後悔と失いたくないものは
鄭舜様は麗しい笑みを浮かべ首を傾げる。
たぶん数瞬、思考が停止した。
それから彼を問い詰めようと、寝台から跳ね起きる。
「…っ痛!!」
「意外とそそっかしいですね。貴女は怪我人なんですよ、忘れました?」
しらっとした表情で鄭舜様は私を支える。
手伝ってもらいながら再び寝台に横たわるも全く思考がついていかない。
この流れで、なぜ私を妻にするのか。
え、これってもしかして…?
「新しい任務ですか?」
「任務って、またどうしてそういう思考に…。まあ確かに私を助ける立場になるわけですから間違いではないかもしれませんが。貴女は面白い考え方をしますね。」
「面白くなんかありませんよ!!」
完全に頭にきた。
言いたいことはこの際だ、全部言ってやる。
「貴方が何も言わないのに、私が貴方の気持ち全てわかるわけがないじゃないですか!今までが任務のことしか話さない間柄だったのに、それが説明もなしにいきなり妻としてなんて言われたら任務のひとつと判断するしかないでしょう!!バカにしないでよ、私にだって意思はあるの!!私の全てが貴方の思いどおりに動くなんて思わないで!!」
この状況で妻になれなんて裏があるとしか思えない。
そしてその不名誉な関係を受け入れなければならない理由が私にはなかった。
「契約上の妻が必要なら他をあたってください。そんな関係を受け入れる気はありません。」
回答によってはこのまま逃げてやる。
私の怒りを本物と感じたのか、若干迷う素振りを見せながら鄭舜様は再び口を開く。
「申し訳ありません。確かに説明が足りなかったようですね。回復するまで待ってから詳細を話そう思っていましたが、このままでは本当に貴女に逃げられてしまいそうだ。」
確かに、彼らしくない悪手だ。
信頼を失うことのないよう、もっと上手なやり方をとるはず。
「そこまでして私を囲い込もうとするのはなぜです?」
「是が非でも貴女を失うわけにはいかないからです。」
私の手に鄭舜様の手が重なる。
緊張からか、その手は驚くほど冷たかった。
「あまり愉快な話ではないのですが聞いていただけますか?」
「それがここまでの事をする理由に繋がるのなら。」
「紫家の内情は実際に貴女が見てきたとおりです。今だに親族の中には野心を持って私腹を肥やし、あわよくば当主の座を奪おうと画策する者がいる。それを押さえ、正すのは当主の役目。だが父は優しさと甘えを履き違えて、彼らの増長を許した。そして家柄と美しさだけで選ばれた母はそういう家内のいざこざには無関心。だから私は自身の伴侶となる人には、紫家を纏める能力を持つ人物を選びたかった。そしてずっと探していたのです。」
親族の増長は、紫家を窮地に追いやるだけでなく罪のない人間にまで不幸を招く恐れがある。
例えば、陶家を巻き込み騒動にまで発展した人さらいの一件のように。
それを未然に防ぐには当主を筆頭とした主要な人間が常に監視の目を厳しくするしかない。
だがこの国にいる貴族階級の女性には相応しい才を備えた人物が見当たらなかったのだと彼は言った。
「立場上、独り身でいるわけにもいかないので他国の女性の中から選ぼうとしたのです。」
だが今度は国同士の力関係が邪魔をする。
紫家の名を使えば縁を結んだ家を他国で優位に立たせることができてしまうからだ。
そうなると他国で力を伸ばそうと画策する親族が現れる危険があった。
「だから探すことすら諦めかけていました。いっそ優秀な養子を迎えて独り身のままでもよい、そこまで考えていたのです。」
その場合、跡取りとして姉か妹の婚家から養子をもらうつもりでいたと。
自重気味に笑う顔が当時の深刻な状況を物語る。
そんなに追い詰められていたのか。
今まで思い浮かべても彼が弱音を吐いたところを私は見たことがない。
強い風に煽られながらも決して倒れることのない柳の木のような人だと思っていたから、そこまで思い詰めているなんて思いもしなかった。
「そんな時です。劉尚様から貴女を紹介されたのは。」
秀でた武の力と物事の先を読む聡明さ、臨機応変に対処できる柔軟性を持つ女性。
そして拠り所となる家は戦の末に滅び、国同士の柵もない。
「運命だと思いました。」
やっと背を預けるに足る人を見つけたとそう思ったのだと。
それに、と言いかけてから鄭舜様は真っ直ぐに視線を合わせた。
繋いだ手を解き、私の髪に触れる。
短くなった髪はいつの間にか切り揃えられ、整えられていた。
「自身が傷つこうとも大切なものを守ろうとする、貴女のその心根にも惹かれました。」
両親や親族に何度も信頼を裏切られ、それ故に裏切られることを警戒し自ら距離を置く。
だが、どれだけ距離を置こうとも望んだ結果を余すところなく捧げてくれた。
「初めは家のために忠誠を捧げてくれるだけで良かった。だけどそれでは満足できなくなって、やがて貴女の存在そのものを私は手に入れたいと願うようになったのです。」
貴女が、欲しい。
献身の証で傷ついた身体だけでなく、心も余すところなく全てを。
「だから貴女を妻として迎えるために準備を頑張ったのですが、思いの外、時間がかかってしまって。そうするうちに貴女を成安国へと向かわせなくてはならない状況になってしまった。気がつけば貴女の気持ちを置き去りにしたまま、貴女を迎える準備だけが整ってしまったという訳です。人のことは言えませんね、私も外堀を埋めることに必死で貴女の気持ちを確認することを怠った。」
そして説明する機会を失ったままに、この国へ迎えに来る羽目になったのだという。
とても気まずかった、とそう言って彼は困ったような顔で笑う。
夢で見た、弟の表情と同じだ。
そして気がつく。
弟の表情に見覚えがあったのは、弟の顔にこの方の表情を重ねていたから。
どんなに忘れようとしても結局最後はこの方にたどり着く。
逃れられない縁という柵に私はすでに囲い込まれていたらしい。
「しかも貴女から届いた書状には、役目を辞すなどと書いてある。逃げられるのではないかと焦りました。それこそ使節団団長の役目を得て、すぐさま皇国へと貴女を迎えに来たくらいに。」
「…それならば、会ってすぐにでもそう言ってくださればいいのに。」
心が読めないから思いを測りかねて、迷う。
一言でもそう伝えてくれたら、たぶんここまで拗らすこともなく覚悟を決められた。
だが鄭舜様はゆるく首を振る。
「どうしても上手く言葉にすることができなかったのです。言い訳じみていると自分でも思いますが、私は一般的な伴侶に対する愛というものを知らないから。」
このまま気持ちをぶつけてしまえば、怖がられ、逃げられるのではないか。
関係性を一度壊してしまえば再び同じ立場で向かい合うことはできないのではないか。
機会を失い、迷う心が、彼の態度を素っ気ないものとした。
彼は姉弟愛、兄妹愛ならば知っている。
三人の仲が良い事は、機会があるごとに見てきたから。
鈴麗は任務として彼女達の護衛を任されたこともある。
だが家族として抱く愛情と、他人同士が一から積み上げる愛は違うのではないか。
そう思い、手を打ちかねていたのだという。
「現にそうでしたね。相手の気持ちをわかっているようで、貴女の気持ちなど全くわかっていなかった。本来は夫婦関係を学ぶべき対象であるはずの両親から、冷え切った関係しか築けなかった彼らからは、どのように愛を育むのかを学ぶことはできなかった。」
だから鄭舜様は常にこちらを試すようなことばかり言っていたのか。
信じられないのは愛する自信がないから。
そしてこれが愛なのか、確信が持てなかったから。
「私には判別がつかなかった。この名もない胸の奥にある執着心が愛なのか、それとも別の何かか。」
胸の奥に凝る、どろりとしたこの感情。
それと世間の者が口にする愛というものが同じとは思えなかったのだと。
なんとも、不器用な人だ。
器用な表の顔の裏でこんな葛藤を抱いているなど、ほとんどの人間が気付いていないに違いない。
厳しくも、優しい人。
その優しさは彼の不器用さから生まれるものだということを、この時初めて知った。
きっとこれからも滅多にそんな姿は見せないだろうから私だけでも覚えておこう。
「しかもそれだけではなくて、状況が貴女に説明する猶予を与えてくれなかった。」
ここで突然鄭舜様の表情が動いた。
今まで見たことのない表情。
瞳から光が消えて、闇の奥を覗いているかのようだった。
「貴女の事を手にしようと画策する面倒な相手がいましてね。」
「なんとなく推察はつくのですが…いやでも、まさか。」
皇帝陛下は身元の明らかでない人間を城に入れたことを不快に思っていると、そうアデラ姫から聞いた。
そんな私を進んで手に入れようとは思わないだろう。
お茶会の後、熱に浮かされたような表情で勧誘らしきものは受けたが、それだけ。
私の言葉を聞いて、鄭舜様は再び冷え切った笑みを浮かべた。
室温が再び下がる。
コワイのですが、皇帝陛下が何かしました?
「貴女に後宮の警護を任せたいと、そう言うのですよ。」
ますます温度を下げる室温から察するものがあった。
後宮の警護という役目は表向きなのだろう。
私を後宮に迎え入れるための方便。
一旦後宮に入れてしまえば、どうとでもなるし、どうにでもできる。
皇帝陛下がそう考えていると鄭舜様が判断したのは何か私の知らない情報を掴んでいるのかも知れない。
それは物珍しいからと、後先考えず望むものを得ようとする一部の熱狂的な蒐集者と同じ感覚。
様々な身分の美しい女性をすでに自身の周りに侍らせているというのに満足しないという貪欲さは、ある種、国を治める者の性のようなものではないかと思うのだ。
とはいえ、立場が上にある人物の望みだからと、それを許容するわけにはいかない。
その欲を砕くには倫理観と法に基づく冷徹な一手が必要。
「例えば私の新しい身分証を皇帝陛下に見せる、とか。」
「そのとおりです。まさかあの男が貴女を気に入って身柄を要求するなどという愚かな真似をするなど思いもしなかった。本当はきちんと貴女に承諾を得てから、貴女にこれを見せるつもりでした。でも、このままでは貴女を皇国に、あの欲深い男に取られてしまう。それだけは絶対に阻止しなくてはならなかった。国を支える立場の人間としても、そして貴女を愛する一人の男としても。」
始まりは黄家と弟、それから陶家、そして今は紫家を通して国の裏の一角を担う。
貴女が誰かのためにと身を尽くした過去を失う訳にはいかないのだ、と。
…過去も全て引き受けてくださるというのか。
それは私の今までの働きが認められたという事。
今の私には嬉しい言葉だった。
「貴女の献身は国にとっても、私にとってもかけがえのないものだ。だから私は貴女の承諾を得る前に、あの男に新たな身分証を提示しました。私の妻となる女性ですのでお断りいたしますと。」
そして奪うつもりなら容赦はしない、と。
言葉は選んだとはいえ、そこまで言ったのか。
「…大丈夫なのですか?相手は一国の最高権力者ですよ。」
「だからこそです。相手国を代表する者に、その妻となる人物をくれなどと失礼極まりない台詞を言えるわけがないじゃないですか。その程度の計算もできない主が治める国を相手に婚姻など結ぶことはできません。それこそくだらない理由で国同士が争う原因となりかねない。」
手にする利益を上回る損失。
それを知りながら欲望のままに奪うような国の主なら、いずれは国を滅ぼす。
だから下手に混乱を招き苟絽鶲国を貶めようとするならば、…迷わず皇国を奪うまで。
「我が国はただ戦を避けているわけではないのですよ。バセニア皇国を得て領土が広がることによる利益と損失を天秤にかけた結果、適当にあしらっているだけなのです。」
バセニア皇国は資源が乏しいとされている。
その状況で新たな資源を発掘するにも時間がかかるし、その間、国からは支援する一方。
つまり今のところバセニア皇国を手に入れる旨味が全くないのだ。
だから最善の状態はバセニア皇国が存続しながらも、これ以上は付け上がらせないこと。
そのために結ぶ姻戚関係であり、そのために必要なのがアデラ姫の存在なのだと。
「彼女は政治的な野心に乏しい。その事は貴女もご存知でしょう?」
「そうですね、少なくともバセニア皇国のために働くということはあり得ませんね。」
「その点が劉尚様の気持ちに触れたのでしょう。あとは彼女の持つ知識と人々の望みを掬い上げる感性。これは是が非でも手に入れたいと仰られていました。」
「それでは、アデラ姫の結婚相手は…。」
「当然、劉尚様ですよ?」
しまった、そこから間違っていたのか。
そっと鄭舜様から視線を逸らす。
私的な感情が思考を鈍らせるとはよく言ったものだ。
若干不穏な空気を漂わせつつ彼が視線を合わせた。
「…まさかとは思いますが、私がアデラ姫の相手と思っていたのですか?」
「はい、身分の釣り合いを考えると劉尚様かどちらかではないかと。それに話の流れや、ここへ迎えに来たという経緯からそう推察しました。」
「貴女でも、読み間違える事はあるのですね。不本意極まりないですが誤解させた私にも非がある。それからその事は劉尚様には内密です。あの方は意外に嫉妬深いから誤解させただけでも叱られそうだ。」
そうなのだろうか。
いつもおっとりとした優しい表情しか見せないあの方に、そんな情熱が渦巻いていようとは。
だが確かに華凉様の姉である桂花様を十年も追い続けた蒼い狼、隆輝様の兄なのだ。
血は争えないということか。
「読み間違えて対応を誤りました。お手数をおかけして申し訳ございません、主様。」
「…名を呼んではくれないのですか?あの皇帝陛下には名を呼ばれて笑みを浮かべていたようですが。それともやはりあの男に心が動いたとでも言うつもりですか?」
握られた手に力が籠もる。
つまりは鄭舜様と、そう呼べということか。
しかも手を握られた上に熱を孕む瞳に見つめられたこの状態で。
頭に血が上ったようで頬に赤みが指す。
そして同時に気が付いた。
この方が試すような事を言うのは大抵こんな時だ。
私が男性の名を呼び、誰か男性に私が近づく、そんな時。
つまり嫉妬と、いうことなのだろうか。
非常に人間らしい感情を持つのは彼が神などではなく、人である証。
そして私を大切に思ってくれる、その証でもあるように思えた。
人の気持ちとは不思議なもの。
愛は簡単に憎しみへと姿を変える。
憎しみが愛へと姿を変えるように。
思わず笑みが浮かんだ。
「わからないなら、私に尋ねてみてはいかがでしょうか?」
そこに愛はあるか、という事を。
少し前なら怖くて言えなかった言葉。
彼の手に、自身の手を添える。
安堵したように彼の瞳が細められた。
「鄭舜様は何でも知っていそうですが、たまには知らないことがあってもいいと思いますよ。」
「そんなふうに言えるようになるなんて、ずいぶんと逞しくなったようですね。」
「言わなければ思いは伝わらないと教えてくれた人達がいましたから。」
その言葉に彼は小さな笑い声を立てる。
ああ、そういうことか。
この笑みを守りたいがために、私はこの方の前に立ち続ける。
裁きの神と見紛う厳しさと容貌を持ちながら、優しき生者の心臓を抱く彼を守るために。
「まずは謝罪を。貴女の気持ちを確認せずに先走って申し訳ありませんでした。」
「こうしてきちんと説明していただけたので気にしていません。」
「こんな私ですが、愛してくださいますか?」
「はい。貴方が厳しくも優しい方だと知った時から、お慕いしていました。」
菫の花を思わせる優しい色合いの瞳が私だけを映した。
遠回りしたけれど、何度も離れようとしたけれど。
結局、私はこの人を守りたいものに選んだ。
だから女王蟻の献身は貴方のもの。
「では順番が前後しましたが、私の妻になっていただきたい。」
愛しい人。
彼の口からそんな言葉が紡がれたことに驚く。
そして握った私の指先に唇を寄せた。
思いの外、触れた唇の高い温度に心拍数があがる。
温度を感じさせないこの人は、滾るような情熱を持った人であったのか。
今の私には頷く事で精一杯。
翻弄されそうな、そんな予感がした。
下書き済なのはここまでです。しばらく更新の間隔が空きます。




