迫る時
“手術中”のランプが点灯されて、三時間。
東雲桃馬はソファに座って、ただただ懸命に、祈り続けていた。
□□□
「想い届け屋 新月堂」
行き場のない想いを届ける為に構えた店は、三ヶ月前のあの日、ひっそりとその歴史に幕を下ろした。
自分のように、伝えるべき想いを伝えず、届けたくても届けられず、そんな想いを抱えている人達の想いを届けることで、自分の過ちの償いをして来た。
実際、それはただの独り善がりの自己満足で、何の償いにもなっていなかったかもしれないけれど。
「……もう、東雲さんったら人が悪いわ。良い人がいらっしゃるなら、最初からそう言ってくれなきゃ」
山倉絹子は、持って来た見合い話が思いもしなかった理由で破談になって、最初はかなり怒っていたけれど、気が鎮まると大きな溜息を吐いて「まあ、そういう事なら仕方ないわね」と渋々その場で相手方に連絡を取って断ってくれた。
「おまけに、その方とご結婚なさるからお店を閉めちゃうなんて」
「いえ、山倉さん。まだ結婚する訳ではなく、体が不自由な彼女の介護の為に、彼女が暮らす地に引っ越すからでして……」
「似たようなものじゃない。美夜さんもがっかりしてらしたそうよ。そういう事はびしっとしないと」
「す、すみません……」
「まあまあ、いいじゃない、絹子おばさん。しのちゃんのヘタレっぷりを、その美夜さんに知られずに済んだんだし。今の女性って、ヘタレ男子には結構厳しいんだから」
絹子と共に桃馬を見送りに来てくれた友理奈は、未だ何処か煮え切らないのかくどくどと苦言を呈す絹子を、苦笑を浮かべつつ宥めてくれる。
「それに私は、しのちゃんがヘタレだったお陰で事無きを得た部分もあるし」
「え?」
「おい、友理奈ちゃん……」
友理奈が何の事を言っているか分かって、桃馬は慌てて制止する。
「でもこれからは、そんな事じゃ駄目だよ、しのちゃん」
「そうよ。こんな立派で素敵なお店を畳んでまでその方の所に行くんだから、より一層びしっと、しっかり!」
「は、はい」
二人の女性に詰め寄られ、桃馬は半ば気圧されてしまった。
背筋を伸ばして返事をすれば、やがて二人は揃って穏やかに笑って少し身を引く。
「――何にせよ、お元気でね、東雲さん。えっと……久遠さんだったかしら。その方に宜しく」
「……はい」
「しのちゃん。もうその人の事、絶対泣かせたりしちゃ駄目だからね?」
「ああ。分かってる。――お二人共、今まで本当にお世話になりました。どうぞ、お元気で」
言いながら、桃馬は両手を差し出して、二人と別れの握手を交わした。
それ以来、この三ヶ月で二人とは会っていないが、時々、手紙のやり取りをしている。
桃馬は、探偵時代から貯めたお金で海沿いにあった小さな空き家を買い取り、久遠が生活し易いようなバリアフリーの家に改築し、彼女と二人で静かに暮らしている。
形としては同棲という事になるのだろうか。
丸山には猛反対されたが、そこは江梨子の鶴の一声で引き下がった。
桃馬はこの家の改築を終えてすぐ、新しい店を始めた。
その名も、「想い代筆屋 新月堂」
キャッチフレーズは、「貴方の想い、綴ります」
インターネットやテレビ電話が普及して、わざわざ便箋を買って手紙を書く、ということをあまりしなくなった現代だが、「手書きのメッセージを贈る」という文化そのものは決して無くなる訳ではない。
桃馬の新しい「新月堂」は、手書きのメッセージを贈りたい人なら誰でも歓迎、という方針で始めた。
不仲な義両親への形だけのメッセージカード、ラブレター、何処かのアイドルに送るファンレター等、手書きのメッセージを贈りたいが文面が思い付かない、文面を考えるのさえ面倒、という人に向けたサービスである。
久遠から離れる訳にはいかないので、以前の「新月堂」のように手紙を届ける事はしていないが、代わりに始めたサービスとして、ネット相談というものもやっている。
Twitterも開設し、DMやホムペでの相談も受け付るようになって、新しい「新月堂」は、桃馬の想像以上に、以前の「新月堂」以上に繁盛していた。
店自体は、朝十時に開店して、夕方五時閉店。
ネットでの依頼の方が多いので、開店休業状態が多いのは今も昔も変わらないけれど。
――そして、ほんの三ヶ月の間に、久遠にもいくつかの小さな変化が起こっていた。
「……久遠、お待たせ」
店を閉めて、桃馬が久遠の傍らに行き、ギターを奏で始める。
日課だった。店を閉めた後、桃馬は久遠の為に歌う。
久遠は、桃馬が歌うその間だけ、桃馬のことをじっと見つめ、時々リズムに合わせて体を揺らしたり、指先で膝の上を叩く動作をするようになった。
日常生活では、相変わらず何を言っても返事すらしないし、振り向きもしないけれど、その時だけは……久遠は、桃馬の紡ぐ音と声に、振り向いてくれるようになった。
更に。
「……久遠、明日俺と一緒に病院に行ってくれる?」
ぴくり。
病院という言葉に久遠は肩を震わせて反応を示す。
「大丈夫。いつもみたいに、ずっと一緒に居るよ。明日はね、丸山さんや江梨子さんも来てくれるって。ね? 何も怖い事はないから」
あやすように、安堵させるように、久遠の手を握って肩を優しく叩きながら言えば、久遠は桃馬をじっと見つめて――やがて、一つ、こくりと頷いた。
久遠は、桃馬が「一緒に病院に行こう」と言った時だけ、病院に行くのを拒まなくなった。
そればかりか、今のようにきちんと返事もしてくれる。
丸山も江梨子も、当の桃馬でさえ、初めて久遠が病院に行くのを拒まなかった時はかなり驚いた。
桃馬の声だけ、届き始めているのだ。
同時に、久遠の中に、生きたい理由が蘇り始めている。
丸山はそう確信した瞬間、かなり不機嫌な顔をしたけれど、最初の頃に比べて、桃馬に対してつっけんどんな態度を取らなくなった。
そうして、いよいよ決断を迫られたのは。
桃馬が久遠と同棲を始めて、一ヶ月半が経とうとしていた頃。
「……先生、どうでしょう?」
「思ったより深刻だね。やはり早急に手術に踏み切った方がいい。これ以上はもう待てない」
「……今、手術した場合、成功率はどれくらいですか?」
診察室で、広げられたレントゲン写真を見遣りながら、丸山と初老の医者は深刻な顔で今後について話し合う。
この医者、名を旭川と言って、丸山が研修医時代に随分世話になった相手で、久遠の主治医でもあった。
久遠の手術が決まれば、執刀も彼がやる事になっている。
「……そうだね、まだ四十パーセントくらいのままではあるけれど……言うまでもなく今決断しなければ、その確率はまたどんどん下がる」
「……、」
桃馬の横で、江梨子が胸の前で両手を組んだ。
「、久遠?」
その時突然、久遠が自分で車椅子の車輪を弄り始めた。




