ある筈のないものの為に
「あら、この辺ではあまり見掛けない人ね」
唐突に背後から女性にそう声を掛けられたのは、西島家を後にしてすぐの事だった。
驚いて振り向いてみると、五十代前半くらいの女性が三人程立っていた。
三人共、片手にはどっさりと品物が入ったエコバッグ、お出掛け用にしては質素な服装から見て、この近辺に住む主婦であろう事は容易に分かった。
「よく見ると良い男じゃない。最近越して来てらしたの?」
一切の警戒心を見せず桃馬に歩み寄る彼女達は、何かを心底面白がるような笑みを浮かべていた。
桃馬はすぐにいつもの営業スマイルを装備する。
「ちょっと人を探しておりまして。私、東雲と申します」
名刺を手渡せば、彼女達は一瞬で笑みを消して、桃馬を不審な目で見始めた。
分かり易い主婦達だな、と桃馬はちょっと失礼な事を思った。
「想い届け屋って何? 訪問販売? 何か馬鹿高い商品を売り付けてるの?」
言ったのは桃馬から見て左の少々ふくよかな女性。
お、新手の勘違い。
その警戒のされ方は今までなかった。
面白がっている場合でもないが、桃馬は意図せずちょっと吹き出しそうになった。
「疎遠になってしまった相手を探して、手紙をお届けする仕事です。実は、お客様の依頼で、井上智哉さんという方を探しております。あちらの西島様のお宅に以前住まわれていた方のようなんですが、御存知ありませんか?」
あくまでにこやかに問うと、三人は顔を見合わせた。
「……井上さんなら確かに以前、あのお宅に住んでましたけど、智哉なんて人……」
「三年程前、井上さんが施設からお引き取りになった孤児、と伺っております」
「……、ああ、あの子ね。ほんの数回しか会った事ないから忘れてたわ」
両手をぱん、と叩きながら言ったのは、右側の女性。
こちらは左側の女性と同じくらいのふくよかさで、眼鏡を着用している。
頬に手を当て、数秒考える素振りを見せ、「ああ! はいはい!」と軽く頷く真ん中の女性は小柄だった。
間に挟まれているから余計に小さく見える。
「いえね、正直驚いたんですよ、あの井上さん御夫妻が養子をお取りになる、って聞いて」
そうして御婦人方は、桃馬が問いを重ねる前に、彼との距離を僅かに縮め、身を乗り出すようにして手を振りながら、少し興奮気味に話し出す。
お喋りがかなり大好きらしい。
しかしそれは、桃馬にとっても好都合だった。
「それは、一体どういう事でしょう?」
営業スマイルはそのままに問い返せば、女性達は「大きな声じゃ言えないんだけどね」と前置いて、語り始めた。
「あの御夫婦ね、家庭内別居状態だったの。もう随分前からね。それが養子を貰います、なんてびっくりしない訳ないじゃない」
「それは……御主人の不倫が原因、ですか?」
「あらやだ、そんな事まで知ってるの? まあでもそれはね、原因じゃないの。それはどっちかっていうと離婚の原因ね。家庭内別居の本当の原因は……こう言っては何だけど、奥さんの方にあったの」
「奥さん?」
「そう。何でもね、井上さんの奥さん……子供が産めない体だったそうで」
代わる代わる語る三人の言葉に、ぴく、と。桃馬の片方の眉が一瞬跳ねた。
「正確には、結婚してから子供が産めなくなってしまったらしいの。結婚してすぐに病気になったらしくて、子宮を丸ごと取ってしまったんですって。そのせいで、井上さんの御両親、奥さんからしたら義理の両親ね、その方々に酷く叱責されたそうよ」
流石に桃馬は顔から笑みを消した。
「井上さんの御両親、結構古い考えの方々みたいでね。あのお宅も、ゆくゆくは孫と三人で暮らして、同居も出来るようにって御両親が購入して御夫妻に与えた家らしくて、出来損ないの嫁、って随分罵られたんですって」
「……皆さんお詳しいですね」
「だって本人から聞いたんだもの。本当の話よ」
「本人?」
「そう。智哉君を引き取ってすぐ、井上さんの奥さん、この辺りの家全部に挨拶に来て下さったの。これから宜しくお願いしますって。その時にね、丁度私達三人、こちらの佐々木さんの家に集まっててね。お喋りが盛り上がって教えてくれたの。“これでも結婚当時はとっても仲良しだったんですよ”って淋しそうに言ってたわ」
同情の溜息を零しながら、佐々木さん、と呼ばれた真ん中の女性がエコバッグの中から飴玉の袋を取り出し、両側の女性達にも配る。
良かったらどうぞ、と桃馬にも差し出してくれたので、桃馬も有り難く頂戴した。
皆に飴玉を配り終えて、今度は佐々木さんが語る。
「ちょうど私、御夫婦が施設に智哉君を迎えに行った日にも、お二人に会ったんですよ。珍しく車で揃って出掛けようとなさってたから、そりゃもうびっくりして。思わず“お出掛けですか? どちらに行かれるの?”って訊いちゃったんです。そしたら、施設に子供を引き取りに行って来ます、って」
そこで、彼女は一つ息を吐く。
「奥さんの提案だったんですって。子供は産めないけれど、子供を迎えて育てる事は出来るから、形は違えど御両親の願いを叶えてあげたいって。良く出来たお嫁さんですよ。私だったらとっとと離婚してるわ」
井上家の主人は、この辺りの御婦人方にはあまり好印象を持たれていないようだった。
三人共渋い顔で頷き合い、口々に井上の妻を可哀想だと言い合っている。
「ところが、よ。御主人は子供の産めない妻をとっくに見捨ててたのね。奥さんが専業主婦なのを良い事に、子育ては奥さんに丸投げ、挙句外に女まで作っちゃってねぇ。引き取った時、智哉君はもう中学生になる頃だったそうだけど、それでもまだまだ色々手が掛かるじゃない? むしろもっと大変になるかもしれない時期でしょう。それなのにね」
やがてヒートアップした三人は、いつしか三人だけで井上家の噂話で盛り上がり始めた。
突然蚊帳の外にされ始めた桃馬だったが、むしろ彼は、より注意深く三人の話に耳を傾けた。
警戒心も注意力も散漫になり、油断してぺらぺらと紡がれる話は、言葉を選ばず周りも気にしない為に、却って真に迫った情報が漏れ易い。
「ほんと気の毒にねえ。不倫相手に妊娠までさせて。そのせいで離婚した挙句、あの家まで人手に渡ってしまって」
「でも聞いた話じゃ、井上さんの御主人の御両親、息子の浮気は子供が産めない嫁のせいだって言ってたって話よ。ほんとかどうか分からないけど」
「ああ、そういう話なら私も聞いたわ。しかも不倫相手の妊娠をこれ幸いとばかりに奥さんと智哉君を追い出したって」
話がすっかり智哉から夫婦の泥沼離婚劇に摩り替っている。
愚痴か労りか、井戸端会議の格好のネタだったのか、井上家の話題は、この三人の主婦達に喋らせたら何処までも際限がないらしい。
「もっと可哀想なのは智哉君よ。折角新しい家族が出来たのに、一年足らずで親が離婚なんて」
「そうよね。いつの間にか見掛けても暗い顔してばかりになっちゃって」
「最初の頃は明るく挨拶してくれてたのにね。気付けば最後の方はあまり見掛けなくなって」
――漸く三人の口から出て来た名前に、桃馬はやんわりと口を挟む。
「その智哉君は、井上さん御夫妻が離婚なさった後、どうなってしまったんでしょう?」
すると女性達は一様に勢い良く桃馬の方を振り向いた。
彼が側に居たことを、口を挟まれて漸く思い出したからではなく、まるで、そう訊かれるのを待ってましたとばかりの勢いだった。
「奥さんが実家に一緒に連れて行ったらしいですよ」
「そうそう、確か……実家は島根だって聞いたことがあるわ」
「……そうですか」
小さく呟くと、桃馬はすかさず丁寧にお礼を言いながら三人に深く頭を下げた。
聞きたかった情報は知れたし、これ以上奥様方の噂話に付き合っても時間を浪費するだけだろう。
女性三人にくるりと背を向けると、桃馬は一瞬で笑みを消す。
車を停めてある駐車場へ戻りながら、桃馬は智哉の事をふと考えた。
愛情など欠片も存在していない家に引き取られて、壊れていく家族を見て……壊れてしまっているのだという現実を見てしまって。
十三歳という曖昧な年齢の少年は、井上夫妻と共に過ごしていた間、何を思って生きて来ただろうか、と。




