英雄と呼ばれる男
東雲桃馬は、腹の底から湧き上がる呆れの溜息を、半ば必死で押し殺した。
「この手紙、届けて欲しいんです!」
そう言いながら、それはそれは必死に頭を下げる目の前の女子高生に対して。いや、正確には、テーブルの上に置かれた可愛らしい便箋に対して。
一見、いつもと同じ依頼に見えるかもしれないが、彼女が届けて欲しいのは、普段桃馬が届けている手紙とは種類が違っていた。
「……何処でどのような情報をお聞きになったかは存じませんが、当方は想い届け屋です。配達代行のような事は一切行っておりません」
「え? でも、ネットで見ましたよ!? どんな手紙でも必ず届けてくれるって!」
――近頃桃馬を悩ませている、最大の問題。
近頃ネットで、この「新月堂」の口コミが徐々に広がりを見せているようなのだが、情報が錯綜していて、誤った情報までも広がってしまっており、彼女のような勘違いをした客が増えて来ているのだ。
彼女の場合は、好きな人にラブレターを書いたのだが恥ずかしくてとても自分では渡せないから、代わりに届けて欲しい、という依頼だった。
他にも、この二ヶ月程で、様々な勘違いの依頼が多く寄せられるようになった。
例えば、仲の悪い姑に形だけの誕生日プレゼントとメッセージカードを書いたが、渡しに行きたくないから代わりに届けてくれ、とか。
今日締め切りだった何かの応募葉書を、出し忘れてしまったから直接応募先の会社に届けに行ってくれ、なんてのもあった。
後者はもはや常識すら疑うレベルだが、まあとにかく、近頃そういう、“新月堂に頼めば何でも届けてくれる”という半ば便利屋のようなイメージが付いてしまって、本来の依頼よりそれが上回り始めているのだった。
「確かに、それがどうしても届けたい想いで、届けたい相手なら、俺は全力で相手を探して、その手紙を届けます。ですが、それはあくまで、“何処に居るか分からなくなってしまった相手”であり、“疎遠になってしまった相手”です。何処に居るのか分かっている上、ましてや疎遠になっている訳でもない相手に届ける事は承っておりません」
「ええっ、だって……!」
「ご自分でお渡しになれないからと言って当方に来られても、私には何もお役に立てません。手紙を持ってくればいい、というような商売ではないので。すみませんが、お引き取り下さい」
桃馬は丁重にラブレターを押し戻しながらそう促した。
すると女子高校生は渋々といった様子でそれを鞄に仕舞い、席を立ち店を出る。
女子高生が去って行ったのを見遣り、桃馬は漸く、深い溜息を吐き出した。
そろそろ本格的に何か対策を講じないと、いずれ“悪質だ”と言い出す客が現れるかもしれない。
客を選り好みしている、とか。
口コミが広がって店を知って貰えるのは良い事だが、一体何処で間違った情報が流れてしまったのだろうか。
或いは、暇な時にご近所さんの手伝いをしていたのが仇となってしまったか。
何にせよ厄介な話である。
つくづく、SNSというやつは恐ろしい。
そもそもTwitterやインスタグラムといったアカウントで情報を発信するような店ではないから、そういったものには一切登録していないが、誤った情報を訂正し、正しい情報を広め、集客を見込む為にも、そういったツールを利用し始めることも検討しないといけないだろうか。
「うーん……」
思わず低い声の唸り声が出る。
取り敢えずは「新月堂」についてどんな情報が飛び交っているのか、エゴサーチなるものをしてみるか……。
悶々と現状の打開策について考えに耽っていると。
からん。
不意に、入り口の釣鐘が控えめに鳴った。
入口に立っていたのは、二十代くらいの女性だった。
時々店に遊びに来る近所の女子大生とは真逆の印象を受ける。
「いらっしゃいませ」
「あの……この辺に、何処に居るか分からない相手を探して、手紙を届けてくれる店があるって聞いたんですけど、ここですか……?」
強張った表情で問い掛けて来る女性に、桃馬は内心、「やっと本命の客が来た」と安堵した。
燻っていた苛立ちを一瞬で捻じ伏せて、笑顔を浮かべて桃馬は頷く。
「はい。当方で承っております。想い届け屋“新月堂”、主の東雲桃馬です」
名刺を手渡しつつ挨拶をすれば、女性も一つお辞儀した。
「どうぞお入り下さい。お話を伺います」
「はい……」
そうしていつものように依頼人をソファに座らせ、桃馬は湯を沸かして茶の準備に取り掛かった。
レモンティーとお菓子を盆に乗せて戻り、彼女の前にそっと置く。
小さくお辞儀をしたのを見届けて、桃馬は向かいのソファに座った。
「改めまして、ご来店有難うございます。ご依頼のお手紙はこちらで大切にお預かりし、責任を持って必ず相手の方にお届け致します。勿論、個人情報その他の秘密はお守りしますので、どうぞご安心下さい」
「……はい。宜しくお願いします」
「では早速ですが、お客様のお名前と、届けたい相手の方のお名前、それからその方についてお話出来る範囲で結構ですのでお聞かせ下さいますか?」
「はい……」
女性はここへ来て、何かを躊躇うように顔を伏せた。
しかしさして珍しい事ではないので、桃馬はじっと彼女が話し始めるのを待つ。
想いを届けたい、というのは存外、何かと葛藤が多かったりすることがあるのだ。
やがて、彼女は唇を一度きゅっと引き結び、すぐに意を決したように顔を上げて、真っ直ぐ桃馬を見つめて語り始めた。
「私、坂川和花と言います。届けて欲しい人の名前は……田頭慎吾という人です」
「田頭……慎吾?」
思わず桃馬は復唱する。
聞き覚えのある名前だった。それもつい最近の事である。
これまでの依頼人と受取人以外の名前はあまり覚えない質なので、そのどちらでもない人間の名前に心当たりがあるなんて滅多にない。
誰だったか、本気で思案していると、和花がバッグの中から、徐に新聞記事を取り出して差し出して来た。
「……あ」
覗き込んで、思わず声が漏れる。
それは、今年の夏に開催されたオリンピックの記事だった。
テニスのシングルス戦で日本人男子が優勝、金メダル獲得という内容で、丸々一面を使って大々的に報じられている。
その優勝したテニス選手というのが、田頭慎吾だった。
「この人、私の中学の同級生なんです。部活でもテニスをやってて、しかも結構イケメンだから女子の間で凄く人気だったんですけど」
一瞬、桃馬の中で落胆と疑念が吹き抜けた。
もしやファンレターを届けて欲しい、という話だったりするのだろうか。
そういったものの宛先なら、それこそネットなどで調べればすぐ分かる筈なのだが。
だが、その落胆と疑念は、改めて和花の顔を見遣った瞬間に消え去った。
彼女の瞳の奥に――背筋が凍る程の冷たい感情が、揺らめいているのを感じて。
「その田頭慎吾に、これを、届けて欲しいんです」
言いながら取り出された封筒は、一般的な白い事務用の封筒だった。
厚みが感じられず、封筒だけを差し出されたようにさえ見える。
枚数も内容も依頼人の勝手なので別段それについてはどうとも思わないが、それより何より桃馬が気になったのは、表に書かれた宛名だった。
真っ赤なマジックで、大きく“田頭慎吾”とだけ、書かれている。
“様”とか“さん”といった敬称は一切書かれていない。中央に、赤く、大きく。
それが、こちらに僅かな不気味さを感じさせた。
「……失礼ですが、その田頭さんとは、どういったご関係なんでしょうか」
言うまでもない事だが、一般的な手紙というのは文章も宛名や差出人名も住所も、黒のペンで記すのが常識である。
例えばこれが学校の授業中にこっそりやり取りする手紙ならばカラフルなペンで書かれていることもあるだろうが、そうでない、しかも大の大人が、届けたい想いを伝える為に書いた手紙を、常識に則らない形で書くなど、普通ならば有り得ない。
ましてや、封筒に、真っ赤なペンで大きく名を書く、なんて。
異質さを感じるなと言う方が無理だった。
警戒と困惑を隠し切れずに問えば、和花は顔を顰めさせて。
「……この人は、私の人生に於いて絶対に忘れられない人」
まるで血を吐くように、呪うように。
「この、日本の英雄だと囃し立てられて誇らしげに笑ってるこの男は……」
声音に、確かに滲んでいるのは――憎悪。
「中学生の頃、私をいじめていた主犯格の男です」
そうして、新聞に載っている田頭の顔を睨め付けて、和花は吐き捨てた。




