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風が廻る場所  作者: 飛水一楽
〈虚空の章〉
91/116

継承


  千久楽を飛ぶ鳥は、まるで外の世界を知らない。

  境界に吹く風が行く手を阻むからだ。

  それを哀れと思えば、幸せと言う人もいる。

  汚染された外では、生きられはしないだろうから――


   *


 飛翔を終えた鳥の群れは、やがて入らずの森に帰って行く。

 入らずの森は神社とともに石灰岩地の高台にあり、千久楽のおおよそ中央に位置する。

 その裾野には棚田が広がり、高架の線路を越えて南に向かうと、低地が見渡す限り広がっていて、畑や小川が見え、住宅や商店街、公共施設などが互いに屋敷林を挟みながら並んでいる。高い建物は一切ない。

 さらに先へ目を移すと、地平線に霞んでいるのは境の森であり、山のようにも見えるのは森に向かって再び地形がせり上がるためである。

 千久楽の外縁である境の森の南には風車が回り、千久楽の電力のほとんどを担っている。そして森の北はさびれた墓地と天文台があるだけである。


 このように千久楽は起伏に富んだ土地なのだが、空から見たなら盆地……巨大なドリーネの中にあるのが分かるだろう。


 盆地特有の底冷えで生まれた霧は、早朝の一時(いっとき)、雲海となって千久楽を覆う。やがて雲は千久楽の内部から涌き出る風に流され、境の森一帯に吹き溜まる。人々はこれを〈もや〉と呼ぶ。

 このもやと風の対流が、永らく外部の侵入を阻み、千久楽を隠れ里たらしめてきたのだ。





「古の昔より、千久楽の人々は風に守られ、その恩恵の元に暮らしてきた。自然と共に生きる……口で言うのは簡単だが、そのような生易しいものではない」


 名倉じぃは両手を膝の上で組み、語り始める。


「ある程度開けた今とは違い、昔の人の暮らしは死と隣合わせじゃ。特に冬は千久楽の地形も相まって寒さは極まり、さらさらの雪は吹雪となり、必ず人は命を落とした」


 名倉じぃは正面の二人をじっと見て言った。


千久楽人(チクラビト)は自然に負け続けてきた。自然にはかなわない。だから、共に生きるしかなかったんじゃ」




 厳しい自然に生きる中、彼らは不思議な能力を備えていったという。風を聴く力。風を読む力。天候の変化……感覚が鋭敏になっていく。それは今の人間からは退化してしまった、自然と交感する力だった。


 しかし、その異能が周辺の民にとって恐れの元になった。また同化を免れたチクラビトの風貌は、時代が下るほどに体格も目の色も周辺地域とは著しく異なっていき、交易はあったものの、ますます孤立の一途を辿った。


 ある時代には〈死者の国〉と恐れられ、ある時代には〈賤民の地〉として差別されーー




「普段は森の恵みにあずかっても、実りが少なかったり不作が重なって飢饉になると、孤立は仇をなした。まず働き手にならない病人や老人、赤子を森に置き去りにしたようじゃ」


「そんな……」

 しょげる深鳥を気にかけつつも、名倉じぃは続きを話し始めた。

「飢饉の後、人口が減った状態での交配で血が濃くなり、不具の子が産まれることもあった。貧しい家では人ともみなされず間引かれ、長者の家では神の童として籠の中で育てられたという」

「ひぃなの伝承てやつか……」

 そう言って那由他がバウムをほおばった。 




 仕方がなかったのだと言い聞かせる。子を失った親。親を失った子。最愛の人を失った者。皆祈るしかできなかった。生まれ変わりを。来世での縁を。

 失った命は次の命に代える。そう考えなければ、残された者は生きていけなかっただろう。


 そんな世の不条理の中で、信仰はより強固なものになっていく。


「昔の人々は命をさらうのももたらすのも神の仕業と思っていたようじゃ。天変地異の時は、皆の命を守るには代わりの命を立てねばとひぃなが贄として捧げられたときもあった。……民族を維持するために、果たしてどれほどの犠牲が払われたものかの」


 名倉じぃは話し終えて一息をつくと、快晴と深鳥、那由他を順に見つめ、

「お主達が最も核心に近いところに居る気がしての。わしも歳だし、自分が知ってることを話しておかねば、と思ったんじゃ」


 名倉じぃはよっこらせと立つと、快晴のところにきて突然その手を取り、袖をまくった。

「!」

 深鳥が息を吞んだ。那由他も表情を引きつらせる。

「お前……なんだそれ」

 まるで呪いでもかけられたように、黒ずんだ流紋状の痣が手首から手の甲に浮かんでいる。


 名倉じぃは難しい顔をする。

「紫野が言った通りじゃの」

 快晴は傍らの名倉じぃを問うように見る。

「紫野はお前さんのことを心配しとった。風紡ぎの時、神と接触したかもしれんとな」


 快晴の意識が瞬時に過去に引き戻される。

 鏡のように、目の当たりにした自分とそっくりな姿。美しい青い双眸が今も脳裏にこびりついている……ぞくりと肌が粟立つ。

「……風の神が来ました。深鳥を連れて行こうとするのを止めようとして――」


「風紡ぎはやはり成功したのじゃな」

 名倉じぃの問いかけに、快晴はばつが悪そうに黙り込む。

「その件については不審に思っている者も多くての」

 名倉じぃはそっと袖を戻した。


「こうなったのは、お主が守人であるのと関係するのかもしれんな」

 快晴ははっと顔を上げた。名倉じぃは片目をつぶってみせた。

「お主の後見をするからにはの。安心せい、宮司とわししか知らん。いや……」

 そう言って那由他を見る。

「あと、紫野と俺な」

 那由他が付け加えた。


「この子の家のように特殊な役目を負う家は、昔はツキモノ筋と言ってな。皆と離れて暮らしておったんじゃ。星見ゆえか守人ゆえか……どちらが先か分からんがの」

 名倉じぃは確認するように快晴を伺った。




 快晴が口を開いた。

「皆から離れて暮らすのは咎人だったからと聞きます。祖先が、女神を殺したからだ、と」


「女神……」

 名倉じぃが吟味するよう呟く。

「神の愛した娘ってやつか」

 そう言ってから那由他は名倉じぃの方を向いた。

「それってやっぱり神と人間の娘が交わったってことっすか」

 ふむ……と名倉じぃは思案し、

「そこが祭の舞のハイライトではあるがの。風を呼ぶための舞は、神と人の結びつきによって豊穣を祈念するものじゃ。……一説では、最初に千久楽に稲をもたらしたのは異人の娘と言われておってな。しかも稲は風媒花で米作りに風は欠かせない。その辺の事情が交接という解釈になったのかもしれん」


「その娘はどこから来たんでしょうか」

 興味を覚えたのか、快晴は名倉じぃに問いかけた。

「稲の伝来ルートを考えれば、西の大陸、もしくは南方の島々から訪れたのかもしれん」

「千久楽に稲をもたらした豊穣の女神か……」

 那由他は顎をさすりながらつぶやいた。快晴の頭の中にはあの洞窟に供えられた土偶と勾玉が浮かんでいる。


「その娘の生まれ変わりこそ、神に捧げるべき真の〈(ひぃな)〉」

 名倉じぃは悲しそうに深鳥を見る。

「守人の一族が、永い間ずっと探しておったのが――」


 深鳥が不思議そうな顔をしている。

「マブリト……ヒイナ……?」

 快晴は視線を落とす。

「深鳥にはまだ話してないんです」





 古からの縁が、ここに来て互いに引き合う。

 少しずつ少しずつ、永い時をかけて歯車同士がかみ合って、一巡する。

 同じような運命が繰り返され、似通う魂たちが惹かれ合う――


「年寄りの取り越し苦労だが……気をつけなされ」

 名倉じぃは快晴と深鳥を再び見据えた。そして、残った人々の間で祭をしようという声が上がっていることを伝える。

「お主達は舞手でもある。祭の中心に自ずと呼ばれる。……よいか、深鳥さんのことを誰にも漏らしてはならん。今の千久楽は平常ではない。おかしな事を考える者がおるかもしれぬ」


「おかしな事って……まさか深鳥ちゃんを風の神に差し出すとか?」

 那由他の推測に、快晴は半信半疑で名倉じぃを見た。

「先生は……もしかしてそれを伝えに?」

 名倉じぃは頷いた。

「これからは皆のために一人が犠牲になるようなことはあってはならん。それは千久楽の悲しい歴史じゃ」





 帰り際、名倉じぃは玄関で快晴の手をぎゅっと握りしめた。

「もう何年経つかの。幼い頃のお主の眼は鏡のように澄んでおった。しかしその心は玻璃のように脆く、危うかった」

 名倉じぃは下から伺うように見て、目を細めた。

「でも……もう大丈夫じゃな」


 その姿を前に、ずいぶん小さくなったと快晴は思った。そして気付いた。親は居ずとも、自分は周りの大人に育ててもらっていたのだと。

 突然、言いようのない感情が込み上げてきて、快晴の目から一滴、人知れず涙がこぼれ落ちた。


「いい娘っこじゃの」

 名倉じぃは小声で快晴をこずいた。

「これからは二人で、しっかりと生きなされ」

 片目をつぶる名倉じぃに快晴はしっかりと頷いてみせた。


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