消し去れない想い
その夜、桃馬はいつもよりずっとアルコール度数の強い酒を、ひたすら煽った。
胸の奥底に、厳重に鍵を閉めて沈めておいた筈の記憶が、揺さぶられ、刺激され、桃馬の心を否が応でも満たしていく。
頭の中に響く声は、一人の少女の声。
嬉しそうに、愛しそうに「しのちゃん」と、桃馬を呼ぶ、声。
次いで、何処か攻撃的な、挑発的な丸山隆彦の先程の言葉。
言いたい事だけ言って、肝心な事は濁したまま、一方的に来店して帰って行った。
「何なんだよ……」
振り払うように、振り落とすように、また一気に酒を煽る。
「くそ……今更俺に、一体何を言って欲しいってんだ……!」
ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟る。
そんな自分の姿は、鏡で確認しなくてもさぞや滑稽だろう。
――馬鹿みたいだ。こんな事をしても、逃げられる訳が、ない、のに。
「っ……」
それでもどうしようもなくて、荒ぶ心のままに酒瓶を引っ掴んで――
「しのちゃん!」
だがその時、唐突に、悲痛な呼び声と共にそれが奪われた。
振り向けば……先程半ば追い出すみたいに家に帰した筈の友理奈が立っていて。
桃馬から奪った酒瓶を胸に抱き締めるようにして、酷く悲し気な目で彼女は桃馬を見下ろしている。
「……何だよ、帰ったんじゃないのか」
「……放っておけなくて。だってしのちゃん、凄く……苦しそうな顔、してたから」
「苦しそうな顔、ね……」
正直な所、丸山隆彦が帰った後の事は、よくは憶えていない。
ただ……頭の中の“彼女”の声と、呆ける桃馬を心配して側で名を呼ぶ友理奈の声が、鈍器で交互に殴られてるみたいにわんわん響いて、酷く気持ち悪くて。仕舞いには、どちらの声か分からなくなって来て。
最終的に、「五月蝿い!」と怒鳴って、友理奈を追い出してしまったのだった。
「……君には関係ないよ。さあ、それを返すんだ」
「駄目だよ。これ以上飲んだら体壊しちゃう」
テーブルの上には、既に空いたボトルが三本。
全てアルコールが高めの強い酒だった。
彼女の言う通り、これ以上無理に飲めば、桃馬の体調に関わるだろう。
しかも、友理奈が店を追い出されてからまだ一時間半程しか経っていない。明らかに危険なペースだった。
「ほっといてくれ。こうでもしなきゃやってられないんだ」
「でも……」
「俺だって人間なんだ。むしゃくしゃして無茶苦茶やりたい時だってあるんだよ」
「それで全部駄目にしちゃったら元も子もないじゃない……! とにかくもう駄目だよ……!」
「いいからそれ寄越せって」
「あ……!」
鋭い視線で友理奈を睨み付けながら、桃馬は有無を言わさず彼女からボトルを奪い返し、空になったグラスに並々と注ぐ。
それをまた一気に煽ろうとして……
「やめて!」
だがその時、友理奈が横から桃馬の手を掴み掛かるようにして止めた。
「っ、離せ……! 離せよ!!」
桃馬は掴まれていない方の手で友理奈の手首を掴み、振り払おうとする。
が、互いに一向に引こうとはしないせいでグラスの中の酒は零れ落ち、そればかりか、桃馬のあまりの強い力に、友理奈が悲鳴を上げて体を強張らせた瞬間、バランスを崩して倒れこんでしまった。
「きゃ……っ」
咄嗟に、桃馬は友理奈を庇って、縺れ合うように二人してソファに沈む。
反動でグラスも床に落ちて、二人は意図せずソファの上で抱き合う形となってしまった。
桃馬の上に覆い被さっている、というとんでもない状況を瞬時に理解した友理奈は顔を真っ赤にして、慌てて起き上がる。
――けれど。
「っ、え……?」
それを……桃馬が、阻んだ。
「しの、ちゃん……?」
友理奈の背中には桃馬の左腕が回され、右手は彼女の頬に添えられる。
混乱する友理奈を他所に、桃馬は更に、彼女の後頭部を引き寄せて。
「そんなにやめて欲しいなら……友理奈ちゃんが俺を慰めてくれよ」
「な――っ、ん……!」
酷く冷たい声で呟いて――噛み付くように、友理奈の唇を塞いだ。
一瞬で困惑と恐怖に襲われた友理奈は、桃馬の腕の中で藻掻くけれど、桃馬はがっちりと彼女の体を捕らえて離さない。
それだけでなく、更に彼女の拘束を強め、逃げ場を奪う為に体を反転させて、友理奈をソファの上に組み敷いた。
「しのちゃ……! っ……、ぅ……!」
友理奈の両手を頭の上で掴み上げて、衣服を乱暴に剥いで、その柔肌に歯を立てる。
「ま、待って……っ、待って、しのちゃん……っ!」
友理奈の悲鳴を、酷く冷めた気分で聞いていた。
――もう、どうでもいい。
そうだ、忘れられないなら。
逃げられない、というのなら。
塗り替えてしまえばいい。
全て……違う色に染めてしまえばいい。
今更、“あの子”に会ってどうしろというのだ。
“あの子”に何を伝えろというのだ。
会ったところで、伝えたところで。
俺の罪は消えないのだ。
“あの子”の泣き顔を見るくらいなら……
“あの子”に、一番聞きたくない言葉を投げ付けられるくらいなら……
もう、全部、消してしまえばいい。
この心に、この体に、手に入らなかった幸福と快感の代わりに。
染まっていく。
桃馬の心が、黒く、冷たく、禍々しいものに。
冒されていく。
桃馬の優しさが、温かさが、自分の中の醜い部分に。
しかし。
「っあ……!」
「……!」
――唐突に。鼓膜を刺激した、弱々しい鳴き声に。
桃馬の理性が、一瞬で正常に働き始める。
息を呑み、埋めていた女の胸元から頭を上げて……眼下に広がる光景に、全身が強張った。
何を――俺は、今、何をして……。
乱暴に乱された衣服、白い肌に点々と残る赤い痕。女の手を拘束しているのは、自分の、手。
「あ……」
状況を理解し始めた時、恐怖で体が震えた。
友理奈の手の拘束を、恐る恐る解いて、弾かれたように彼女の上から退く。
「しの……ちゃん……?」
見上げる瞳は、困惑と恐怖で揺らめいていて、手首は痛々しく赤くなっていて。
桃馬はただ、今自分がやろうとしていた事に、戦慄した。
「――……ごめん……俺……」
両手と両眼をきつく閉じて、友理奈から目を逸らす。
「……ごめん、私、しのちゃんの好みの体型じゃなかった……?」
だが……友理奈が次に発した言葉は、桃馬が予想していなかったどころか、信じられない言葉だった。
「え……?」
「最近ちょっと太り気味でお腹もぽよぽよしてるし、足も細くないし……そりゃ萎えるよね。あはは……ごめんね。しのちゃんが辛い事すぐ忘れられるくらい、夢中になれる体だったら良かったんだけど」
「っ、馬鹿……! そんな事……っ」
自分にとんでもない事をしようとした男に対し、あろうことか友理奈は、自分がその気にさせられない体ですまない、などと言って詫びる。
しかも、本当に申し訳なさそうな……それでいて、とても優しい、微笑みで。
一度は逸らした目を、もう一度合わせて、桃馬は言葉を、声を詰まらせた。
未だ衣服を乱されたまま、手首を赤く腫れ上がらせたまま、それでも桃馬を思い遣って微笑み、受け入れようとする少女。
無論そんなこと、生半可な気持ちでは出来る訳がないだろう。
真実、友理奈が桃馬に対してどれ程の想いを寄せてくれているか、は分からないけれど。
少なくとも、彼女にとっては……一時の過ちであっても、気の迷いであっても、それでも、構わない、と思える程の、相手だという事。
――そんな友理奈の優しさを目の当たりにした瞬間、桃馬の黒く染まりつつあった心は急激に晴れて、途端、全てに気が付き、全てを悟る。
「……君と初めて逢ったあの時、君を好きになっていられたら、良かったのにな……」
そうして、桃馬は呟く。
力なく、淋し気に、悲し気に、惜しむように。けれどそれでいて、ここにはいない誰かを、愛おしむように。
「友理奈ちゃん、俺にはね……」
――もう、やめよう。
自分の仕出かした事から、目を背けるのは。
逃げようと、足掻くのは。
その為に、悪戯に誰かを傷付けるのは。傷付けても構わない、なんて甘ったれるのは。
「俺には……」
どうして、目を背けていられるだろう。
どうして、逃げられるだろう。
どうして、忘れようと出来るだろう。
人間誰しも、犯してしまった過ちから逃げることは出来ないし、逃げてはいけないのだということを。
そして。
「俺には――自分でもちょっと怖くなるくらい、好きで好きで堪らない人が居るんだ」
俺が、あの子を――
鳴瀬久遠を、どうしようもなく愛しているのだという事を。




