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私はまかり間違って子に名前をつける事があるならば"美"という文字を使わないと決めていた。
この字がつけられやすい時代というモノが恐らくあったのだろう。友美ちゃんに仁美ちゃんに里美ちゃん、美樹ちゃん、美香ちゃん、美久ちゃんと"美"がつく先輩後輩同級生は数えきれないほどいた。
勿論、名前を気に入っている人もいれば名前相応という人は沢山いる。だが、名前が分不相応だと感じる人間は少なからず存在するのだ。
私自身がその後者であった。
私の名前は相坂美世。
心美しく、自らの世界を強く歩んで欲しいと名付けられた。その想いは重いし、名前負けだと私は思っている。
どうしてこうも捻くれてしまったかといえば、私はこの名前で揶揄われていたのだ。小さい頃から大人になってからも私の名前は私を蝕んだ。
平々凡々な顔。自業自得だが、ぽっちゃりな身体は名前に相応しくない。名は体を表すと言うけれど、私は全く持ってそれに当て嵌まらなかった。
だからという訳じゃないけれど、私に恋愛欲はない。心も美しくなく、流されたままなんとなく来た人生を歩む私が誰かに好かれる訳がないと思っている。
だから狭い世の中でなんとなく生きて朽ちていけば良い。そう、思っていた。
* * *
「けんちゃん、何を言ってるの?」
突然の話に思わず私は聞き返した。突然、呼び出してきたかと思えば何を言い出したのだろう?自分を見据える目は真剣で曇りない。まだその目が濁っていたのなら一度で理解できたかもしれない。
「美世、俺と結婚して下さい」
「はいー?」
頭を捻り、ただ相手の真意を確かめる為にその表情を探るしかない。何度聞いても多分頭が理解してくれない気がする。
"結婚して下さい"なんて言葉は一生聞くことがないと思っていた。けんちゃんこと、江藤 健はイケメンだ。やや細身であるけれど、筋肉質で背が高くスタイルがいい。二つ年上だが年齢よりも落ち着いた印象であり、顔は切れ長の目をして整っているせいか少し冷たく見られがちだが、一度話してみれば性格もいいのがよくわかる。友達も多いし、歴代の彼女は美人ばかりだ。
それに対して私はぽっちゃり体型の顔は平凡。性格はねじ曲がってる。いい所がはっきり言ってない。
そして私は"彼氏いない歴=年齢"なのだ。今年で彼氏いない歴30年の記録更新になる予定だった。なので、彼がこんな事を言い出す事がおかしい。
「・・・けんちゃん、おにいと同い年だからまだ31歳でしょ。私で手を打たなくても・・・それに彼女居たよね?どうしたの?」
彼の表情が歪んだ。やっと表情の変化が見えてほっとする。いい歳して幼馴染みに悪戯感覚でこんな事を言ったのなら怒りたくなる。
ふつふつと怒りが湧くが、ハタと目の前の料理の存在を思い出した。今日はけんちゃんの誘いでお高いホテルのディナーを食べていた。『ちょっと付き合って欲しいんだ、お洒落な格好しておいで』なーんて言うからキレイめの春色ワンピースを着て、まだ雪が残っているからブーツで合わせた。髪も珍しくちゃんとセットしてお気に入りのピアスとネックレスも出して、何か相談か愚痴でもあるのかなくらいの気持ちでノコノコとやって来た。
けんちゃんは会うなり少し驚いた様子で可愛いね、と笑いかけてくれた。アレも小馬鹿にされてたんだろうか?その辺りはよくわからないが、怒りでご飯を不味くするのはバカバカしいことだ。そう思って目の前の相手を半ばスルーしてお肉を食べ出した。うん、美味しい。スポンサーがいるから今日のご飯は尚更美味である。
「・・・食事の真っ最中に切り出す話じゃなかったな」
「おっと、まだ続ける?いくら私でもそろそろ怒るよ?」
率直に言葉にしないとわからない人だっただろうか?大手製薬会社の営業マンがこんな調子の訳がないだろう。
「・・・聞いて欲しい」
「話は聞くよ。というか、近況報告で恋人いるかの問いにいないよって答えた後、結婚してくれって・・・これが本当なら下手くそか!って突っ込む所だよ」
「本当だよ。俺と結婚して欲しい」
ピタリと食事の手を止め、彼を見た。物凄い困り顔だが、もともと表情が顔に大きく出る人でも無いので読みにくい。ただ、何か抱えている事はわかる。
「・・・とりあえず先に食べなさい。話はそれから。行儀が悪い」
「はい・・・」
折角の美味しい料理が冷めて硬くなってしまう。甥や姪達に言い聞かせるように食事を食べるよう勧め、自分も再びジューシーなお肉を口へと運んだ。
デザートを食べ終え、当たり障りのない会話のままホテルを出る。どう切り出そうか悩んでいる様子だったので一つ溜息をつき、私から切り出した。高級なフレンチのフルコースを奢って貰ってこのまま本題と思しき事を無視して帰す訳にはいかないだろう。
「私からの提案です。一、何処か静かなバーへ行く。二、賑やかな居酒屋。三、どっちかの家。さぁ、どれが話しやすい場所?」
「・・・美世は求婚した男の部屋に上がる事について危機感はないのか?」
「私じゃ勃つ物も勃たないでしょう。別に私でそういう事したいなら人生一度くらい経験しても構わないわ」
その後の関係性がどうなるかは分からないが、と心の中で独りごちる。
私達は世間一般的に幼馴染みだ。実家が隣同士で共働きで忙しかった両親に代わって世話を焼いてくれたのがけんちゃんの母親と祖母だった。家族ぐるみで仲が良く、兄妹のように育ったのもあって、未だに交流は多い方だろう。しかも、兄妹の中で唯一の独身者である私達は盆暮れ正月は一緒に帰省するのがほぼ恒例だ。
"ほぼ"と言い表すのは過去に2回、彼は私ではなくそれぞれ別の女性と帰省している。その度にもう2人で会う事はないんだなと思うのだが、結局その後に今回のような呼び出しがあるのだ。なので、恐らく結果はご存知の通りということなのだろう。
「俺の中で美世は"女性"だよ」
「ほう。奇特な人ね。そんな物好きなら抱いてみる?」
「茶化さないで聞いてくれ」
クスクスと笑いながら揶揄うと少し怒ったように彼の声音が強くなる。冗談ではなく真剣な話なのだ。長い付き合いだ。嫌でも表情や動作の機微はわかる。自分を真っ直ぐ見つめる瞳に偽りはない。
「けんちゃんの部屋連れてって」
その瞬間、彼の表情は複雑に揺れた。
* * *
勝手知ったるというほどは来ていないが、何度か部屋に来た事はある。一人暮らしなのに2LDKの無駄に広い間取り。無駄でしょう、と来るたびに文句を付けている気がするし、来たら片付けから始まるのだ。
「またコンビニ弁当とかカップ麺食べてるの?お母さん達に怒られるよ」
綺麗にはしている方なのだが、男の生活感はある。ゴミ箱はやや溢れ気味で、ゴミ箱の隣に袋に詰められたコンビニ弁当の空が二つ。それらを分別して処理する。キッチンは多分、ほぼ使っていない。だが、一応後で漂白剤でも流そうか、とキッチンの下からボトルを取り出した。
「美世、来て。座って」
あれこれやり出した私に苦笑して、彼は乱雑に積まれた書類を脇においやり床に座った。いつの間にかスーツの上着を脱ぎ、ネクタイも取り払って、ボタンは2つほど外れていた。
ソファーに座れという事なのだろうと解釈してちょっと硬めのソファーに腰を落とす。斜め前に座っているけんちゃんが手を差し出すので反射的に手を重ねた。
「・・・去年の1月にババが入院しただろ?」
「うん。初期の癌だったけど、全部取れたし再発ないし元気でしょ?」
「そう。だけど、順当にいけば近い将来死ぬんだな、って思ったんだ」
彼は重ねた手をギュッと握った。彼はお婆ちゃんっ子だ。下に手のかかる弟が2人いたのもあって、お婆ちゃんに育てられたと言っていいかもしれない。
「もう85だしね。大往生だと思うよ」
「わかってる。でも、入院中にお袋に溢してたんだ。健の子どもは見れないかもしれないって。今まで結婚結婚って言われたことなかったけど、俺だけひ孫見せてないから期待してたんだなって」
「それは・・・」
実際の所、彼の祖母は彼や私が結婚していないのをとても心配している。高卒で働き出した彼と同い年の私の兄は20歳で結婚をして子どもは3人いるし、彼の4つ下の弟や6つ下の弟も結婚してそれぞれ子どもがいる。私に至っては恋愛のレの字もなく殊更心配されているが、知らんぷりを決め込んでいた。
「3年前、彼女を家に連れてったことあったろ?夏に」
私は頷いた。お盆に別々に帰省をして、彼の彼女を向こうで紹介された。2つの家族合同で焼肉をやったのだ。その1ヶ月後くらいに彼はその彼女と別れた。
「あの時、うちの家族は家族での集まりが好きだってことと、結婚してからもこういうのを参加して欲しいって話したんだ」
「あー・・・」
それは酷な話ではないか。私の兄嫁は兄の幼馴染みで昔から一緒に焼肉に参加していた。彼の3つ下の弟も高校の同級生と結婚したので、長く交流があるし、率先してやりたいタイプだ。末っ子の奥さんは所謂パリピタイプなので同様である。あの中に入れるタイプは決まってくるだろう。
「厳しいって言われた。子ども出来るまでは頑張るけど、出来たら多分無理だと」
「そうね。多分そういう人が大半かもね」
「去年の年末に連れてった子はお袋がダメだって」
「あー・・・」
彼の母親は性格がキツい。それに加えて今はだいぶ大人しくなったが、祖母は母親に輪をかけてキツい。
彼の祖母は早くに夫を亡くして息子と娘を女だてらに一人で働きながら育てた人だった。そして母親は夫が長期出張や単身赴任を繰り返す中、扶養内でのパートにでつつ、義母と同じ屋根の下で暮らしていた猛者だ。
「言葉は悪いし、性格はキツめだけど面倒見が良くていい人なんだけどね。初見で見たらキツいのかな、やっぱり」
「・・・四六時中関われって言ってなくてもダメなのか」
「まぁ、今の世の中ちょっとしたことでハラスメントになるから義実家との関わりの強要だ!モラハラだ!ってなりかねないよ」
そう返せばコツンと重ねた手に額を彼は当てた。あいた手で頭を撫でる。セットされているので整髪料が付くのは頂けないが、仕方ない。お相手の彼女達はある意味誠実だっただろう。結婚してから義実家とお付き合いできません、なんて宣言する人は沢山いる。それを結婚前にお断り出来たのだから素晴らしい人達だったのだ。
「・・・あとは2人からも同じこと言われてさ」
「お別れ理由が一緒だったの?なんて?」
「んー・・・やっぱり言わない」
彼は少し酔っているのだろう。酔うと甘えた猫のようになりがちだ。なので頭を撫で続ける。長男の彼は昔から甘え下手だった。歳も近い、兄妹のようだけど兄妹ではない私とは絶妙な距離なのだろう。しんどくなると愚痴を聞いたり、肩を貸したりはよくしていた。彼女が出来ると流石に私を頼る事はなかったので、彼女にもこういう姿を見せていたんだろうか。
「・・・ずるい考えだけど、美世ならうちの家族と上手に付き合えるだろ」
「親よりも親みたいなものだからねぇ」
父は自衛官、母は地元の有名お菓子屋の菓子職人の1人だった。父は単身赴任で転々としていたし、母は私が小学校に上がってまもなく、支店の副店長になって朝早く出て夜遅く帰ってくるような生活になった。私の母は副店長になる事については私達兄妹の事があって二の足を踏んだそうだ。けれど、自分達がフォローするからと背中を押したのは当時の彼の祖母と母親だったらしい。
母や父は関われる時間は全力で構ってくれたが、盆暮れ正月を家族で楽しんだり、夏休みや冬休みに家族揃って旅行に行った記憶もほぼない。あるのは江藤家と遠出をしたり、遊んだ記憶ばかりだった。本来なら希薄な子ども時代を濃密な物にしてくれたのは他でもない、彼の家族だった。
「三十年の付き合いですから、今更下手くそな付き合い方の方が難しいでしょ」
「・・・だから俺と結婚してくれないか」
「随分話を飛躍したね。私なんかじゃなくて他にいい人見つけなさいよ」
「美世がいい」
伏せられたままの彼の顔は見えない。今どんな顔をしているのだろう。
「・・・美世が1番俺をわかってるだろ」
「そうかもね」
「・・・一から人間関係作って家族になろうとするの疲れた」
「絶対にそれが本音でしょう?」
重ねられている手は少し痛いくらいに握られていた。随分と悪酔いしているようだ。いつもより少しタチが悪い。
「ねぇ、けんちゃん。素面に戻ったら後悔するからそろそろ、ね?」
手を外そうとするとそれに逆らうように握られていた手を強く引かれる。突然、浮遊感を感じた時には肩に担ぎ上げられていた。
「ちょっと!腰やるよ!私重いの!」
「大丈夫」
平均体重ではあるが、163センチの私は60キロ近い。決して軽くはないのだ。酔っ払いが持ち上げていい重さではない。
「健!」
普段あまり呼ばない彼の名前を呼んだのとほぼ同じくして下されたのは彼のベッドだった。
「・・・結婚してくれって言ってる相手の部屋に連れてってなんて襲ってくれって言ってるようなもんだろ」
悲しげに歪ませながら彼は私を抱きしめた。そしてそのまま倒れ込む。
「美世・・・俺の側にいて・・・」
力強く私を抱き締めていた腕はゆっくりと力を失っていく。
「寝たな・・・この酔っ払い」
腕を外し、彼の拘束から抜け出した。ピンっと指で彼の額を小突くと綺麗な顔を一瞬だけ歪ませるもすぐに穏やかな寝息を立て始めた。
抱くつもりは無かったと思う。男性経験が無くとも、そういうことをしたいかしたくないかくらいの判断はつくつもりだ。ましてや幼馴染みがどうしたいのかくらいの気持ちはある程度読める。
本当に結婚はしたいのだろう。子どもも欲しいんだと思う。だけど、相手は本当に私を望んでいるのかどうかは疑問が残る。
「俺の側にいて、か」
子どもの頃、時折聞いたセリフだ。物心ついてから兄弟が増えた彼は賢くてとてもいい子だった。私の兄なんかはしょっちゅう大人から怒られ、拳骨を落とされたタイプだったが、その分構われていた。逆に彼は何事も卒なくこなす分、損していたんだと思う。
私は実兄よりも彼を兄として慕い、懐いていたからよく抱き締められて、"美世はずっと側にいてね"なんて言われた物だ。それも小学校に私が上がる頃には言われなくなったが、大人になってからも一度言われた事がある。
それは彼の祖母が入院して手術をした日の事だった。手術が成功したと彼の母親から連絡が入り、2人でお祝いをした時のことだ。
『美世、ずっと側にいてくれよ』
『彼女作って彼女に言いなさい』
ぴしゃりと言い放つと彼はしょぼくれながら酒をちびちびと飲んでいた。そのすぐ後だ。結婚を前提に付き合い始めたと聞き、紹介されて別れて、また付き合い始めて、紹介されて別れて・・・これは寂しくて弱っていただけではないんだろうか。
「どうしたもんかねぇ」
もう一度ピンと指で弾くともぞもぞとして丸くなった。妙齢な男を可愛らしいと思えるのも長い付き合いだからだろう。
「あ、ちょっとごめんよ」
昔彼の弟の1人がくれた紙切れの存在を思い出す。彼のパソコン机の引き出しの中の1番下の下。隠すように置かれたそれを引っ張り出す。困り果てた彼が封印だ!と仕舞い込んだそれはファイルに挟まれて少し曲がっていたけれど綺麗なままだった。
時間はまだ11時になる少し前だ。靴を履いて部屋を出る。キーケースから使ったことのない鍵を取り出すと彼の家の鍵穴に差し込んだ。