未来へ続く想い
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手術を終えて、三ヶ月。
久遠の体調に大きな変化はない。定期的に検査は受けているが、それ以外の事はもう、本当に全てが元に戻った。
「久遠。俺、お前に渡したいものがあるんだ」
不安が消え、穏やかで静かな日常を手に入れて、三ヶ月。
桃馬は、次の一歩を踏み出そうとしていた。
「何?」
車椅子の上で、首を傾げて見上げて来る久遠と目線を合わせるべく、桃馬は彼女の正面に屈む。
ポケットから小さな箱を取り出して、蓋を開けた。
「……!」
中に入っていたのは――指輪だった。
「結婚しよう」
ありふれた、何の捻りもオリジナリティもない求婚の台詞に、けれど久遠は、目を丸くして頬を染める。
だがすぐに、彼女は淋し気に目を伏せて、「いいの……?」と問うた。
「私は……昔からずっと、しのちゃんに頼ってばっかで、しのちゃんに甘えてばかりで、しのちゃんが居ないと何も頑張れない弱虫で……何より、こんな、体だし」
手術は成功したが、久遠の足はもう生涯治らない。
結婚して本当の家族になれば、桃馬は当然、久遠の介護を一生担うことになる。
もっと言えばこの先、桃馬が年老いて、それこそ一人では歩けなくなった時。
久遠には、隣に寄り添い、支えながら一緒に歩く事が出来ない。
いつも、いつだって、いつまで経っても、久遠は桃馬に守られ支えられるばかりで、桃馬には何一つ返してはやれない。
「いいよ」
だが桃馬は――久遠の不安と罪悪感を、たった一言で跳ね除けた。
「お前は、俺だけ頼ればいいし、俺にだけ甘えればいいし、俺の為だけに頑張ってればいいし、お前の車椅子を押して、俺が何処へでも連れてってやるよ」
「……しのちゃん……」
「第一お前、俺なしで生きていけんのか? たった今俺が居ないと何も頑張れないって言ったくせに」
「そ、それは……っ」
少々意地悪に言えば、久遠は益々頬を染めて慌て出す。
動揺して体を動かした瞬間、不安定な砂浜の上で車椅子が音を立てた。
桃馬は、車椅子の肘掛部分に両手をそっと乗せ、体重をかける。上から久遠を見下ろし、鼻先が触れ合う程に顔を近付けて、想いを惜しみなく込めて、告げた。
「俺はもうとっくに観念してるんだ、久遠。俺は……お前なしじゃ生きられないって」
「……っ」
「お前が居なきゃ頑張れないどころか……お前が居なきゃ、息をするのさえ苦しいんだ」
「お、大袈裟、過ぎない……?」
「全然大袈裟じゃねえよ」
今でも時々、夢に見る。
実際目の当たりにした訳ではないのに、久遠が桃馬に微笑み掛けて、次の瞬間車の行き交う交差点に飛び出す瞬間を。
手術室のランプが消えて、中から出て来た旭川に、手術の失敗を告げられる瞬間を。
心の奥底に潜む、もしもの世界への不安が見せる夢。
時折、現実がどちらかが分からなくなってしまう事さえあって。
そんな時、思う。
俺は本当に、久遠なしでは生きられない程に、想いが加速しているのだ、と。
「久遠。お前の返事は一つだけ。“はい”か“いいえ”だよ」
「……、」
「答えて、久遠」
半ば追い詰めるように言いながら、桃馬は久遠の左手をわざと焦らすように取った。
ぞく、と久遠が身を震わせる。
「……分かってて聞いてるでしょ」
いじけたような言葉は、彼女のせめてもの抵抗だった。
しかしそれは、桃馬にとっては降伏宣言と同じで。
ふ、と不敵な……それでいて熱の籠った笑みを浮かべて、止めの一言を放つ。
「聞かせてよ。お前だって、正気に戻った時、俺に言わせただろ?」
俺にだけ言わせるなんて、狡いぞ?
「――はい」
そうして、久遠は微笑んで、答える。
幸せそうな微笑みと共に、とても美しく輝く涙の雫を、瞳の端に浮かべて。
「よろしくお願いします」
触れられていた左手をひっくり返して、しっかりと握り合う。
桃馬は久遠の額に一つ口付けを落として、再び身を屈めて、繋ぎ合っていた彼女の左手を引き寄せて、薬指に指輪を嵌めた。
――想いが綴られた手紙を幾百も届けて来た男が、長年抱えていた自らの想いを、伝える事が出来た瞬間だった。
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「――なんかまだ、信じられないね」
波打ち際に並ぶ妹とその恋人の背中を見つめて、久城江梨子はぼんやりと呟いた。
隣には、何処かむすっとした表情の兄、丸山隆彦が胡坐を掻いて砂浜にどっかり座っている。
「久遠の手術が成功しただけじゃなくて、まさか、正気にまで戻っちゃうなんて。そういう奇跡は、ドラマや映画の世界でしか有り得ないと思ってた」
彼女の視線の向こうでは、車椅子に乗った従妹が、一人の青年と声を上げて笑い合っている。
ほんの半年前までは、それこそ絶対に有り得ない光景だった。
どころか、この先一生、見られる筈のないと思っていた光景だった。
――久遠の手術が成功し、生きる屍だった彼女が正気を取り戻して、三ヶ月。
江梨子は、未だ現実と夢の狭間に居るような気分からなかなか抜け出せず、何処かぼんやりとした目で砂浜ではしゃぐ二人を眺めていた。
「私、今でも時々、夢なんじゃないかなって思うんだよね」
幸せそうな二人の笑顔を見る度に過ぎる、未だ拭い切れない一抹の不安。
それを思わず吐露すると、隣にどかりと座っていた兄が、大きな溜息を零す。
「――あるんだよ」
「え?」
「普通に生活してたら想像もつかないような……有り得る筈がないと思うような奇跡が、世の中にはあるんだよ」
丸山もまた、何処か遠くを見るような目で久遠と桃馬の後姿を見つめる。
まるで、実際にいくつもの奇跡を目の当たりにして来たような、とても説得力のある口調だった。
「俺も、何度も見て来たからな。そういう“奇跡”を。その度に思うよ。人間って凄えんだなって」
「……お兄ちゃん……」
「その奇跡を引き寄せたのが、あの男ってのが気に食わねえけどな」
「……そんな事言って。実はお兄ちゃん、東雲さんの事結構気に入ってるでしょ。結婚します、って二人で挨拶に来た時も、“何言っても無駄なんだろ”ってあっさり引き下がったし」
「ふん……」
「大丈夫だよお兄ちゃん。だって東雲さん、私と約束してくれたもの」
「約束?」
「そう。久遠を絶対、幸せにする、って」
『そして僕から、誰よりも愛おしい君へ』 完




