揺らぐ心
それからどうなったのか、は、桃馬も詳細は分からない。
世間は次第に二人の話題に割く時間を減らしていったし、二人が泥沼の争いを繰り返している間にも、世の中では更に衝撃的な事件や事故が起きている。
手紙を届けただけの桃馬には、報道される以外の事を知る術などなく、今回の依頼はもはや、後味の悪さと遣る瀬無さを残して終了しただけだった。
とはいえ、新月堂の日常も変わらない。
桃馬が届けた手紙によって日本のスーパースターのテニス生命に傷が付いたことなど、新月堂を取り巻く環境の中に居る者は誰も知る由はなく、桃馬もまた普段通りの生活を送っていた。
「……ですから、当店は疎遠になってしまった相手に、伝えられなかった想いが綴られた手紙をお届けする店です。別居中の御主人に離婚届を届けて欲しい、という貴方のご依頼はお受け出来ません」
「何でよ~! もう! 話が違うじゃない!」
相変わらず、新月堂の間違った噂を聞き、間違った依頼を持ってやって来る客が後を絶たない。
ちなみに今のは、家庭内暴力が原因で別居中の夫に、離婚届を届けて書かせて欲しい、という依頼だった。
自分が行けば身の危険があるから、と。
桃馬は肩を怒らせて帰っていく女性の背中を見送って、溜息一つ。
「……やっぱさ、SNSとか始めた方がいいんじゃない? 集客的にもさ」
来客時、トイレに立っていた友理奈がタイミングを計ったように出て来て桃馬の背後に立った。
凄い剣幕だったので、出るに出れなかったのだろう。
彼女は田頭の騒動以来、暫く少し落ち込んだ様子が続いていたが、最近漸く元気を取り戻しつつあった。
彼女はソファの背に両腕で凭れ掛かり、ぐったりする桃馬の顔を覗き込む。
「そうは言っても、別にあれこれ情報を拡散させなきゃいけないような店でもないしな……」
「でもしのちゃん、お手紙届ける為にお店休んだりするじゃん? そういうの呟いたりすればいいんじゃない? 知らずに来ちゃったお客さんに無駄足踏ませない為にもさ」
「……まあ、一理ある、か?」
「そうだよ。それにほら、何時から開店します、とか、毎日それだけしか呟いてないお店も結構あるし。今の人みたいに間違った情報耳にしたら、違います、って都度すぐに発信出来るし」
「うーん……そうだなぁ……友理奈ちゃんも、やっぱTwitterとかインスタとかやってるの?」
「うん。私自身はテレビ見ながら感想ツイートしたり、何かモヤった事を呟いて半ば愚痴ったり、芸能人フォローして出演する映画の情報とかチェックしたり」
楽しそうに言いながら、友理奈は自身のTwitterのプロフィール画面と、フォローしている飲食店やカフェ、芸能人のページを桃馬に見せてくれた。
確かにそれは、ああいった客が現れてから考えていた事ではあったが……桃馬は正直、どうしても気が進まなかった。
客観的に見て、店に貼り紙したり看板に書き加えたりするよりずっと効果があると思うし、やらない手はないだろう、とも思う。
が。
「でも俺……嫌いなんだよなぁ、そういうの……」
そう、桃馬は、Twitter他SNSといった類のものが、心底嫌いなのだった。
現に彼は、どのSNSでも個人アカウントを所有していない。
「え、そうなの? 便利なのに……どうして?」
「……そうだな、理由は……まあ、色々あるけど……」
店舗を構える以上、そういう情報発信ツールは積極的に取り入れるべきなんだろう。
分かってはいるけれど――どうしても、桃馬は嫌だった。
桃馬とて、全く利用したことがない訳ではなかった。
ずっと昔、大学生の頃。
名探偵を目指す為の、情報収集としてあらゆるSNSを活用していた。
新聞もいくつも読んでいたし、本も沢山読んで、常に世間の情勢に目を光らせ、気を配っていた。
けれど、ある時。
彼はその恐ろしさを目の当たりにして、打ちひしがれた。
――記憶が、揺さぶられる。
思い出すだけで、心が鉛のように重くなる。
「しのちゃん?」
暗い沼のような思考に囚われそうになった時、友理奈が桃馬の顔を覗き込んで来た。
ハッと我に返り、桃馬は誤魔化すように笑って、「まあ、考えておくよ」と言った。
深夜。
桃馬は自宅に戻らず、店のデスクでぼんやりと酒を傾けていた。
一度揺さぶられた記憶は、波のように彼の脳を刺激して、心の奥底に沈めていた痛みを呼び起こす。
ネットが普及し、その辺で普通に暮らす一般人が、何の関わりもない相手を正義の名の元に攻撃し、死に追い遣る。
そういう恐ろしい事が、当たり前になりつつある時代。
今でこそ大きな問題として世間では取り沙汰されているけれど、そういった事は何も、この一年二年でいきなり始まった事じゃないのだ。
世間で取り上げられる事がなかった、というだけで。
グラスに注いだ強めの酒を半分近くまで一気に煽り、桃馬はふと、デスクの一番下の引き出しを開けた。
主に私物入れとして使っているそこ。一番奥に、古い木箱が入っていた。
百円ショップなどで売られているような、小物入れのような小さな箱だった。
桃馬はそれを取り出すと、デスクの上にそっと置いて、蓋を開ける。
中には一枚の写真と、花の形をした愛らしいネックレスが一つ。
「……――」
写真には二人の男女が映っている。
並んで映る二人の間には微妙な距離感、不自然に伸ばされているような男の指先には、あと一ミリで触れられそうな女の手。
ぎこちなく、けれど何処か照れ臭そうに微笑む二人。
この写真一枚だけで、二人がとてももどかしい関係であった事が容易に想像出来た。
そして、そこに映る男というのは、他でもない、東雲桃馬であった。
スーツなどではなく、一般的な男子が着るようなありふれた普段着。彼が大学一年生の頃の写真である。
『――しのちゃん』
写真の女性の声が、耳の奥で優しく響く。
しのちゃん、というあだ名は、彼女が付けたものだった。
『しのちゃん』
時代劇に出て来る女性キャラみたいだな、と内心ちょっと嫌だったけれど、彼女があまりに、嬉しそうに、愛おしそうに、そう、呼ぶから。
桃馬はいつの間にか、そう呼ばれるのが好きになっていた。
『しのちゃん』
特に、彼女に呼ばれる瞬間が――堪らなく、好き、で。
「……やめろよ」
……記憶が。心が。想いが……揺さぶられる。
込み上げて来るものを誤魔化すように、桃馬は写真を裏返して、箱の中に戻す。
「……思い出したら、逢いたくなっちまうだろ……」
自分を力無く叱責して……なのに今度は、ネックレスへと視線が行ってしまう。
彼女に渡す筈だった、贈り物。
桃馬は激しく首を振り、蓋を閉じて箱を半ば乱暴に仕舞った。
――やっぱり、駄目だ。
店の為とはいえ、きっと今SNSなんて始めてしまったら。
今度こそ……抑え切れなくなる。
“あの時”の後悔を。
“あの時”の罪を。
そして――未だ捨て切れない、この想いを。
そうなったらもう、会いたくて会いたくて、どうしようもなくなる。
だから、駄目だ。
だって自分にはもう。
“何処に居るのか分からない彼女を探す”資格も、“伝えたい想いを届ける”資格も、ないのだから。
「被害者から加害者へ」完




