優しくない夢と思いがけない告白
形あるものは、絶えず変化し、いつかは失われる。
誰だって知っていることだ。
それでも、あの人は失われた痛みを覚えてくれるだろうか。
その痛みすらないというのなら、むしろ忘れて欲しい。
いっそ忘れてしまって。
私のことなど。
頬に風を感じ、眼を開く。
「姉さん、今日はどこへ出かけるの?」
「ああ、九垓。久しぶりだね。」
「ちょっと寝ぼけてるんじゃない?毎日会ってるのに。」
「あれ、っとそう?これから稽古…かな?あれ、何をしようとしていたっけ?」
「本当に大丈夫?」
「うん、なんだか混乱してて。」
呆れたような表情を浮かべる弟。
弟は歳のわりに大人びた子だった。
だけど生まれつき身体が弱くて、あんなことになってしまって…。
ふと首をひねる。
今、何かが引っ掛かったような?
『武に秀でた一族に生まれながら身体が弱いなど、軟弱な』。
心無い親族に裏でそう揶揄されていた弟は、自由にならない身体を補うよう勉学に打ち込んだ。
「将来は姉さんが家を継いで当主になってよ。僕は姉さんを支える補佐になるから。」
「ふふ、生意気言って。今日は体調が良さそうだね。」
「うん、すごく調子がいいよ。」
ぽつり、ぽつりと会話が続く。
緩やかな時間、まだ何者でもなかった頃の優しい記憶。
「姉さん。」
「ん、なあに?」
「僕の分まで生きて、姉さん。」
「そんな、死ぬような事を…。」
「だって死んだでしょう?」
「九垓?」
ザッと荒々しい風が吹き、穏やかな空気が一変する。
そうだ、本物の弟は死んだのだ。
「あの僕は偽物。姉さんが彼に名を与え、彼が僕だと偽っているだけ。」
「それは…。」
「こうして名を奪われた僕は何者なんだろうね?」
どきりとした。
何度も逡巡した弟への想い。
だけど結局私は死んだ弟の名を…黄九垓の名を緋葉へ渡した。
弟の名だけは成安国へと返し、国の礎となる誉れを生きた証として残してあげたくて。
だけどそれは彼の意思ではなく私の自己満足に過ぎない。
はらりと黒い羽根が落ちる。
「だって貴方は貴方だもの。名がなくとも私の記憶には残る、大切な弟だ。」
「なら、姉さんは?」
「私?」
「僕がいない今、名を失った姉さんに何が残る?」
「私には…何が、何が残るのかな?」
「聞いているのは僕だよ、姉さん。」
答えになってないと、弟は困った顔で笑う。
その表情が誰かに似ているような、そんな気がした。
誰に似ているのだろう?
やがてはらはらと落ちてくる黒い羽根が雨のように降り注ぎ、視界が真っ黒に塗りつぶされる。
「姉さんは、いつも相手の事を思うばかりに踏み込むことをためらって距離を置く。だから相手を失うと悔いばかりが残って忘れられないんだ。それは優しさでもあるけど、裏を返せば臆病であるのと同じ。その姉さんの臆病さは、戦闘行為や情報操作においては慎重さと洞察力、そして計画性に姿を変えるから誰も気づかなかっただろうけど。」
「…貴方、そういえば昔から意地悪ばかり言って、ちっとも私には優しくなかったわよね。」
「まあ、そうだったね。だって姉さん、もっとわがまま言ったっていいのに僕に気を使って何も言わないんだもの。言わないのは相手と距離を置きたいから。その行為は、ときに人を傷つける。だから僕にないものをすべて備えた貴女の事が大好きで、…大嫌いだった。」
「そうかも知れない。だけど私は…!!」
それでも貴方を、守りたかった。
一際強く、風が吹いた。
風が強くて、つなぐ手が今にも引き剥がされそうだ。
髪を煽られながら、弟が天を仰ぐ。
それから瞳を輝かせた。
「ああ、裁きの場が開かれる。だからもう行くね、姉さん。」
「行ってしまうの?」
「うん、もう姉さんの元へは帰らない。僕は新たな生を得て、広い世界を見に行くんだ。さよなら、大嫌いだった姉さん。だけど誰よりも力強く輝いていた姉さんは僕の誇りでもあったよ。」
だから姉さんは、姉さんの望むように生きて。
弟は満足そうな笑みを浮かべる。
そしてつなぐ手を離し、軽やかに走り出した。
「…ごめんね、貴方を私に縛りつけてしまって。」
本当は気づいていた。
弟が寂しがるからこの国を離れられないのではなく、私が彼を手離せなかっただけ。
離れたら、いつか忘れてしまうと思ったから。
でももう、平気なのか。
彼はきっと命と共に新たな名を授かるだろう。
そして今度こそ強く逞しく生きていく。
裁きの神にそっと祈った。
願わくば地へ根を張るような力強い肉体を与えて下さい。
厳しくも優しい神ならば彼の願いを汲んでくださるだろう。
風に乗り、弟の声が聞こえる。
「幸せにね、姉さん。あの人とちゃんと向き合うんだよ。」
「あの人?それ、だあれ?」
「姉さんが守りたいと願った人だよ。」
「私が守りたい人?」
私が守るのは黒い髪に、紫の瞳の…。
ーーーーー
そう思った途端、一気に覚醒した。
がばりと起き上がり、肩の強烈な痛みに顔を顰める。
この痛みは現実だ。
辺りは薄暗い。
カーテンが閉じられ布団に寝かされているということは、どこかの部屋の中にいるのかも。
身体を動かしてみるも、思いの外、ままならない。
想像以上に深手を負ったようだ。
きつく、ぐるりと巻かれた包帯を見てため息をつく。
今までのように動かせるまでずいぶんとかかりそうだ。
少しだけ動いてみようと、カーテンを開けるために寝台から降りる。
そして窓を開け放った。
眼下に広がる広大な街並みから判断して、ここは皇国の城内らしい。
夕方の少し冷たい風が吹いた。
途端に、つないだ手の温もりを思い出す。
「夢の中で見る、夢か。」
弟はとても元気そうだった。
病のせいで痩せ細り、火が消えるように亡くなったとは思えない程に闊達としていた。
私が願い続け、彼が望んだけれど叶わなかった健やかな姿のそのもの。
夢の中だとしても最後にそんな姿を見られたことは救いだ。
その時、静かに背後の扉が開いた。
私がまだ眠っていると思ったのだろう。
寝台に視線を向け、驚いた表情を浮かべる人物と目が合った。
「ああ、ナディア。ごめんなさい、手を掛けたさせたようね。」
ぽかんとした表情のまま、彼女は手に持つ水の入った桶をそっと机の上に置いた。
その物腰から、侍女としての振る舞いがずいぶんと身についたように感じる。
よく勉強しているようね。
そう思った矢先、彼女は叫んだ。
「ギャーッ!!絶対安静の病人が、なにを暢気に起き上がって窓なんか開けちゃってるんですか!!」
「ええっ、絶対安静?誰が!?」
「鈴麗さんがですよ!!二日もっ、二日も意識がなくてっ…このまま死んでしまうかと思っ…。」
ボロボロと涙をこぼすナディア。
それは心配かけて申し訳なかったな。
頭を撫でようと手を伸ばしたところで再び勢いよく扉が開いた。
「どうした、ナディア。叫び声が…!!姐さん?!」
「青海、ナディアが、なんだかこう…。」
「姐さーーーん、ひっどい怪我して、死に急ぐのは早すぎだっ〜!!」
「せ、青海!!泣くなっ!!最強の凶悪顔が残念な顔にっ…。」
「残念って言うなよ〜、くっそー!!涙が止まらねえ。」
「鈴麗さんが残念顔とか言うからですよ〜〜!!」
「えっと、ごめんなさい?!」
最終的には泣き顔のナディアと青海に揃って怒られた。
再び扉が開く。
「ちょっと何騒いでるのーって、鈴麗?!」
「アデラ姫、なんかこう…ご心配をお掛けしたようで。」
「心配掛けすぎだよー!!鈴麗っ!!って、はっ!貴女、そういえば絶対安静っ!!」
「えっ、今更ですか?!」
普通に話しているのだけど、今更安静にして効果はあるのだろうか?
アデラ姫は傷に触らない程度力で、軽く背を押す。
「命令よ、め・い・れ・い!!今すぐ寝台に戻りなさいっ!!でないと降臨されるわっ!!」
裁きの、神が。
「そんなまさか。あれは想像の産物で…。」
「…絶対安静の患者がいる部屋で一体何を騒いでいるのか詳しく説明していただけますか?」
私の言葉に被せるようにして発せられた台詞に皆が一斉に扉の方を向く。
そこには煉獄を背負った裁きの神と見紛う存在が立っていた。
降臨されたらしい。
追い込むような台詞を言い放った人物に温度が感じられないせいか一瞬にして場が凍りつく。
その人は、ひんやりとした笑みを浮かべ優雅な仕草で扉を指差す。
「今すぐ出ていくなら不問としますが、如何?」
三人共さり気なく視線を交わし、ギクシャクとした動きで部屋を出ていった。
扉が静かに閉じられ、部屋に沈黙が降りる。
裁きの神と同じ紫の瞳を持つその人…鄭舜様は無言のまま私を誘い、寝台に座らせた。
その仕草はどこまでも優しい。
あれ、絶対零度の設定温度が若干上がったような?
「立ったまま話をするのは疲れるでしょう。」
「ありがとうございます?」
「傷の具合は?念のため、もう一度医師の診察を受けた方が良さそうですね。」
その気遣いが素直に嬉しくて、笑みを浮べ頷く。
一瞬止まった鄭舜様は深々とため息をついた。
…このため息はどういうこと?
「まずは診察を受けてください。話はそれからにしましょう。」
「主様?」
「…想定外でした。寝起きの貴女は少女みたいに無防備だ。」
ちょっと自信がとか、珍しく歯切れの悪い物言いをする。
いつもの冷静さを失わない彼とはどこか違う気がした。
「どうやら甘えてしまったようで、申し訳ありません。」
「それは違うのです。その、そうではなくて…。」
そういうことではないのか。
弟の言うように相手の気持ちに踏み込むことは、私にはとても難しい。
「甘えていたのは私の方なのです。」
少しだけ話をしてもよいかと問われたので頷く。
彼は私を寝台に横たわらせると開け放した窓を閉め、再び寝台に腰掛けた。
「貴女は計画の一端を話しただけなのに、こちらの意図を汲んだように行動ができる。武の力だけでなく、聡明で堅実、自身の判断で策術にも対応できる人物、それが私の貴女に対する評価です。だからつい、甘えてしまった。貴女ならこちらの事情の全てを話さずとも推し量り対処してくれると。そして難しい案件を処理した経験のある貴女なら一任しても円滑に処理できるのではないかと。」
「だからあえて私を成安国に滞在するアデラ姫の元へ向かわせたのですね。」
私が苟絽鶲国から出たくない気持ちを知りながら、甘えてということか。
特に今回は通常の任務よりも教えられる情報が制限されていた。
だから諸々の裏事情を省いて説明した上で行動できる人物に一任するしかなかった、と。
ならばそう言ってくださればよかったのに。
聞きもせず、そう思い込んでいた私が人の事はいえないけれど。
「アデラ姫の今後の立場を考慮すると、煌達様に代わる護衛は女性の方が良かった。だが紫の私兵は圧倒的に男性が多い。そういった事情や経験の有無を考えると貴女しか適任がいなかったのです。決して紫家の裏の要としての役目を外すことが目的だったわけじゃない。」
任務を終えた上で私が望むのなら、その役目を再び任せるつもりだったという。
…それならばそうと言ってくれれば。
そうすれば青海に跡目を継がせるためにも役目を辞した方がなどと無駄に気を回さずとも済んだものを。
私の表情から何かを察したのか、鄭舜様は苦いものを飲み込んだような表情をみせた。
それを人は後悔と呼ぶのだろう。
ではあの時、なぜ突き放すようなことを言ったのか。
「あの時、貴女の意向について考えると言ったのは、その…油断していたからでしょうか。」
「油断ですか?」
「貴女を逃がす気はなかった、ということです。」
彼はそっと視線を反らし、暫し逡巡するも懐から一枚の紙を取り出した。
厚みのある紙には見慣れた苟絽鶲国の印が押されていた。
「貴女の新しい旅券と身分証です。」
そして彼が身分証の名の部分を示した。
紫鈴麗。
「…は?」
「貴女に異存がなければ、私の妻になっていただきたいと思いまして。」




