広寧国裏話 女王蟻と光踊る海の輪舞曲
生死に関わる表現が出てきます。あくまでも個人の意見ですので、無理と思ったらスルーしてください。
明け方の静寂に紛れて、一艘の船が力強く海を渡る。
目的を達した今は、情報と証拠を鮮度の高いうちに持ち帰るのが任務だ。
海面に浮かび上がる蜃気楼のような成安国を目指して船は進む。
高速艇を利用しておよそ数日で到着、その後、成安国にある陶家の拠点から乗り継いで一週間ほど。
天候が良ければこのまま海路を進む方が陸路よりずっと早い。
鈴麗の顔に笑みが浮かぶ。
あの部屋のからくりを調べるためにずいぶんと時間が掛かってしまったから急がないとね。
からくりを彼女のいる前で開けてくれたのは僥倖。
予想した通り、厳重に保管された証拠の数々に苟絽鶲国の一件に係るものが含まれていた。
…自分の身に危険が及んだ時の保険だと言っていたが、保険のせいで破滅するとは皮肉なこと。
とはいえ、あの男は直接手を下さずとも沢山の人の命を奪っている。
その非情とも思える行為が目を引いて我が国に目をつけられたのだから自業自得だろう。
視線の先にある海面が朝日を浴び、光の粒が躍る。
なんとも美しい眺めだわ。
潮風に吹かれて肩まで切り揃えた髪が風に靡いた。
無意識のうちに侍女仲間が教えてくれた旋律を唇が奏でる。
広寧国に古くから伝わるとされる輪舞曲。
果てしなく広く、清廉な世界。
空へと染み渡るように音が吸い込まれていく。
どこかで生まれ変わっっているだろう弟に、この景色を見せてあげたい。
今頃もう、彼の魂は知らない誰かの元へ生まれ変わっている事だろう。
それでも時々、理由もなく彼の事を思い出す。
今度こそ健やかに育っているだろうか。
お腹がすいてないかとか、幸せでいるだろうか、と。
そして思い出すたびに、ぼやけた弟の顔が不機嫌そうな鄭舜様の表情と重なる。
『弟の立場として答えるなら、過保護。私が彼なら、他人の事より自分は幸せなのかと問いたい。』
姉のいる彼の言葉は説得力があった。
それでも鄭舜様は話を聞いてくれたし、そのあとは必ずと言っていいほど私を甘やかす。
『無理に忘れなくてもいい。そして忘れてしまったとしても誰も君を責めない。』
最近は彼の与えてくれる居心地の良さに溺れてしまいそうで、任務に差し障りがないか心配になる程だ。
薄れていく死者の記憶を上書きするのは、生者の記憶。
やはり一番強いのは生きている者だ。
できる限り長生きしないと。
鄭舜様の記憶から自分が儚く消えてしまう日を想像すると胸が痛む。
かつての殺伐とした日々を思い出せば、誰かに執着する日が来るなんて思いもしなかった。
通常の船とは明らかに違う速度で流れていく眩い景色。
昇る陽を目で追っていると、船室から顔を出す誰かの気配を感じる。
徐々に自分へと近づいてくる気配。
唇から流れる曲がぷつりと切れた。
「姐さん、どうして彼女を助けなかったのですか?」
予想した通りに、杏の声だった。
思い悩んでいたし、そろそろ来るかなとは思っていたけれどね。
苦悩に満ちた彼女の言葉に、私は振り向く事なく答える。
「どっちのことだい?」
似ているからと仲間に唆され、女王蟻の名を騙ったという素人か。
それとも、嵌められて一回り以上も歳上の男に嫁がされたという哀れな元公爵令嬢か。
どちらにしろ先程まで潜伏していた曹絹雲の館に囚われていた女性達のことだという事は、すぐにわかった。
“あの女”
館にいる男達が女性を指す言葉には具体性がなく記号みたいで、だからこそ彼らを騙すのも容易だった。
男達は、徹底して彼女達に興味がなかったのだろう。
肉体的にも精神的にも彼女達より絶対的優位に立っているという油断から、いつの間にかそう呼ぶようになったのかも知れないが、その興味のなさが逆に彼らの隙となった。
女性である事以外に具体性がないという事は、裏を返せば女であれば疑われにくい。
特徴が自分に似ているという素人。
自我を失った元公爵令嬢。
そして空気のような存在の侍女。
私一人で同時に三人に化ける事はできなくとも、時間差で入れ替わる事はできる。
そして入れ替わる時間が短ければ余計にバレにくい。
女王蟻、一世一代の早替わり、人生初の大舞台だったわ。
バセニア皇国で技術を授けてくれた旅芸人一座の皆には感謝しかない。
それでも…。
「私は二人とも助けないよ。」
「それは…!」
「どうしてだと思う?」
期待を裏切るような、素っ気ない回答。
意気消沈した杏が唇を噛むような気配を感じる。
杏は優しい。
歳の近い二人の行く末を案じての台詞なのだろう。
若さ故、頭では理解していても感情が追いつかないというのも理解はできる。
そして規律の厳しい紫の私兵では無理でも、単独行動を許されている女王蟻なら救出も可能だ。
その可能性に彼女は賭けたのだろうが、それは過大評価というもの。
私は救いの神じゃない。
むしろ裁きの神の手先であり、誰よりも地獄のようなあの場所にふさわしい存在だ。
「ねえ、杏。どんな悪人にだって救済される余地はあるものよ。」
昔話にもある。
記憶にも残らないような、たった一つの善行により垂らされた蜘蛛の糸のように。
か細く頼りないものであっても救いの手が伸ばされる可能性は誰にでもあるのだ。
だがそれと実際に救われるかは、別。
「仲間を危険に晒してまで彼女達を助ける価値はない、私はそう判断した。」
虐げられ、壊れていく彼女達の姿を見て全く心が痛まなかったというのは嘘になる。
ただ、敵国で任務に就く時は非情な選択を求められる場面が多々あるのだ。
その度に心が揺らいでは命がいくつあっても足りない。
「それに、あの状況で二人ともは救えない。では杏はどちらを救うつもりなんだい?」
愚か者か、悪役令嬢か。
杏がハッと息を飲む気配がした。
「もし私が計画を曲げてまで彼女達を救った場合、一番危険に晒されるのは部下だよ。他人事じゃない。」
私がいた痕跡を消すのが杏の仕事だから、手数が多く作業が複雑になるほど危険が伴う。
ずいぶんと意地の悪い言い方になってしまったけれど、これは言っておかねばならない。
それが命に関わるものなら、尚更。
視線を返せば、杏は視線を逸らした。
「私は幾つもの命を狩り、幾つもの命を見捨ててきた。だからこそ相手を選んで助けるなんて器用な事はできないんだよ。」
本来、どの命も等しく価値を持ち優劣などつけるべきではない。
誰かに憎まれていても、別の誰かには愛すべき家族であることもある。
それを知りながら数多の命を狩ってきた私には、今更自分の意思に従って人助けをする資格などないと思っている。
それは見捨ててきた人達にとって不公平だもの。
「杏が思うほど私は慈悲深い人間じゃないよ。どちらかといえば冷淡な人間だ。」
「姐さん、…すみません、そんな事を言わせるつもりではなくて…。」
「いいんだ、いつかどこかで話しておくべきことだから。」
紫家の未来のためには話さなければならない、それが今だというだけ。
「覚えておいて欲しい。これは私が選んだ生き方で貴方達を無理矢理従わせるものではないという事を。」
任務に命を懸けることを強制すれば、それはいつしか習慣となり、弊害となって紫家を歪ませる。
頭が部下の命を預かるのではなく、命を捨てさせるようになるだろう。
そんな紫家の未来を私は望まない。
私が許さない。
「だからもし、杏にとって私という存在が重荷となるなら遠慮なく切り捨てなさい。」
人を切り捨てるのなら、いつかは人に切り捨てられる。
それだけの覚悟があるならば、この身でも命でも覚悟に見合うだけのものを奪えばいい。
「奪うなら、奪われる。それが平等というものだろう?」
相手から奪うものと同じものを任務に懸ける。
それが命という唯一無二のものであるのなら、尚更だ。
それが私によって命を奪われた者達に贈る、せめてもの餞。
言葉とは裏腹に穏やかな表情で微笑む私を、杏は呆然とした表情で見つめていた。
「どうして…自分の命を賭けてまで尽くすのですか?!」
「そういう性分なんだろうね。…それに約束したから。」
求婚の代わりに私を殺すと誓った一人の男の顔が浮かんで、小さな笑い声を立てた。
今ならわかる。
温度を感じさせない薄紫の瞳。
あの瞳が揺れて見えるのは、蝋燭の灯りのせいだけじゃなかった。
鉄壁の微笑みを浮かべるあの人が、私を見失った時だけ瞳が揺れるのだ。
誰もが冷たいと敬遠する態度でさえ、私の前では熱を帯びる。
そんな彼が狂おしいほど、愛しい。
「死に取り憑かれていた時期もあったけれど、今はまだ無理かな。」
「姐さん…?」
「冗談だよ。」
鄭舜様の甘美な申し出を受け入れるのはもう少し先になりそうだ。
あんな淋しがり屋を一人残して死ぬわけにはいかないもの。
矛盾に満ちた彼は、自分のために命を賭けさせながら死ぬなという。
いつか彼が手を下すまで、彼の想いが私を死なせてくれない。
面倒な人を好きになってしまったものだ。
ほろりと、口から溢れ落ちた不穏な言葉に杏は息を飲む。
私は微笑んだ。
今はまだ、死ねない。
そして愛すべき優しさを持つ配下を、その優しさ故に失うのもまた辛かった。
「誰かの選んだ道をなぞる必要はないんだ、生き方は自分で選ぶといい。私に言えるのはここまでだよ。」
親が紫家の裏であったとしても、子まで従う義務はない。
それしか知らないとしても、あまりにも視野が狭過ぎる。
「子は親とは違う生き物だから、親と違う生き方を選んでも薄情なんかじゃない。」
ハッとした表情を浮かべた杏は瞳を揺らした。
私は眩しいものを見る時のように目を細める。
今の彼女は、とても眩しい。
若さ、なんだろうな。
失ってしまえば、二度と手に入らないものだから眩しく見える。
二人の間に沈黙が落ちたところで船室に繋がる扉が開いた。
「黄蟻、ちょっといいか?」
「ああ、かまわないよ。」
黄蟻と呼ばれたということは紫家の裏に関わる仕事だろう。
杏とは鈴麗として話していたけれど、呼び名を聞いて思考を切り替える。
ちらりと横を向けば、杏は深く思い悩んでいるようだった。
まさか進路相談を受けるとは…長生きするものね。
うっすらと笑みが浮かんだ。
杏の両親から悩みを打ち明けられた時は正直言って途方に暮れたけれど、これでいいのかな?
今のところ苟絽鶲国内は安定しており束の間の平和を謳歌している。
ならば少しでも安全な場所で長生きして欲しいと願うのが親心というものらしい。
理解ある周囲の環境のおかげで杏は選ぶことができるからこそ、迷う。
選択肢のなかった私とは違う苦しみが、今、彼女を苛んでいることだろう。
…まあいい、後は彼に任せよう。
見張りを交代するために船室から出てきた男と向かい合う。
「姐さん、例の件は俺から杏に伝えるよ。」
「覚悟は決めたという事でいい?」
「ああ、紫家のために。そして俺と、杏の未来のために。」
「ちゃんと言えたね。その調子で寄り道せずに口説くんだよ?」
懐から取り出したものを、そっと渡す。
彼は誤魔化すようにへラリと笑い、それを受け取った。
「んー、たぶん大丈夫?」
「杏は賢いからね、得意の搦手や誤魔化しは効かない。自分の気持ちを正直にって、…まあ、内心ではあの子の前ではそうありたいと願っていたのだから、ちょうどいいじゃないか。」
彼は目を丸くする。
気付いていないとでも思っていたのかしら。
軽薄な態度をとる彼が、根は真面目で正直者だという事に。
「…前から思っていたけど、姐さんって意地悪だよね。」
「それは光栄だ。」
「でも、ありがとう。杏に選ぶ機会をくれて。」
すれ違いざまに彼の軽く肩を叩く。
人間は皆そうだ。
自由という言葉の重さを知るからこそ、身が竦む。
それでも彼女は選ぶべきだ。
救いの神の眷属か、裁きの神の手先か。
自分の正義が、どちらにあるのかを。
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姐さんと呼んで慕う上司の揺るぎない背中を見送った杏は、深くため息をついた。
紫家次期当主夫人である“紫鈴麗”。
そして紫の裏を統べる“黄蟻”。
さらに国を超えて、暗部では名の知られた存在である“女王蟻“。
三つの顔を器用に使い分ける彼女の実力は、自分と次元が違う。
男と比べれば小柄で華奢であるのに剣も体術でも引けをとらないばかりか、自身の劣る部分を経験と知力で補いつつ強敵とも互角に渡り合うことのできる実力者。
姐さんは船室からこちらに歩いてくる男の肩を軽く叩く。
一言、二言、姐さんと会話を交わした彼は一瞬固まってから、憮然とした表情を浮かべた。
姐さんは軽く手を挙げ、船室へと姿を消す。
私とは明らかに違う、大人の余裕を感じさせる仕草。
憧れて、だからこそ遠く感じる。
「彼女達の保護は任務には含まれていないもの、見捨てたって当然じゃない。」
標的と、保護対象以外の人間は景色の一つだと思え。
そう教えられ、裏で生きる両親の背中を見て育った自分が血迷うなんて思いもしなかった。
ただ…蹂躙されていく彼女達の姿が自分と重なって見えたのだ。
姐さんは強者の側にいる。
だけど私は…私程度の実力では弱者に近い。
同じ女性であるからこそ比べられれば辛かった。
どう足掻いても追いつけない自分が、とても惨めに思えた。
次は、明日公開です。別視点になります。ちょっと違う雰囲気のお話を挟みたくて、こうなりました。




