届いた心
二人は同時に立ち上がり、ドアの前まで駆け寄る。
少しして二人の医師が、手術着のまま目の保護の為のゴーグルを外しながら中から出て来た。
旭川と丸山である。
「旭川先生、お兄ちゃん……!」
不安気に、急かすように江梨子が二人を呼べば、旭川はまず一つ頷いて息を零した。
「手術は……久遠は……!?」
硬い表情を崩さない二人に、江梨子は半ば詰め寄る。
暫し二人は江梨子と桃馬をじっと見つめ黙っていたけれど……やがて、ふ、と肩から力を抜き優し気な笑みを浮かべて。
「――成功したよ。もう大丈夫だ」
「……!」
「助かったんだよ江梨子。久遠は……生きてる」
目を瞠る妹の肩を、丸山が叩いた瞬間。江梨子はその場にへたり込んだ。
「江梨子さん……!」
咄嗟に駆け寄り覗き込めば――江梨子は、両手で顔を覆って泣き崩れた。
「よか……良かっ、た……」
歓喜の混じった嗚咽に、桃馬は何も言えなくなる。
先程未来への希望を口にし、その全てを桃馬に託したばかりの彼女は、本当は桃馬以上に不安で、緊張を張り詰めていたのだ。
けど、桃馬があまりに必死に祈り続けるから。
何て、優しい人だろう。
江梨子が落ち着いた頃、旭川と丸山は、まだ術後の報告等があるので、と言って手術室へ戻っていった。
江梨子と桃馬は、手術室からベッドに乗せられて運ばれていく久遠に付き添い、一緒に病室へと入る。
麻酔が効いているので、今夜は恐らく目を覚まさないだろう、という事だった。
どちらか一人なら、一晩付き添っていて良いと言われ、江梨子は進んで帰宅した。
「久遠が起きた時、貴方の姿が見えないときっと怖がるから」
そう、優しい笑みで言って。
看護師も去り、病室で二人きりになると、漸く桃馬も手術の成功を実感出来て、不覚にも泣き出したくなる。
酸素マスクを取り付けられて眠ったままの久遠の額をそっと撫でて、その温もりを確かめた。
「――有難う、久遠。ほんとに、よく頑張ったな」
片手を布団の中に滑り込ませて、久遠の手を握る。
暫くの間、眠る久遠の寝顔をじっと眺めていたけれど、長丁場で桃馬も体力的に疲労していたようで。
いつの間にか、彼も眠り込んでしまっていた。
目が覚めたのは明け方だった。
夜から朝へと変わっていく途中の風景が、窓から見える。
ぼんやりとする意識の中で、最初に確かめたのは久遠の寝顔と、握った手の温もりだった。
穏やかに眠る様子は、昨夜と変わらない。
大きな手術を乗り越えた後だというのが嘘のように、無防備な顔をして眠っている。
今頃、どんな夢を見ているんだろうか。
桃馬は薄く微笑んで、眠り込む前と同じように彼女の額をそっと撫でた。
――温かい。生きてる。
昨夜から何度も確かめていることなのに、改めてそう思って安堵する。
「……おはよう、久遠。今日も良い天気だよ」
静かにそう呼び掛けて、親指で彼女の鼻の頭の辺りを撫でる。
――その時。
「……、!」
久遠の目が、ゆっくりと、開かれた。
「久遠……?」
桃馬が軽く目を瞠りながら名を呼べば、応えるように久遠は桃馬の方に頭だけ振り向かせる。
その動きは普段よりずっとゆっくりで、瞳もいつもよりずっとぼんやりとしているから、まだ完全に意識が覚醒している訳ではないのだろう。
「久遠……良かった、気が付いたんだな。大丈夫? 何処か苦しいとか痛いとか、ないか?」
安堵のあまりに少し早口に問えば、久遠は不自由そうな仕草で小さく一つ頷いてみせた。
「待ってろ、看護師さんと先生を呼んで来るから。丸山さんと江梨子さんにも連絡しないと」
その安堵と逸る気持ちで、桃馬は――普段ならば絶対に見逃さない変化を一つ、見逃していた。
それに気が付かぬまま、彼は久遠の手を離して、椅子が倒れんばかりの勢いで立ち上がる。
けれど。
「――しのちゃん」
背中に掛けられた声に、桃馬の足がぴたりと止まる。
いつもの、壊れた玩具のようなたどたどしい声ではない。けれど、聞き間違う筈のない、声。
まさか……そんな訳がない、と、心が咄嗟に否定する。
「しのちゃん……」
だが、その否定を更に跳ね除けるかのように、もう一度、愛おしい声が背中に届く。
導かれるように、恐る恐る振り向いた先。
……確かな“意志”が宿る瞳が、桃馬を見据えて、いた。
「久遠……、お前……」
呼吸が上手く出来ない。心臓がいつもより早いリズムで鼓動を刻む。
胸の奥から……あらゆる感情が、込み上げて来る。
「お前……俺が、分かる、のか……?」
震える唇でそう問えば、久遠の瞳からも、涙が溢れて零れ落ちる。
「うん……しのちゃん……ごめん、ね……でも……ずっと、聞こえてたよ……しのちゃん、の……歌……」
「……っ、……」
「ずっと……苦しめ、て……ごめん、ね」
未だ意識が朦朧としているせいか。長い間声を発していなかったせいで舌が上手く動かせないせいか。
とても弱々しく、されど、確かに自分の意志で桃馬に語り掛け、微笑む久遠に、とうとう桃馬は感情が抑え切れなくなった。
再び久遠の側に駆け戻って、彼女の手を半ば乱暴に取って包み込み、握り締める。
言いたいことも、伝えたいことも沢山ある。
だけど、今、桃馬が一番に言わなくてはいけないことは。
「っ……謝るな。謝るなよ、久遠。お前が俺に謝らなきゃいけない事なんて、一つもないんだ」
「しのちゃん……」
「ごめん……ごめん、久遠……!」
今更過ぎるけれど。それでもずっと、ちゃんと言いたかったことは、一つだけ。
「裏切ってごめん……お前を独りぼっちにしてごめん……逃げてごめん……っ」
失うかもしれない時、失った時にしか、大切な事に気付かない。そんな愚かな俺を、どうか許して。
「好きだったのに……ガキの頃からずっと、俺にはお前しか居なかったのに……守ってやらなくてごめん……っ」
気持ちが溢れて、言葉が詰まる。
涙で視界が歪んで、久遠が今どんな顔をしているのかはっきり分からない。
それでも桃馬は懸命に、必死に言い募る。
「どう謝ったって償い切れないけど……俺の言葉なんて信じて貰えないかもしれないけど……これだけは、言わせて」
伝えたかった想いを。七年間ずっと心の奥底に仕舞っていた言葉を。
手紙ではなく、誰かに代わりに届けて貰うのではなく。
伝えなくてはいけない、この時に。
「――愛してる。今も、離れていた七年間も、これからも、俺は、お前だけを愛してる」
「……――、」
少しだけ握る手に力を込めて告げれば、久遠が小さく息を呑んだ。
「長い間……本当に、ごめん……」
そうして、握った手を額に押し当てて、桃馬は嗚咽を零した。
深い後悔が滲むそれが響く中、不意に、久遠が桃馬の手を弱々しくもしっかりと握り返して来る。
はっとなって顔を上げれば――久遠は、笑っていた。
「しのちゃん、が……私に謝る事も、何も、ないよ……」
「っ、何言ってんだよ。だって俺は……!」
「しのちゃんは……何も、間違って、ない……誰だって……犯罪者の仲間、とか言われるの、嫌に決まってるもの……」
「……っ」
「しのちゃんだって……私のせい、で、いっぱい、傷付いて、苦しんだ、じゃない……だから、私に、謝らなくて、いいんだよ……」
「けど……っ」
「どうしても、それじゃしのちゃんの気が済まない、なら……おあいこ、って事に、しよう……? 私も……しのちゃんに、いくら謝っても、謝り切れない、って、思ってる、から」
「久遠……」
「それよりも……ね……しのちゃん……」
言って、久遠は自らの手で酸素マスクを外して、無理に起き上がろうとする。
慌てて桃馬が彼女に覆い被さるようにそれを制したが、その瞬間、久遠は桃馬の懐にぎゅっとしがみ付く。
「しのちゃん、お願い……もっかい……もっかい、言って……? さっきの、言葉」
「さっきの言葉……?」
「うん……ずっと……ずっと、聞きたかった……ちゃんと、しのちゃんから、その言葉……受け取りたかったんだ……」
どの言葉、を言っているのか分かった時、桃馬もまた、久遠をきつく抱き締める。
「――久遠」
溢れる熱と想いを込めて、愛しい人の名を囁いて、彼女の顎を優しく持ち上げて。
「好きだ。好き過ぎておかしくなる程……お前を愛してる」
互いに、涙で頬を濡らしたまま、見つめ合い、唇を寄せ合う。
目を閉じたのはどちらが先だったか。
長い長い年月を経て、漸く重なり合った唇と切ない想いは、涙の味が、した。




