第096話:巨角鹿の完全解体! 桜色ロース肉と、温感ラードの採取
サクッ、サクッ……。
白銀の太陽が照りつける「氷壁の踊り場」。
シェリルが周囲に展開した氷壁の天蓋によって、作業場は常に氷点下三度前後の『肉の急速冷却に最適な清潔空間』へと整えられていた。
雪原の中央に横たわる、体長6メートル、体重4トンを超える神話の主《氷霜の巨角鹿》。
バルツを中心に、ティオ、シェリル、ニーナ、そしてエレナが、寸分の狂いもない連携で解体作業を進めていた。
「まず、この8メートルの氷晶角を切り離すぞ。ティオ、頭部の下を木枠で支えろ。ニーナ、角の付け根の角座を露出させろ」
「了解です、おっちゃん!」
「皮をめくったニャ!」
バルツの指示に従い、ニーナが皮剥ぎ小刀で耳の付け根の剛毛をサッと円形に切り開く。
現れたのは、頭蓋骨の頭頂部から隆起した、直径40センチの巨大な骨突起――『角座』だ。
鹿の角は頭骨と一体化しているが、毎年生え変わるための『離脱線(脱角層)』と呼ばれる細胞組織の層が存在する。
バルツは解体ナイフの五番刀――薄刃で強靭な『骨切り鋸』を手に取った。
離脱線のミリ単位の隙間に刃を当て、手首の脱力だけで前後に滑らせる。
シャリ、シャリ、シャリ……。
粉雪のような骨粉が舞い散り、わずか数分。
ゴトリ……!
王宮のシャンデリアのように巨大な、純度100パーセントの永久氷晶角が、傷一つなく美しく頭蓋骨から切り離された。
陽光を浴びて七色に輝く氷晶角。
その内部には、神話時代の純粋な氷河マナが凝縮されており、王都の宮廷魔導士や国宝級の鍛冶屋が喉から手が出るほど欲しがる、天文学的価値を持つ至高の素材だ。
「素晴らしい……! これほどの巨大な氷晶角を、傷一つなく無傷で採取するなど……王国宝物庫の至宝を遥かに凌駕する国宝級の魔導具素材ですわ!」
シェリルが感嘆の声を漏らす。
バルツは角を麻布で包み、そりの奥へと丁寧に固定させた。
「ギルドの親父や、辺境の鍛冶屋の若僧どもに渡してやりゃ、ティオの大剣の柄巻きや、シェリルの杖の宝玉、ニーナの防具に化ける。大事に取っとけ。さあ、次は頸動脈と鎖骨下動脈からの完全放血だ!」
バルツが長刀《黒喰》の刃先を、首の付け根へと滑り込ませた。
雪の中に掘った深い樋を伝い、湯気を立てる鮮血が音もなく吸い込まれていく。
鹿肉の味を決定づけるのは、放血のスピードだ。
血管内に血が残れば、肉に金気と獣臭さが回り、せっかくの最高級肉が台無しになる。
だが、完全絶命から数分以内に行われた神技の放血により、太い筋肉から最後の一滴まで血が抜かれ、赤黒かった肉が急速に鮮やかな桜色へと変色していった。
「皮を剥ぐぞ。ティオ、背骨に沿って背割りを入れろ!」
「はいッ!」
ティオが解体大刀を両手で持ち、巨角鹿の背中の中央、第一頚椎から尾の付け根へとスーッと刃を滑らせた。
スーッ……!
まるで絹織物を切り裂くような心地よい感触。
厚さ3センチにも及ぶ純白の極厚毛皮が、左右へと綺麗に観音開きに開いていく。
そして――毛皮の下から現れた光景に、エレナが思わず息を呑んだ。
「あ……あぁ……っ! な、なんという美しさ……! これが、鹿のお肉なのですか……!?」
エレナの瞳に映ったのは、これまで王都のどんな高級晩餐会でも見たことのない、息を呑むような肉の芸術だった。
背骨の左右に鎮座する、大人の胴体ほどもある巨大な背肉――『極上ロース肉』。
それは、透き通るような美しい桜色の赤身肉に、まるで雪の結晶が降り積もったかのように、きめ細やかな純白のサシ(脂肪)が極限の密度で網の目のように入り込んでいたのだ。
極寒の雪山で体温を保つために蓄えられた、最高純度の『温感ラード』。
指先で触れただけで、人肌の熱によって脂がトロンと透明に溶け出すほどの、驚異的な低融点脂肪である。
「鹿肉はパサついて硬いっていうのは、下処理を知らねえ素人の寝言だ」
バルツが隻眼を細め、ナイフでロース肉の筋膜をサッと剥がしながら語った。
「真冬の神獣のロースはな、牛肉のシャトーブリアンをも遥かに凌ぐ。赤身の濃厚な旨味と鉄分、そしてこの温感ラードの甘みが、口の中で爆発するんだよ。ティオ、に切り分けて、シェリルの冷気氷板で急速冷凍しろ! さらに背骨の裏の内臓脂肪から極上のヒレ肉を外し、太い大腿骨を割って濃厚な骨髄を掻き出せ! 一頭から取れる肉は、優に2トンを超えるぞ!」
「2トンの極上肉……! 村人全員が、何ヶ月もお腹いっぱい食べられますわ!」
シェリルが歓喜の声を上げ、切り出された桜色の肉塊を、極薄の氷の膜でパッキングしていく。
外気を遮断し、肉の表面の乾燥と酸化を完全に防ぐ『氷衣冷凍保存術』。
雪山の知恵と魔法が融合した、究極の保存技術だ。
そこへ――。
「エレナ様ーーーーッッッ!!」
「エレナ様! ご無事ですかーーーッ!!」
踊り場の下の尾根から、大勢の人間の歓声と足音が響いてきた。
見れば、スノウベール村の屈強な若者たち、猟師たち、そして村長が、何十台もの大型木製そりを引き連れて、雪煙を上げながら踊り場へと登ってきたのだ。
奇跡の晴天と大雪崩の迂回を目撃し、領主令嬢とバルツたちを救出すべく、村人総出で駆けつけてくれたのだ。
「みんな……! 来てくれたのですね……!」
エレナが銀の手甲を外して大きく手を振った。
踊り場に駆け上がってきた村人たちは、横たわる巨大な神獣の亡骸と、雪原に山のように美しく積み上げられた桜色の極上肉の山を見て、全員が目を丸くして立ち尽くした。
「こ、これは……霊峰の主……!?」
「村長! みんな! 山の神様が、私たちに命を託してくださいました! もう、誰も飢えで死ぬことはありません! このお肉を、村へ運びましょう!」
エレナの誇らしげな宣言に、村人たちから割れんばかりの歓声が上がった。
わあぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!
涙を流して抱き合う村の猟師たち。若者たちが次々とそりへ肉を積み込み、ティオやニーナと笑顔で握手を交わす。
「坊主たち、あんたらが……あんたらがこの山を、村を救ってくれたのか……!」
「へへっ、おっちゃんの解体教室にかかれば、どんな大物だって極上のお肉になるニャ!」
「さあ、運ぶ前にひと仕事だ!」
バルツが平らな大岩の上に薪をくべ、特製のぶ厚い黒鉄板を据え付けた。
パチパチと薪が爆ぜ、鉄板がチンチンに熱せられていく。
そこへ、切り出したばかりの純白の温感ラードの塊を滑らせると――。
ジュワアアアアアッッッ……!
立ち上る甘く香ばしい極上の煙。
それを見たエレナの喉が、ゴクリと激しく鳴った。
(ス、ステーキ……! 神獣の切り立て極上ロース肉の、厚切りステーキ……!)
気高い近衛騎士の瞳が、完全に獲物を狙う狩人のように爛々と輝いている。
ティオが雪山岩塩の塊を削り出し、シェリルが野生の甘酸っぱい雪山クランベリーをすり潰して特製フルーツソースを調合し、ニーナがペロリとよだれを拭う。
極寒の雪山が、いまや極上の天国へと塗り替えられようとしていた。
「解体士の最大の特権はな、切り立ての一番美味い部位をその場で味わうことだ! 村人たちも全員集まれ! まずは、神獣の恵みを祝う『極上鹿ステーキ』の味見といこうじゃねえか!」
バルツの豪快な号令に、雪原全体が歓喜の雄叫びで震え上がった!




