過ちの重さ
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「……っ、」
――桃馬は。
暫く、息をすることさえ、出来なかった。
「……幸い、その時の野次馬の中に看護師さんがいらっしゃって。その方が応急処置をして下さったお陰で、久遠は一命を取り留めました」
救急車の到着をただ待っていただけだったら、きっと、今頃あの子は死んでいたでしょう。
そう締め括った江梨子に、桃馬はもう、目の前が真っ暗になった。
全身が震えて、心臓が破裂しそうな程に大きく鼓動を刻んで、耳鳴りさえ覚える。
「あの子、それから丸々一週間目を覚まさなくて……やっと目覚めた時には……あの、状態でした」
医者は言った。
自殺を図った直前まで、とても大きなストレスを抱えていたのだろう、と。
死ねなかった現実を受け入れるのを頑なに拒否しているのだ、と。
更には、事故のせいでこの先一生立つことも歩くことも出来ないと診断されて。
丸山と江梨子は人生で一番の絶望を、味わった。
「色々、やったんですけどね。どうしても、駄目で。私達の声すら届いてないみたい。こんなんじゃ、あの時死んでた方が久遠は幸せだったんじゃないかって、そんな事を思ってしまうくらい」
正に……生きる屍、だった。
死んではいないが、生きてもいない。
その目は開いていても何も映さず、その耳は音を拾うけれど何も聞かず。
「……諦めようとしたんです。あの子がそんなにこの世界で生きていたくないというのなら、夢の中でも死後の世界でも、あの子が心静かに過ごせるのなら。痛い思いも、悲しい思いも苦しい思いも、しないで済むのなら。だけど、そう思い始めてた頃……」
そこで一瞬、江梨子はきつく拳を握って目をぎゅっと閉じた。
痛みを耐えるような、恐怖に耐えるような素振り。見ると丸山も唇を噛んで何だか悔し気で。
どうしたんだろう、と思って、そう、問おうと口を開いた時。
桃馬が声を発するより先に、答えは隣の部屋から響いた。
「――げほっ! げほっ、げほっ……!」
唐突に聞こえた、久遠の咳き込む音。
苦しそうに繰り返される咳に桃馬は驚いて、咄嗟に立ち上がって駆け出しそうになったけれど、それより先に江梨子と丸山が椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、隣の部屋へ駈け込んで行った。
「久遠!」
悲痛な声で久遠を呼びながら、江梨子はその傍らに膝を着き、久遠の背中を摩る。
慌てて後を追って来た桃馬も、丸山の後ろで久遠の様子を覗き込んで――
「……っ、!?」
目にした光景に、堪らず息を呑み、口元を手で覆った。
苦しそうに蹲り、未だ咳込む久遠の膝掛けが――真っ赤に、染まっていた。
見ると、口元を覆う久遠の指の間から、血が幾筋も滴り落ちていて、膝掛のみならず、着ている服も血に染まる。
「久遠、薬だ。飲みなさい」
丸山はキャビネットに置かれていた籠から薬袋を取って、一つの錠剤を取り出すと久遠の口の中に少々強引にそれを入れて、顎を掴んで水を流し込んだ。
飲んでいる、というより飲まされている、という様子だった。
やがて、その薬が効いたのか久遠の咳は徐々に治まっていき、少しすると気を失ったかのように寝息を立て始めた。
「……この子には、もうあまり時間がないんです」
落ち着くと、江梨子が消え入りそうな声でそう言った。
「このままだとあと一年、保つか分かりません」
「な……」
思いも掛けなかった告白に、桃馬はもはや絶句した。
「発覚したのは、私達がこの子を正気に戻す事を諦め掛けた時……今みたいに突然咳き込んで苦しみ出して……緊急搬送された際に、検査で分かりました」
「……たす、からない……んですか……?」
心臓が、大きく波打って痛みさえ感じる。
掠れた声で呟くように問えば、丸山が桃馬の方を振り返ることなく答えてくれる。
「手術をして、成功すれば助かります。可能性は現時点では五分五分……いや、四十パーセントくらいですが」
「……っ」
その四十パーセントというのが、成功率か失敗率かを問うのは、あまりに滑稽だろう。
更に言えば、手術をするタイミングが遅ければ遅い程、その可能性が低くなっていく、という事も容易に察せられた。
「なら……どう、して」
思わず口を吐いて出た言葉を、桃馬は咄嗟に止めた。
どうして、などと、桃馬に問う権利などないと思ったのだ。
だが、罰が悪くなって俯いた時、今度こそ丸山は桃馬の方を振り向いて、彼の胸倉を掴み上げた。
「俺達が無駄に現状を放置してる訳がないだろう! 手術出来るなら、とっくの昔にやってんだよ!」
「っ、」
その表情には、怒りと憎しみ、悲しみと歯痒さ、もどかしさと悔しさ、全てが色濃く刻まれていた。
手術出来るならとっくにやっている。当たり前だ、二人共久遠の事をとても大切に思っているというのは、この短時間で痛い程よく分かった。
だというのに、手術に踏み切れない理由は……
「やめてお兄ちゃん!」
「言わせろ、江梨子」
「お兄ちゃん……っ」
「久遠がこんな状態である以上、医者であり家族である俺が代わりに諸々を判断して、同意書にサインすりゃ、いつでも久遠は手術を受けられる。こんな田舎だけどな、設備はちゃんと整ってるんだ。けどな――けど、他ならぬ久遠が! それを拒否してるんだよ!」
「え……?」
どういう事か分からずに、桃馬は困惑の声を上げた。
「普段は風呂も飯も散歩も、俺達に連れて行かれるまま無反応の久遠が、病院に連れて行こうとする時だけ、両足を地面に踏ん張らせて、車椅子のロック解除を頑なに阻む……表情はまるで動かないのに、何故かその時だけは自分の意志でそうする……あいつは……久遠は、手術どころか治療さえ拒否してるんだ!」
「……、っ」
「それがどういう事か……何でなのか、分からないとは言わせないぞ!」




