があったのかは知らないけれど、他人にもそうであって欲しいと願う人が自分の生死すら他人のものと割り切っているとは俺には思えない。」
普段、杏の前ではふざけた態度ばかりとる桃林の珍しく真剣な表情。
その真摯な瞳に見つめられ、居心地の悪さを感じた杏が視線を逸らす。
桃林も姐さんを慕っているのだろうか。
女王蟻は働き蟻の忠誠心を一身に集めると聞く。
なんでも持っている姐さんが桃林の心すらも奪ってしまったように思えた。
ずるい、ずるい。
うらやましい。
一番欲しかったものを、あの人はこんなにも容易く手に入れる。
意図せずにか、意図したものであるか、そこに違いはあっても結果が同じなら一緒だ。
湧き上がる苦味と不快な感情に胸が締め付けられる。
この感情を嫉妬と呼ぶことくらい、子供っぽいと言われがちな杏でも知ってる。
桃林の瞳の奥に、思慕の色を見つけてしまったらどうしよう。
知りたくない。
でも視線が合えば気付かずにはいられないだろう。
葛藤の末に杏は視線を桃林に向けた。
さまざまな感情を混ぜ合わせたような複雑な色合いに浮かぶのは、緊張。
瞳を彩るのは、苦悩に満ちたものだった。
これから、貴方は何を言うつもりなの?
少しだけ躊躇った後、桃林は懐から折り畳んだ紙の束を取り出す。
「これは姐さんからの提案だ。」
「…紹介状?」
表書きの文字を追った杏は表情を歪めた。
姐さんは私より桃林を選んだ。
綺麗で、強い姐さん。
ずっと憧れていたのに。
仲間として必要ないと、いうことだろう。
とうとう見限られてしまったのね。
泣きそうな表情に気付いた桃林は、慌てた様子で言葉を紡ぐ。
「違う、絶対違う方向に考えてるだろう!だから誤解のないよう俺から話すことにしたってのに!」
耐えていた涙が、ポロポロ溢れる。
ギョッとしたように桃林が慌てて涙を拭う。
その手を杏は叩き落とした。
そして睨みつける。
「誤解も何も、これを持ってどこかへ行くようにっていう姐さんの指示があったからなんでしょう?姐さんも桃林も、私を要らないんでしょう?!出ていくわよ、望み通りに!!」
「だーかーらー、違うから!!最初に提案って言っただろう?彼女達と同じように生き方を選んでいいって姐さんは言ってるんだよ!!この紹介状を使って学び、再び紫家に戻ってくるか、それともこのまま紫家に残って修行を続けるか、杏に選んで欲しいと思っているんだよ。」
「選ぶって…紹介状を使ってどこで学ぶの?」
「陶家だ。」
「えっ陶って、まさか姐さんの…!」
「そう、古巣だ。陶家当主夫人が直々に鍛えてくださるとよ。」
「な、ななんで!なんで私が?!」
分け隔てなく親しみを込めて接する陶家夫人の柔和な微笑みが浮かぶ。
あまりにも想定外な展開と、大物の登場に杏は絶句した。
全く脳が働かなくて、ただただ呆然とするばかり。
桃林はニヤリと笑った。
「姐さんはお前を絶対に切り捨てない。もちろん、俺もだ。」
「で、でも私は強くないし…。」
「孤独に生きてきた姐さんに足りないのは、人との繋がり。それをお前に補って欲しいのだとよ。」
そういう戦場で陶家当主夫人は最強だ。
多分、苟絽鶲国において敵うのは帝室くらいだろう。
彼女の側で仕えるという事は張り巡らされた人脈の一端に触れる事ができるようになるという事。
上手いこと取り込めば、後々、杏にとって助けとなる。
今後の紫家で欠くことのできないほどに強力な武器となるに違いない。
「戦の多い混沌とした時代には生き残るためにも際立った武力が必要だ。強ければ強いほど人心を集める。直近だと成安国の黄家当主がそうだろう。だが平和な時代が訪れると、武力だけでは家の名誉は保てない。そこで必要とされるのは表の顔と人脈、そして俺達のように裏で立ち回る者だ。姐さん曰く、必要になってから人を育てるというのでは遅い。必要とされる前に、使える可能性がある手をいくつも打っておく。それがこれからの紫家の方針だそうだ。」
可能性がある手を打っておく。
その可能性の一つに、姐さんは私を選んだというのか。
選ばれた喜びよりも困惑する気持ちが勝る。
愚かで弱い私を、姐さんはどうして。
「昔から姐さんは言ってた。『杏には、光が似合う』ってな。」
裏で画策するのではなく、表を舞台に人と接して渡り合う。
持って生まれた個性や能力は、人それぞれ。
姐さんは、たしかにそう言っていた、言っていたけれども。
「杏、裏で生きる両親から生まれたとしても同じ生き方を選ぶ必要はないんだ。」
望む生き方を選んでいい。
けれどそう簡単に、人は生き方を変えることはできない。
「姐さんは自分が失ってしまった光を杏に見出したんじゃないかな。」
「だから、表にと?」
「杏が選びたいのなら、そうすればいい。」
「どうしよう、いきなりこんな事言われても…。」
「苟絽鶲国に着くまで、まだ時間がある。その間に決めてくれればいいってさ。」
滞在時間も含めると、およそ一ヶ月くらいだろうか。
長いとも短いとも言い難い微妙な残り時間だ。
杏は頭を抱えた。
心が、揺れる。
実は杏と桃林のお話はわりと早い時点で考えていたのですが、ようやく入れることができました。
ただ、長くなってしまったので、切りのいいところで半分にしています。




