第094話:バルツの《黒喰》一閃! 苦しみの黒い結晶を切除する神技解体
シン……ッ。
先ほどまでの天変地異が嘘のように、標高2500メートル「氷壁の踊り場」に完全な静寂が訪れていた。
吹き荒れていた時速の猛吹雪は完全に止み、空を覆っていた灰色の雪雲の隙間から、青空の欠片が覗いている。
雪原に膝を折り、巨大な氷晶角の重みに頭部を垂れている《氷霜の巨角鹿》。
角突起動脈環の急激な熱膨張によって冷気マナの供給を絶たれた神話の主は、荒い呼気をフシュー……フシュー……と白い蒸気にして吐き出していた。
その巨大な胸元。
白銀の毛皮を黒く焼き焦がし、胸骨と肋骨の隙間に食い込んだ、大人の頭ほどもある『第3の黒い結晶』。
結晶からは、依然として紫黒色の毒々しいマナがパチパチと放電し、心臓の真上で太い動脈を圧迫し続けていた。
「グル……ルル……」
巨角鹿の大きな瞳が、ゆっくりと持ち上がった。
かつて霊峰を統べていた神獣の双眸。
充血した毛細血管の奥底に、何百年もの間、胸に突き刺さった異物の激痛に苛まれ、狂乱の闇に閉じ込められていた魂の光が、微かに揺らめいていた。
神獣は、目の前に音もなく歩み寄ってきた一人の人間の姿を、その瞳に映し出していた。
老狩人バルツ。
防寒着の裾を微風に揺らしながら、雪の上に足音一つ立てずに歩を進める。
その手には、腰の鞘から半分ほど引き抜かれた愛刀《黒喰》。
青白い雪明かりを吸い込み、黒光りする鋼の刀身。
だが――巨角鹿の全身を震わせていたのは、恐怖ではなかった。
バルツの全身から漂う気配。
そこには、敵を殺戮しようとする剣士の殺気も、魔獣を狩り獲物としようとする冒険者の貪欲さも、爪の先ほども存在していなかったのだ。
「お前も……長えこと、痛かったよな」
バルツの低く、穏やかな声が、極寒の空気に溶け込んだ。
その隻眼は、かつて自らも地脈の毒に侵され、背中の古傷に何十年も激痛を抱え続けてきた狩人だからこそ持ち得る、深海のように深い共感と慈愛に満ちていた。
「中央の馬鹿どもが、金儲けのために山を荒らしやがった。地脈の血管を無理やり引き裂き、そのヘドロがお前の胸に突き刺さったんだ。暴れたくて暴れたわけじゃねえ。ただ痛くて、苦しくて、山全体に助けを求めて泣いてただけなんだよな」
巨角鹿の耳が、ピクリと小さく動いた。
言葉の意味など、魔獣には理解できないはずだ。
だが、バルツの掌から放たれる温もりと、魂の波動が、狂乱の檻に閉じ込められていた神獣の心を確かに解きほぐしていた。
巨角鹿は暴れることも、角を振り上げることもなく、ただ静かに、その巨大な胸元をバルツの前へと晒した。
まるで、名医の手術台に自らの命を預ける病人のように。
「ティオ、シェリル、ニーナ、エレナの嬢ちゃん。瞬きすんなよ。これが、俺の解体のすべてだ」
バルツが背後の弟子たちへ、静かに告げた。
ティオが大剣を握り締めたまま息を呑む。
エレナが胸元に両手を当てて瞳を見開く。
シェリルが杖を握り、ニーナが耳を澄ませる。
かつて第1章の原生林で、泥にまみれた解体台の上で、バルツが落ちこぼれカルテットに繰り返し教えてくれた言葉。
『骨の隙間に刃を滑らせるだけだ。無理に力を入れるな。相手の骨格を理解し、命の通り道に刃先を添えてやれば、硬い骨も靭帯も、自然と道を開けてくれる』
その真理の到達点が、いま目の前で示されようとしていた。
スウッ……。
一歩の踏み込み。
雪を踏み抜く音すらない。
重力に逆らわず、自らの体重を前方への推進力へと滑らかに変換する、究極の脱力歩法。
バルツの身体が、まるで風に舞う一枚の枯葉のように、巨角鹿の懐深くまで一瞬で滑り込んだ。
そして――。
シャキィィィィィィィンッ……!
抜刀の一閃。
それは、剣技と呼ぶにはあまりにも静謐で、美しすぎる奇跡の軌跡だった。
刀身が描いたのは、直線ではない。
鹿の胸部骨格――左右の胸骨と、第三肋骨、第四肋骨が交差する【胸肋関節】の、わずか数ミリの隙間に沿った、滑らかな三次元の曲線。
肉を断つための刃ではない。
血管を避けるための刃。
心臓を傷つけないための刃。
長刀《黒喰》の反りと、肋軟骨の湾曲面が幾何学的に完全に一致し、切っ先が黒い結晶と胸骨の結合組織の隙間へと、まるで熟練の彫刻家がノミを滑らせるかのように、音もなく吸い込まれていった。
コリッ……!
微かな、だが踊り場全体に響き渡るほどに澄んだ破断音。
バルツの手首が、ミリ単位の精度でクイと返された。
テコの原理。
骨と骨の隙間に入り込んだ《黒喰》の鎬が、結晶の根元を優しく持ち上げた――その刹那。
パリンッッッ……!!!!
大人の頭ほどもあった巨大な黒い結晶が、巨角鹿の胸骨から完全に切り離され、青白い放電を撒き散らしながら雪原の上へと転がり落ちたのだ。
血の一滴すら、流れていなかった。
胸骨の裏を走る大動脈も、心臓の外膜も、一切無傷。
ただ、神獣を何百年も苦しめ続けていた『激痛の元凶』だけが、外科手術のメスよりも美しく、完璧に切除されていた。
ジュウウウウウウウッ……!
雪の上に落ちた黒い結晶は、霊峰の大気と日光に晒され、自らの邪悪なマナを保てなくなって激しく煙を噴き上げた。
そして、パキパキと音を立てて無数の黒い砂粒へと風化し、春の雪解け水に洗われるように跡形もなく消滅していった。
「ふうううううう……っ」
バルツが静かに息を吐き出し、長刀《黒喰》を鞘へと納めた。
パチンッ、と鳴り響いた鯉口の音。
その瞬間、バルツの背中に走る無数の古傷から、30年間続いていたあのチリチリとした激痛が、嘘のようにスッと引き去っていった。
地脈の最大の血栓が外され、山脈の血流が正常に戻った証拠だった。
巨角鹿の胸の傷口からも、温かく澄み切った青白い光の粒子がフワリと立ち上り、神獣本来の驚異的な自己治癒力によって、皮膚が急速に塞がれていく。
純白の毛皮が本来の神聖な銀色の輝きを取り戻し、巨角鹿はゆっくりと頭部を下げると、自らの温かい鼻先を、バルツの無骨な頬へとそっと優しくすり寄せた。
言葉を超えた、神獣からの最大級の感謝の口づけ。
それは、傷つけられた大自然と、命を尊ぶ真の狩人が、悠久の時を超えて魂を交わし合った瞬間だった。
「き、切除した……! 心臓の真横に食い込んでいたあの巨大な毒石を……鹿の身体を一筋も傷つけずに、切り落とした……!?」
エレナがその場に膝をつき、両手で顔を覆って激しい感涙に震えていた。
神技。
これこそが、落ちこぼれカルテットを大陸最強へと育て上げた、辺境の老狩人の真の姿。
命を尊び、骨の理を知り尽くした者だけが到達できる、至高の『魔物解体術』の奇跡だった。
「おっちゃん……すげえよ……! 俺、一生ついていくよ!」
「わたくしたちが目指すべき世界の頂点が、ここにありますわ……!」
「おじちゃんの包丁、やっぱり世界一ニャッ!」
ティオ、シェリル、ニーナの瞳に、憧れと誇りの熱い涙が溢れ出していた。
遥か眼下のスノウベール村からは、雪崩の危機を脱したことを祝う教会の鐘の音が、澄み渡る風に乗ってカラン、コロンと美しく響き渡っていた。
長かった極寒の支配が終わりを告げ、白銀の霊峰の頂きに、暖かな春の陽光が力強く差し込み始めていた。
命を尊ぶ真の解体士たちによって、苦しみ続けた霊峰の主が、そして絶望の淵にあったスノウベール村が、完全なる奇跡の救済の光に包まれたのだ。




