もう、傷付きたくない
鳴瀬久遠について話を聞きたい、と。
彼等は最初から、桃馬の事を疑いの眼差しで見据えていた。
久遠と祥平、鳴瀬の家について知っている事で、話せる範囲の事は全て話したけれど、警官達は誤解を解くどころか何か嘘は言っていないか、何処までが嘘で何処までが本当かを注意深く探るような目で桃馬の話を聞いていた。
最後に、事件のあった日、本当に久遠と一緒だったのか、それを証明する人は誰か居るかを聞かれた挙句。
『まあ、君は鳴瀬久遠の幼馴染らしいからね。彼女を何とか助けたい気持ちは分かるけど。もういい大人なんだからさ、もし変な嘘吐いてたらどうなるか、ちゃんと考えるように。そういうの、調べればすぐ分かるんだからね』
と、言われた。
そう言われた瞬間――桃馬の中で、何かが……何かが音を立てて、崩れた。
――警察だけは違うと、思っていた。
久遠は間違いなくその日自分と一緒だったし、それこそそんな事実はすぐに調べれば分かる筈なのに。
妹だからという理由で警察は彼女を疑い、幼馴染だからという理由で桃馬を疑い、挙句、何の証拠もないからと無理矢理にでも二人が事件に関与した証拠を見付けようとしている。
桃馬にはそうとしか見えなくて。
何故、と、思ってしまったのだ。
何故……自分が、こんな目に遭わなくてはいけないのか。
何故、警察だからってあんな態度であんな事を言われなければいけないのか。
桃馬は確かに久遠とは幼馴染だが……祥平とは何も関係すらない。
彼女に兄が居る、それだけしか知らない、のに。
何故。ただそれだけ、で。
そう思ってしまって、崩れ落ちた桃馬の心はもう、駄目だった。
悲しみは悔しさに、悔しさは憤りに。憤りは怒りに。
そしてその怒りの矛先は――守りたかった筈の、久遠へ、向いてしまった。
犯罪者の妹なんかと一緒に居るから。
そんな恐ろしく、けれどどうしようもなく愚かな事を思ってしまった。
理不尽を被った故に生まれた、理不尽な腹立たしさは、そのまま彼の中で膨れ上がり続けて。
『――昨日、俺のとこに警察が来たんだ』
久遠が祥平の共犯者な訳がない。
それは分かっている。
けれど。何の関係もない事で一緒に疑われて、普通に暮らしてるだけで警察に目を付けられて。
否定しても否定しても誰も分かってくれなくて。
『なんかもう……疲れたわ、俺』
不運な事に、当時桃馬が住んでいたアパートには、同じ大学に通う生徒が幾人か居住していて。
やっぱり桃馬も共犯の疑い掛けられてるんだ、とすぐに構内で噂が広がった。
『だって俺さ……そもそも関係ねえじゃん』
祥平のせいで。
祥平の妹である久遠と一緒に居るせいで。
桃馬は負う必要のない傷をどんどん負わされる。
『俺等ももう良い歳なんだからさ、いい加減、べったり一緒に居るのを止める、良い機会なんじゃね?』
――もう、“普通の幼馴染”ではいられなくなっていた。
この先、彼女と一緒に居続けるなら、ずっと、それが付き纏う。
この想いを告げて、晴れて恋人同士になれたとして。
たとえば結婚まで出来た、としても。
“犯罪者の義弟”になってしまう訳で。
『悪ぃな、久遠』
俺、普通の人で居たいし、普通に暮らしていたいんだわ。
謂われのない肩書きとかマジ要らねえんだよ。
――そうして、東雲桃馬は。
幼い頃からどうしようもなく愛していた人を。
全てだった人を。
恐怖と絶望と苛立ちに任せて傷付けて、一人、闇の中に置き去りにした。
その一週間後、久遠は大学に退学届けを出した。
それ以降彼女が何処でどうしていたかは、桃馬は知らない。
□□□
久遠は事件直後、従兄である丸山隆彦の厚意で大学近くにアパートを借り、彼の援助を得て何とか一人で暮らしていた。
折角入った大学なのだから、卒業までは通えるように力を貸す、と申し出てくれたのだ。
桃馬の存在もあって、暫くは久遠は辛い気持ちを胸に仕舞って、懸命に生きていた。
だが。
疑わしいと思ったものに何かしらの罰が下らない限り、集中業火を浴びせて攻撃するという世間のやり方は、七年前も現在も変わらない。
彼女に、更なる異変が起こったのは、桃馬に別れを告げられてから一週間後の事だった。
携帯電話に大量の恐喝メール、一日に幾度も掛かる無言電話、郵便ポストに脅迫状、アパートの壁には久遠を罵る暴言の落書き。
生ごみを玄関先に放置されたり、飼い犬にわざとそこで糞尿をさせる者も現れて、久遠は遂に、アパートの住人からも酷く罵倒されて、大家さんからは追い出された。
久遠もまた――もう、限界だった。
唯一心の拠り所だった人は自分のせいで心に深く傷を負い、久遠の元を去った。
未だネットには久遠を犯罪者と呼び、法で罰せられないなら車にでも轢かれて死ね、といった中傷と暴言で溢れ返っている。
たとえネットを見ないようにしても、無言電話や脅迫状は止まない。
警察は監視の手を緩めない。
誰も味方がいない。誰も、信じてくれない。
そればかりか……子供の頃から大好きで堪らない人まで、傷付けて。
もう、いいや。
そう思った次の日には、久遠は学校に退学届けを出していた。
その帰り、彼女はふらふらと彷徨いながら歩いた。
警報が出される程の大雨の日だった。
そんな悪天候の中でも、人が多く行き交うスクランブル交差点は、雨の音と人の声と、車のエンジン音で気が狂いそうだった。
交差点の歩行者信号が青に変わる。
全員が白いラインを渡っていく中、久遠は一向に動こうとしない。
そんな彼女にあからさまに苛立った視線を向けながら、道行く人々は久遠を避けて歩く。
ほんの二分程で、信号は点滅を始める。
赤になる前に渡り切ろうと走り出す人も居れば、焦らずのんびりと渡る人も居る。
やがて、完全に赤信号となり、車道側の信号が赤から青にパッと変わって――刹那。
『きゃあぁぁあぁああ!!』
多くの人間が行き交うスクランブル交差点は、一瞬で、混乱と騒乱の渦に、呑まれた。
人々の悲鳴。
鳴り響くクラクション。
――雨水に流れていく、真っ赤な液体。
(しのちゃん……)
――ごめんね……。
――その日のうちに、彼女への誹謗中傷は、全て、ぴたりと止んで、消え去った。




