第095話:神獣の沈黙と、霊峰を照らす奇跡の晴れ間
サアアアアッ……。
白銀の霊峰「氷壁の踊り場」を、暖かなそよ風が優しく撫でていく。
先ほどまで肌を切り裂く刃物のようだった時速の突風は、いつの間にか春の陽気を含んだ優しい息吹へと変わっていた。
雪原に崩れ落ちた紫黒色の侵食結晶は、日光を浴びてジュウジュウと音を立てながらサラサラの黒い砂へと崩壊し、完全に消滅した。
何ヶ月もの間、白銀山脈全体を呪いのように縛り付けていた神話竜のヘドロ毒素が、大地から完全に解き放たれたのだ。
「グル……フシュー……」
雪の上に四肢を休めた《氷霜の巨角鹿》が、長くて安らかな呼気を吐き出した。
その巨大な頭部が、ゆっくりとバルツたちのほうへと向けられる。
血走っていた双眸の赤みは完全に引き去り、そこには満月の夜の湖面のように、どこまでも澄み渡った気高い黄金色の瞳が輝いていた。
狂気は消え、苦痛は去り、真の霊峰の守り神としての威厳と理性が、完全に蘇っていた。
「あ……瞳の赤みが消えています……! なんて美しく、優しい瞳なのでしょう……!」
エレナが胸元に両手を当て、その神々しい姿に息を呑んだ。
巨角鹿は、バルツ、ティオ、シェリル、ニーナ、そしてエレナの一人ひとりを、まるで愛しい我が子を見つめる母親のように慈愛に満ちた眼差しで見つめ返した。
そして――。
巨角鹿は前足を折り、巨大な首を雪原へと深く、深く傾けた。
自らを激痛の地獄から救い出してくれた人間たちへ、神獣が捧げる最大の敬意と感謝の平伏。
「……お前、自分の寿命が分かってんだな」
バルツが静かに問いかけた。
その隻眼は、哀愁と敬意を帯びて巨角鹿の全身を見つめていた。
何千年も生き続けた神獣。
だが、胸に突き刺さっていた黒い結晶は、長年にわたってその生命力を限界まで吸い尽くしていた。
激痛から解放されたいま、神獣の体内を満たしていた魔力は、大自然の循環へと還る準備を始めていたのだ。
「グルル……」
巨角鹿はバルツの言葉に肯定するように、優しく喉を鳴らした。
その黄金色の瞳には、死への恐怖や未練は一片もなかった。
あるのは、長きにわたる役目を全うした者だけが湛える、穏やかな安らぎ。
神獣は自らの巨大な体を雪原へと横たえ、自らの肉、骨、毛皮、そして8メートルの氷晶角のすべてを、飢えと寒さに苦しむ麓の人々へ、そしてこの霊峰を愛する狩人たちへと託すかのように、静かに瞼を閉じた。
スーッ……。
最後の一息。
巨角鹿の鼻腔から、白く温かい呼気が漏れ出た。
そして――神獣の巨躯から、微かな緊張の糸がふっと解け、その魂は大自然の地脈へと安らかに還っていった。
外傷による苦痛の死ではない。
寿命を全うし、自らの命を大地の循環へと捧げた、美しき【完全なる絶命】だった。
「息を……引き取られました……。安らかに、眠るように……」
エレナの瞳から、大粒の涙がポロポロと雪の上にこぼれ落ちた。
それは悲痛な涙ではなかった。
命の尊厳、自然の偉大さ、そして自らの肉体を他者の命を繋ぐために差し出してくれた神獣への、魂からの感謝と畏敬の涙だった。
ティオも、シェリルも、ニーナも、静かに頭を垂れ、神獣の亡骸の前で黙祷を捧げた。
「命をありがとうよ、山の主」
バルツが帽子を取り、巨角鹿の純白の額に手を当てて深く祈りを捧げた。
「お前の命は、絶対に無駄にしねえ。麓の飢えた村人たちを救い、この若僧たちの未来の血肉として、骨の髄まで大切にいただかせてもらう」
バルツは振り返り、涙を流すエレナと弟子たちへ、静かに語りかけた。
「いいか、若僧ども、そしてエレナの嬢ちゃん。狩人ってのはな、命を奪って威張る強盗じゃねえんだよ。命をいただき、次の命へと繋ぐ『橋渡し』だ。生きとし生けるものは、いつか必ず死ぬ。だが、その死んだ肉体を雪山に放置して腐らせちまうことほど、命に対する冒涜はねえ。綺麗に血を抜き、骨の隙間に刃を滑らせ、最高の料理にして余すところなく腹に収めること……それだけが、俺たち人間が差し出せる唯一無二の敬意なんだよ」
「命を……次の命へ繋ぐ、橋渡し……」
エレナはその言葉を胸の奥深くへと刻み込んだ。
王都の騎士団では、「討伐した魔獣の首を掲げて凱旋すること」が最大の栄誉とされていた。
だが、それはただの浅ましい虚栄心にすぎなかったのだ。
命を尊び、その恵みを飢えた人々の血肉へと昇華させるバルツたちの姿こそが、真の騎士道よりも遥かに気高く、美しい魂のあり方だった。
(私は今日……生涯の師に出会いました。このお方の教えこそが、我がシルフィード家の守るべき真の道……!)
その瞬間――。
パアアアアアアアアッ……!
天空を覆っていた鉛色の重苦しい雲が、霊峰の主峰を中心にして、円形にパカッと大きく割れた。
雲の切れ間から差し込んできたのは、黄金色に輝く奇跡の朝日。
何ヶ月もの間、白銀山脈を閉ざしていた暗闇を吹き飛ばす、温かな春の陽光が、氷壁の踊り場全体を眩いばかりに照らし出したのだ。
「あ……っ! 見てくださいまし……! 太陽ですわ……!」
シェリルが感極まった声を上げた。
黄金の光の柱が山頂から山麓のスノウベール村へと一直線に降り注ぐ。
凍りついていた氷壁から、ピキピキと音を立てて霜が解け落ち、サラサラと清らかな水が流れ始める。
雪の下で何ヶ月も眠っていた高山植物の小さな芽が、地脈の温もりを感じて一斉に青い顔を出し始めていた。
谷底からは、長い冬の終わりを告げる雪解け水のせせらぎが、まるで祝福の讃美歌のように高らかに響き渡っていた。
遥か山麓のスノウベール村でも、突然の奇跡の晴天に村人たちが広場へと飛び出し、空を仰いで歓喜の涙を流しているに違いなかった。
「晴れたニャ……! 山が……山が笑ってるニャ!」
ニーナが両手を広げて青空を仰ぎ、ぴょんぴょんと跳びはねた。
凍えていた空気が、陽光の熱を浴びて急速に和らいでいく。
地脈の血栓が抜かれ、霊峰全体に本来の豊かな生命エネルギーが再び巡り出したのだ。
「さあ、泣いてる暇はねえぞ、エレナの嬢ちゃん、若僧ども」
バルツがポンと手を叩き、全員の顔を見回した。
その隻眼には、職人としての力強い光が満ちていた。
「神獣が俺たちに託してくれた、命の恵みだ。肉が冷えて硬くなる前に、完璧な放血と解体を行うぞ! 村人全員を救うための、最高の極上サバイバル肉の収穫だ! ティオ、そりから大釜と七本のナイフを並べろ!」
「はいッ! 任せてください、おっちゃん!」
「わたくしも解体台の冷却維持、完璧にこなしてみせますわ!」
「あたいの小刀も、腕が鳴ってるニャー!」
「私も……お手伝いいたします! 解体の技術、すべて学ばせてください!」
エレナは名門貴族の令嬢でありながら、躊躇うことなく甲冑の袖をまくり上げ、清らかな白布を両手に抱えてバルツの傍らへと駆け寄った。
その眼差しには、もはや中央の傲慢な貴族の影など欠片もない。ただ命の奇跡に奉仕しようとする、真の狩人の見習いとしての誇りが輝いていた。
ティオが特製の大そりから巨大な木製解体台と樋を手際よく下ろし、シェリルが周囲の雪を清らかな氷壁で囲って衛生的な解体空間を瞬時に作り出す。ニーナが刃渡り15センチの小刀を布で磨き上げ、バルツの指示を待つ。
青空の下、神話の巨獣と対峙する解体士たちの、至高の命の解体劇が幕を開けた。
晴れ渡る白銀の霊峰に、四人の若き狩人たちの誇らしげな返事が力強く木霊した!




