せめて、この歌声だけでも
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落ち着いた頃には、既に時刻は二十時を回っていた。
久遠はあの時眠ったまま、未だ目を覚まさない。
桃馬は丸山と江梨子の許可を得て、眠る久遠の側に居続けた。
先程あんなに苦しそうだったのが嘘のように、静かに、穏やかな寝息を立てる久遠の頬に、そっと触れる。
温かくて、柔らくて、すべすべしている。
放っておけばあと一年で死んでしまう、なんて……信じられないくらいに。
――七年前、久遠と別れてから暫くして。
桃馬には恋人が出来た。
同じ大学の、よく同じ講義を受けていた女子だった。
一目惚れしてずっと目で追っていたけれど、桃馬の側にはいつも久遠が居たから声を掛けられなかった、と言っていた。
告白されて……桃馬は特に感動も何も覚えなかったけれど、断る理由もないから交際を受け入れた。
一般的に、可愛い子、だったと思う。
もう顔も名前も思い出せないけれど。
久遠と別れて、桃馬もまた、暫くは半ば抜け殻のように生きていた。
キスもセックスも、迫られれば断る事なく応じた。
最後には最低の屑と喚かれて引っ叩かれて終わることも多かったが。
だが、いい加減傷も癒えて来た、数年経ったある時。
何人目の彼女だったか。
そろそろいいよ、と恥じらいながらも誘われてホテルに行って、いざ、事に及ぼうとした時。
組み敷いた彼女の姿が、何故か……唐突に。久遠と重なったのだ。
久遠ではない女を抱こうとしているのに、これまで何度も久遠ではない女を抱いてきたのに。
突然、久遠の姿が頭を占めて、何度頭から追い遣っても、久遠の顔が浮かんだ。
以来、桃馬は彼女だけでなく、交際する女を抱こうとする度に、久遠を思い出すようになった。
そうして、絶望と後悔と共に思い知った。
自分はまだ久遠の事が好きで……今まで交際していた女達の事を、身代わりにし続けて来ただけだったという事を。
だが、今更それを思い知ったところで、桃馬にはもはやどうする事も出来なかった。
あれから数年。久遠の行方はもはや分からず、会えたとして、今更どう詫びても遅過ぎて。
味方だと豪語しておきながら、保身の為に裏切った男の顔などそもそも見たいと思わないだろう。
会えない。会わない方がいいに決まっている。
結局、桃馬は自身をそう戒めて、久遠への想いを抱いたまま、久遠の事は探さないと心に決めて生きて来た。
そんな時、「想い届け屋」をやろうと思い立った。
世の中には、きっと自分と同じように、伝えたくても伝えられなかった想いを、出来る事なら今からでも伝えたい想いを抱えて、抱えたまま苦しんで生きている人が多く居るんじゃないか。
既に探偵社に就職していた桃馬は、その仕事こそ、自分がやるべき事なのだと強く思うようになった。
それが、「新月堂」の始まりだった。
罪滅ぼし、というつもりではなかった。けれど、長年届けられなかった想いが詰まった手紙を届けて、差出人からも受取人からも嬉しそうな、幸せそうな笑みを向けられる度、自分の奥底の傷が、優しく包み込まれるような感覚を覚えるようになっていた。
――今考えると、滑稽な事この上ない。
久遠をここまで追い詰めておいて。何も知らないまま安穏と暮らしておいて。
丸山の言う通り、ただ、逃げ続けただけだったくせに。
「………」
自分が、伝えなくてはいけない想いは。
“愛してる”ただそれだけで、良かったのに。
親指の指先で、そっと久遠の頬を撫でる。
(久遠……なあ、俺は……どうすればいい?)
丸山は、久遠に手紙を書けと言った。
日記に綴られていた、久遠の桃馬への想い。
あれ程までに久遠が想う相手なら、もしかしたら、久遠に届くかもしれない。
丸山と江梨子は、そう一縷の望みを託して、桃馬の事を探したのだという。
だが、今桃馬が手紙を書いたところで。愛してる、と耳元で囁いたところで。
届かない。届かないのだ。
桃馬は苦し気に目を伏せる。
どうすればいいのだろう。
このまま、何もせずに店に戻る事は出来ない。
放っておけば、久遠は一年と待たずに死ぬ。それも、手術を受けるのが遅ければ遅い程、成功率が下がっていく。
何より。もはや桃馬に、新月堂を続ける資格なんて。
日が沈み、どんどん暗くなるにつれて、桃馬の心もどんどん暗く重くなる。
ふと、取り敢えずは灯りを点けよう、と思い立って、壁のスイッチを力なく押した。
「……あ」
その時、部屋のソファの上に、あるものを見付けて思わず声が漏れる。
ギターだった。年季は入っているが、きちんと手入れされている。
試しに弦を一本指先で弾いてみると、耳に心地よい音が響いた。
――懐かしいな。
桃馬は小さく笑みを零した。
昔、高校生くらいの頃、一時期音楽に嵌まってギターを練習したことがあった。
久遠の大好きな曲を演奏してやったら、とても喜んでいたっけ。
その頃の事を思い出して、桃馬はまた笑みを深めた。
そうして、一瞬だけ迷った後。
手にしたギターを太腿の上に抱えてソファに座る。
「――、」
その曲を奏でるのは、本当に久し振りだった。
演奏どころか、ギターを触る事さえ、もう数年振りだった。
けれど桃馬の指は、まるで自分の指ではないかのように、何かに導かれるように、淀みなく、流暢に、滑らかに旋律を奏でる。
随分長い間唇に乗せて来なかった筈のメロディーと歌詞を紡ぎ、桃馬はただ、かつて久遠が愛した歌を、歌った。
ただの言葉は今は何の役にも立たないけれど。
紙の上に綴られただけの文字は何の意味もないけれど。
せめて。
君が好きだった歌が、ほんの一瞬でも、ほんの一欠片でも。
その、固く閉ざされた心に触れる事が出来たなら。
最後の音を鳴らして、一つ息を吐く。
気が付けばすっかり演奏に集中していた。
重く暗い気持ちは少しだけ鎮まって、何となく、体から力が抜けたような気がする。
結局また自己満足に浸ってしまっただけだったけれど。
自分で自分に苦笑を漏らして、そのまま伏せていた顔を上げて――
「!」
瞬間、思い掛けない光景に、桃馬は息を呑んだ。
「ぇ……」
眠っていた筈の久遠が――目を開けて桃馬の方を、じっと、見つめていた。
しかも、涙を流しながら。
思わず間の抜けた声が出る。
「く、久遠……?」
今まで何をしても無反応だっただけに、流石に焦って彼女の名を呼んだ。
すると。
更に予想していなかった事が起こる。
「っ、」
久遠が、桃馬に向かって、手を、伸ばそうとしていた。
涙を流して、けれど顔を歪ませる事はないまま、さながら、糸で操られるマリオネットのように。
だがその指先は間違いなく、桃馬を探し、求めるように彷徨って。
桃馬は目を瞠り、息を詰めて、ギターを傍らにそっと置いて立ち上がる。
誘われるように恐る恐る久遠に近付いて……躊躇いながらも、久遠の手を、取った。
「久遠……? どうした、何処か痛いのか? それとも、苦しい……?」
握った手は震えていた。
その震えが久遠のものであるのか、自分のものであるのか、正直分からない。
ただ何故か、自分と同じくらい、久遠も今とても不安がっているような気がして、桃馬は握る手に少しだけ力を込めた。
更にもう片方の手も持ち上げて、両手で包み込むように握れば、びく、と久遠の肩が震える。
「久遠……?」
もう一度呼ぶ。自分でも驚くくらい、優しい声で。
――その時。
久遠の唇が、僅かに、動く。
「……、の……ちゃ」
「っ!!」
今……。
今、確かに……
「久遠……っ」
逸る気持ちのまま、また、名を呼ぶ。
聞き間違いなんかじゃ、絶対になかった。
今、確かに久遠は。
――食い入るようにして久遠の唇を見つめれば。
「し……の、……ちゃ、ん」
今度は、確かに、聞こえた。
それは……七年振りに聞いた、久遠の、桃馬を呼ぶ、声。
でも恐らく、彼女自身はまだ、自分が泣いている事も、桃馬を呼んでいる事も、分かってはいないだろう。
今まで一切の反応を示さなかった久遠が何故、こんなにも突然。
その疑問は頭を渦巻くけれど、それより何より桃馬は、久遠が自分を呼んでくれたこの事実が、今はただ、嬉しくて仕方なかった。
「し……の、ちゃ」
「ああ……」
治まった筈の涙が、再び、桃馬の瞳にも込み上げる。
「会いに、来たよ……久遠。もう一度、お前に……」
握った彼女の手を額に押し付けて、語り掛ける。
その時、部屋のドアが不意に開かれた。
驚いて振り向けば、そこには、さっきより二倍増しに機嫌が悪そうな丸山が立っていて。
「あ、あの……っ」
浜辺で誤解された事を瞬時に思い出し、桃馬は慌てて事情を説明しようとしたが、それより先に、丸山が盛大な溜息と共に呟いた。
「――やっぱり、あんたじゃないと駄目なんですね」
「え……っ」
「……ぼけっとしてないで、さっさと次の歌でも歌ってやったらどうですか。次は笑ったりするかもしれないですよ」
呆ける桃馬を他所に、丸山はぶっきらぼうにそう半ば吐き捨てて、リビングへと戻って行った。
桃馬は涙を拭い、久遠の手をそっと布団の中に戻してから、もう一度ギターを持ってソファに座る。
それから江梨子が夕食の支度が出来たと呼びに来るまでの間、桃馬はずっと、かつて二人で聴いていた曲や、久遠が好きだと言っていた曲を、歌い続けた。
『愛しい人から裏切り者へ』完




