人形
桃馬は呆然と、未だ砂浜に座り込む鳴瀬久遠を見下ろすしかなかった。
色んな疑問と感情が、次々と浮かんで心と頭をぐるぐる回る。
けれどその全てを上手く言葉に出来なくて、何て言えばいいのか分からない。
「……久遠……」
震える声で、やっとの思いで名前を呼んだ。
未だ桃馬の方を振り向かない久遠に、一抹の不安を覚えながら、桃馬は手を伸ばす。
そっと、壊れ物に触れるように久遠の肩に手を置いて、そこで漸く久遠は桃馬の方を振り向いた。
「久遠……」
「………」
「久遠、俺だ……東雲桃馬だ。憶えて、ないか……?」
何の反応も示さない久遠に呼び掛ける。
じっと久遠は桃馬を見つめていたけれど――
「、……っ」
やがて、ふ、と久遠は彼から目を逸らした。
やっぱり今更顔も見たくないか……と一瞬心が重くなり掛けた、けれど、すぐに、違和感に気付く。
「久遠……?」
それに気付いた時、もう一度桃馬は久遠の名を呼ぶけれど、やはり久遠は何の反応も示さない。
単に無視されているのとは――違う。
まるで――そう、それこそ……人形のよう、だった。
車椅子から振り落とされた、という状況にも関わらず、上体を起こしただけで車椅子に戻ろうともせず、側に居る桃馬という人間に反応もせず、ただじっと海の方を見据えるばかり。
そういえば、さっき子供達に攻撃されている時も、抵抗はおろか悲鳴一つ上げなかった。
「久遠、お前一体……」
堪らず身を乗り出すようにもう一度呼び掛けた、その時。
「――何してるんですか!」
突然聞こえた怒声に、桃馬は思わずびくりと肩を震わせた。
「あんた! 会って早々久遠に何を!」
凄い形相で駆け寄って来たのは、一週間前に「新月堂」を訪れた、丸山隆彦だった。
丸山は搔っ攫うように久遠を抱き寄せて、桃馬を睨む。
「いや、ちょ、違いますって! 近所の子供達が久遠さんに嫌がらせをしていたので……」
「嫌がらせ? あんたがいきなり久遠に詰め寄ったんじゃないですか?」
「ご、誤解ですよ!」
「………」
慌てて弁明するも、その慌てぶりが却って信用出来ないのか、丸山は桃馬を不審な眼差しで睨む。
元々良く思われていないせいで、余計にこの状況は芳しくない。
どうしたものか、と途方に暮れ掛けた、が。
「ちょっとお兄ちゃん! いくら何でも失礼でしょ!」
更にここで、聞き覚えのない女性の怒声が響き渡った。
スカートを穿いているのに、大股でずかずかとこちらに歩み寄って来る女性は、背が高いスラリとした美人だった。
「その人の言ってる事は本当よ。さっき、吉田さんと藤岡さんとこの悪ガキ二人を見掛けて問い詰めたから、間違いないわ」
「っ……またあの二人か」
「そういう事。明日にでも両家に苦情を言いに行くわ。そんな事より、ほら、さっさと東雲さんに謝る!」
「う……っ、す、すみませんでした……」
「あ……ああ、いえ……どうも……」
「よし。ほらほら、二人共ぼーっとしてないで、車椅子起こして。久遠を乗せてあげなさい」
『は、はい』
腕を組んでテキパキと男二人に指示を飛ばす女に、男達は揃ってタジタジになる。
素早く彼女は丸山から久遠の体を引き寄せて、丸山は車椅子を起こし、タイヤや座席部分に付着した砂や枝を取り払った。
「東雲さん。久遠を車椅子に乗せてやって」
「え、あ……」
「ちょっと待て! それは俺が……!」
思い掛けない申し出に戸惑う桃馬に対し、ふざけるな、とばかりに声を上げる丸山。
女は、そんな兄ににっこりと笑顔を浮かべて。
「砂とかゴミとか付いた手で久遠に触る気?」
と、とてもにこやかに言った。
何故だろう。そのにこやかさが非常に怖い。
丸山も顔を引き攣らせて、「ああ、うん……ソウダネ……」と言って引き下がった。
「さ、東雲さん」
「、……はい」
というか、桃馬も先程お世辞にも綺麗とは言えない野球のバットを両手で思い切り鷲掴みにしたのだが……。
しかし、未だにこにこ桃馬を促す女を前に、余計な事は言わない方がいい気がして、桃馬は二人に歩み寄り、膝を折る。
女は慣れた動作で久遠の両腕を桃馬の首に絡み付かせた。
車椅子介助をするのだ、当然の格好であるのに、桃馬は心臓の高鳴りを抑えることが出来ない。
思わず腕を引っ込めそうになるのを寸前で押し留めて、桃馬は久遠の背中に腕を回し、彼女の体を持ち上げながら立ち上がった。
(え……何だ、この軽さ……)
瞬間、それこそ小さな子供を抱えているくらいの軽さに、思わず息を呑む。
下手すると久遠の骨を折ってしまいそうな気がして、桃馬は久遠を抱く力を少しだけ緩める。
そうして慎重に、そっと久遠を車椅子に戻した頃には、もう辺りは闇に包まれつつあった。
「さて、と。まだ名乗っていませんでしたね。私、この丸山隆彦の妹で、久城江梨子と言います。今日は従妹を助けて下さって、有難うございました。それから、兄が色々失礼を言ってすみません」
「あ、いえ……どうもご丁寧に。東雲桃馬と言います。久遠さんとは……以前、仲良くして頂きました」
「聞いてます。幼馴染、なんですよね? お正月とかお盆とかで親戚が集まると、いつも久遠ったら貴方の話ばかりだったんですよ」
「……、そう、ですか……」
照れ臭いような嬉しいような、桃馬はちょっとどうしていいか分からない気持ちになる。
「江梨子。自己紹介はそれくらいにして、さっさと帰るぞ。久遠が風邪を引く」
「はいはい。でもお兄ちゃん、分かってると思うけど」
「みなまで言うな」
「……はいはい」
「新月堂さん、貴方もどうぞ。家まで案内します」
むすっとした様子のまま、丸山はそう言って久遠の車椅子を押していく。
急に色々あって、桃馬は気持ちの整理も状況の整理も追い付いていなかった。
久遠は、桃馬に抱き上げられた時でさえ、やはり何の反応も示さなかった。
ずっと、人形みたいに何も言わず、ぼんやり何処を見ているか分からない様子、で。
それにあの……異様な軽さ。
――心臓が、何かを警告するかのように、重く嫌な鼓動を刻む。
桃馬は胸元をそっと押さえて、目を伏せて、大きく息を吐く。
――怖くない、と言えば嘘になる。
が、もう決めたのだ。
逃げないで、全部受け止めて、向き合う事を。
固めた決意を再確認するように心の中で呟いて。
桃馬は二人の背を追った。




