今は、まだ、綺麗な思い出を抱いたまま
お客様ね、と言って老婦人はいそいそとスマホをバッグに仕舞って杖を支えに立ち上がった。
桃馬は彼女を支えつつドアまで付き添い、見送る。
「また何かありましたら、いつでもいらして下さい。お見合い以外でしたら、何でもお引き受けします。勿論、お手紙を届けることも」
数秒前に流れた僅かな気不味い空気を一層するように冗談めかして言えば、彼女も笑ってくれた。
手を振り合って見送り、彼女が角を曲がるまで見届けると、桃馬はドアを閉じて、改めて来店客に向き直る。
「……いらっしゃい、智哉君」
「……うん」
「立ち話も何だし、どうぞ座って。今、飲み物を持って来るから」
少し緊張しているような、何かを躊躇っているような顔で所在なさげにしている智哉を気遣いながら言う。
すると彼は先程まで老婦人が座っていたソファに腰掛けた。
「はい。珈琲だけど良かったかな?」
「あ、ああ……あの、有難う」
二日前に会った時とはかなり雰囲気が違う。
智菜の手紙が、彼の中の何かに響いたのだろうか。
「あの……さっきのお婆さん、良かったの? なんか俺、追い出したみたいになっちゃったけど……」
「大丈夫。あの人は依頼人じゃなくて、お茶飲み友達みたいなもんだから」
「お茶飲み友達……?」
「時々な、来るんだよ。あの人だけじゃなくて近所の学生とかおっさんおばさんとか。昔探偵なんてやってたから、人生相談とか恋愛相談とか、家庭内の愚痴とか、色々話を聞いてあげてたりしてるんだ」
「……ってことは、浮気調査とかもしてんの……?」
「いいや。今は探偵じゃないからな。そういう事はやってない。お届けの依頼が全然ない暇な時に、ちょっと相手の様子を観察するくらいの事はするけど、それで金取ったりはしないよ」
「へえ……」
話しているうちに幾分か落ち着いたのか、智哉は桃馬が振舞った珈琲を一口飲んで、一つ息を吐いた。
「あ、あのさ……」
「うん?」
「あんたに頼みが、あるんだけど」
「何だい?」
問い返すと、ややあって智哉はズボンのポケットから封筒を取り出した。
「これ……智菜に、渡して欲しいんだけど」
「……それは?」
「あいつからの手紙の返事。書いたんだ。何言っていいか分かんなくて、一言しか、書いてない、んだけど」
「……俺の仕事はあくまで、何処に居るか分からない相手を探して手紙を届ける事だ。相手が何処に居るか分かってるんだから、自分で届けるべきじゃないのか?」
罪悪感か、恥じ入る気持ち故か、俯く智哉に桃馬は少々厳しい口調でそう言う。
その言葉に、智哉は顔を上げて、痛みを耐えるような顔をした。
「分かってる……っ! 分かってるけど……っ」
「……合わせる顔がない? それとも、怖い? あの子に会うのが」
桃馬の言葉に、智哉は再度苦しそうに俯く。
「……俺、本当はあいつの事、目障りで仕方なかったんだ」
やがて智哉は、まるで懺悔のように小さく語り始める。
「施設で友達を作ろうともせず、いっつも俺の後ろにくっついて、ちょっと俺の姿が見えなくなるとすぐべそかいて。このまま一生こいつに縛られて生きてかなきゃいけないのかなって思うと……凄く理不尽で腹立たしかった。周りの奴等は歳を重ねてくごとにちゃんとしっかりしていくのに、あいつだけはいつまでも兄離れが出来なくて、いい加減にしろ、って」
「………」
「けど、妙なプライドと責任感と情が邪魔して、あいつをどうしても邪険に出来なかった。何だかんだ面倒見て……俺が守るしかねえんだよな、って自分で自分を納得させてた。そんな時、俺を引き取りたいって人達が現れたんだ」
それが、井上夫妻だった。
「やっと解放されると思ったよ。俺に引っ付いてなきゃ何も出来ない出来損ないの妹から、やっと解放されるって。自由になれるって。だから、引き取られていく日、智菜が号泣して俺との別れを嫌がってる姿を見ても、俺は何の躊躇いもなく振り切れた」
桃馬は、智哉の独白を黙って聞き続けた。
「まさかそれが、更なる地獄の始まりだった、なんて、夢にも思わなかったけどさ……」
徐に、智哉はポケットからもう一枚、便箋を取り出した。
それは、桃馬が智哉に届けた、智菜からの手紙だった。
「馬鹿だよな、あいつ……自分と離れて喜んでた薄情者の兄貴を……“妹想いの良いお兄さん”を演じながら、心の中ではその妹を鬱陶しがってた、そんな糞ったれの兄貴を、馬鹿みてえに純粋に信じて……馬鹿みてえな夢、見て……」
頻りに馬鹿だと呟きながら智菜の手紙を撫でる智哉の顔には、疲れ切ったような苦笑が浮かんでいた。
笑っているのに、泣いているようにも、見えた。
「……これから、警察に自首しに行くんだ」
「……、!」
「結構……やっちまったから。悪い事とか、酷い事。女の人も、何人も襲った、し」
きゅ、と、智哉が智菜からの手紙を握り締める。
「“お兄ちゃんも何処かで新しい家族と幸せに暮らしてる”……そう、智菜には信じたままで居させてやりたいんだ。せめて――あいつが、そういう事を理解して、自分で考えられるようになるまで」
「……それが君なりの、兄として初めての、心からの妹への償いであり、気遣い、か」
「そもそも多分、信じないだろ。あいつは。俺が犯罪者だって。年齢的にも、そういう現実を受け止め切れないと思う」
受け止め切れないものを無理に受け止めさせるより、今は、純粋で綺麗な兄との思い出を抱いたまま、新しい家族の元へ。
「……分かった。その手紙、智菜ちゃんに届けてやる」
「……ほんとか? 有難う……あ、お金……」
「いいよ。手紙の返事も、一応サービスには入ってるんだ。まあ、そうでなくても今回は、君達兄妹の新たな門出のお祝いって事にしておくよ」
言って桃馬は、テーブルの上に置かれた茶封筒を手に取って、上着の内ポケットに丁寧に仕舞った。
「この手紙を智菜ちゃんに渡したら、そこで今度こそ、今回の依頼は終了だ」
「はい……」
「警察に行くなら早い方がいい。もう行きな」
「はい。本当に、色々、有難うございました。よろしくお願いします」
智哉は、今までの口調が嘘のように、丁寧な言葉遣いで挨拶をして、深々と頭を下げて、店を後にした。




