約束
がたがたと幾度か揺らして、首をきょろきょろと動かして、それを幾度か繰り返した後、桃馬が久遠の前に姿を見せた瞬間、今度は桃馬の脇腹辺りを突然掴む。
「久遠? どうした?」
戸惑いながらも桃馬は、彼女のその手を取って身を屈め、視線を合わせる。
が、久遠の表情に特に変化は見受けられなかった。
瞳は何も映さず、何も見ようとはせず。
それなのに、桃馬の手を握る手は、徐々に力が込められて。
「……手術、嫌?」
もしや、と思いつつ静かに問う。
丸山も江梨子も息を呑み、旭川は静かに様子を見守っていた。
明確な答えはやはり返って来ない。だが代わりに、手の力はどんどん強くなる。
「……それとも……怖い?」
更に桃馬がそう問いを重ねると、久遠が桃馬と正面からしっかり目を合わせた。
「……有難う。生きたいって、少しは思ってくれるんだな」
はっきりした返答があった訳ではなく、ただ目が合わさっただけだったけれど、桃馬は何故かそんな気がして、とても嬉しそうに微笑んだ。
そうして少し身を乗り出して、久遠の後頭部をそっと引き寄せて、彼女を抱き寄せる。
「っ!」
丸山が何かを言いたげに小さく声を上げ掛けたが、旭川が片手を上げて彼を制する。
「俺も、お前に死んで欲しくないんだ……」
異性に抱き締められているという状況にあって、やはり久遠の顔色は何も変わらないように見えた、けれど――徐に、彼女の手が、桃馬の背に回った。
丸山も江梨子も、旭川でさえも、信じられないものを見ているようで、各々息を呑み目を瞠った。
「……こんな時、絶対に大丈夫だ、なんて、無責任な事は言えない。俺は元探偵だから、大丈夫って言葉の魔力の怖さを知ってるんだ……だから……久遠。手術は絶対に成功する、怖いことなんてないよ、なんて、気休めは言わない」
状況は違えど、“大丈夫”という言葉を呪文のように唱え続ける人間を何人も見て来た。
その言葉を唱える回数が多ければ多い程、大丈夫ではなかった時の絶望も、嫌という程目にして来た。
たとえば今、旭川が“絶対大丈夫”だと言わない限り、無闇に“大丈夫だ”と言うのは、それは久遠の為ではなく自分の為にしかならない。
探偵として、多くの人間の想いを届け、繋いで来た「想い届け屋」として、桃馬が今使うべき言葉は、伝えるべき言葉は、気休めなんかじゃなく。
「でも久遠、俺は……信じる。絶対、手術は成功して、お前は死なないって」
あるいはそれは、気休めの言葉よりも易い言葉かもしれない、けれど。
「それでもし失敗してお前が死んだら――俺も一緒に死ぬよ」
ぴく、と桃馬の背に回った久遠の指が跳ねる。
「決めたんだ。もう絶対、お前を離したりしないって。絶対、独りぼっちになんかさせないって。だからお前があの世に行くというのなら、俺も一緒に行くよ」
「……し……の、ちゃ……」
久遠の瞳から、大粒の涙が溢れる。
桃馬は体を離して、流れる彼女の涙を指先でそっと拭う。
「――愛してる。俺と一緒に生きて、一緒に死のう、久遠」
それは――愛を囁く言葉としては何処かふざけているようで、慰めを説くにしては何処か重過ぎる言葉、だったけれど。
久遠は、縋るようにもう一度桃馬の手を力一杯握り締めて。
「しの……ちゃ……い、っしょ……」
壊れた玩具のように途切れ途切れな声で、頻りに、一緒、と呟き続けた。
桃馬の手を握る彼女の手の平に、誓うようにそっと唇を寄せて、桃馬は立ち上がる。
全ての覚悟を決めた清々しい笑みで、丸山の方を振り返り……一つ、頷く。
すると丸山は一瞬目を伏せて、拳をぎゅっと握り、決意を秘めた眼差しで、旭川に向き直った。
「旭川先生。久遠の手術……宜しくお願い致します」
そうして、目まぐるしく月日は流れて――今日。
久遠は朝から、手術を受けていた。
久遠の手術には旭川が執刀し、丸山は旭川に頼み込んで彼の助手として共に手術に立ち会っている。
従って今、手術室の前で手術の終了を待っているのは、江梨子と桃馬だけだった。
二人の間に会話はない。
ただ一心に手術の成功を祈り、その終わりの瞬間を待ち侘びている。
成功確率は四十パーセント。医者の腕と久遠自身の意志、そして運と奇跡をも信じるしかない、というような極めて深刻な状況だった。
神様なんて信じたことは一度もないが、もし今、神の存在を信じて、心から願いを叶えて貰えるとしたら、桃馬の願いは一つだけ。
久遠を、助けて欲しい。
自分が死ぬのはいい。久遠と一緒に死ぬのなら怖くなんてない。
でもそれでも、久遠には生きていて欲しい。
彼女が生きていてくれるなら、もう、それだけでいいのだ。
(頼む……お願いだ、神様……)
震える手を組み、額に当ててひたすら祈る。
(久遠を連れて行かないでくれ……)
いざという時、出来る事は本当に少なくて、ただ、約束という不確かなもので自身を奮い立たせるしかない。
どれくらいの時間が流れたのか。
「……貴方には、大きな借りが出来ちゃったわね、新月堂さん」
唐突に。
本当に唐突に、江梨子がそんな事を言った。
何の事か分からずに驚いて振り向けば、淋しそうな、それでいて優しい微笑みを向けられる。
「久遠をここまで連れて来てくれた事。私達では、無理だった。どんなに頑張っても、どれだけ言葉を尽くしても。あの子は頑なに、手術を拒んでいたわ」
「……俺は、別に何も……」
「その謙遜は嫌味にしか聞こえないわよ」
「っ、そんなこと」
思わず身を乗り出した時、江梨子の淋しそうな笑みが深くなる。
「……幸せにしてあげてね。今度こそ、ちゃんと。あの子は……私達にとっても、大切な妹なんだから」
江梨子の言葉に、桃馬は固く握り締めていた両手の力を、少しだけ緩めた。
お前が死んだら俺も死ぬ、という約束をした男に、江梨子は、当たり前のように二人が共に生きる未来に希望を繋ぐ。
それは、無責任に“絶対大丈夫”と口にするより、絶望を受け入れ“一緒に死のう”と約束するより、ずっとずっと、尊い事のように思えた。
敵わないな、と桃馬は思う。
いつだって男は、女の強さと優しさに、敵わないのだ。
久遠が、桃馬が側に居る事を認識して、泣いて喜んでくれた時のように。
「……お約束、します。必ず」
感極まって、桃馬はそう返すのがやっとだったけれど。
江梨子はとても満足そうに笑ってくれた。
――その時。
『っ!』
手術室の赤いランプが消えた。




