第091話:バルツの戦略「凍らせるなら、温めればいい」
ヒュウウウウウウ……ッ。
温風ドームの外側で、氷晶の針が岩肌を削る鋭い風音が鳴り響いていた。
主峰の頂に立つ《氷霜の巨角鹿》。
その8メートルの巨大な氷晶角の先端からは、依然として青白い冷気マナが逆巻く炎のように噴き上がり、周囲の空気を氷点下三十五度へと凍てつかせている。
ブレスの合間とはいえ、あのような神話級の冷気放射体の懐へ迂闊に飛び込めば、人間など数歩歩いただけで肺と心臓を凍結させられ、生きた氷像と化すのは自明の理だった。
「バルツ様、どのように攻め入るおつもりですか……!?」
エレナが真剣な面持ちで問いかけた。
「王立軍事アカデミーの対氷晶魔獣マニュアルでは、『極大火炎魔法の一斉放射によって冷気障壁を強引に蒸発させる』のが唯一無二の定石とされています。ですが……あの巨角鹿の冷気圧はあまりにも規格外です。並の火球や松明など、近づけた瞬間に熱を奪われ、逆に氷柱へと変えられてしまいます……!」
「おう、その通りだ。外側から火炎魔法なんぞぶつけても、相手の冷気マナのエサになるだけだな」
バルツはあっさりと頷き、煙管をくわえたまま雪の上にしゃがみ込んだ。
そして、七本の解体ナイフの一本を取り出し、雪のキャンバスに鹿の頭部と角の断面図をサラサラと描き始めた。
「いいか、エレナの嬢ちゃん、そして若僧ども。敵が凍らせてくるなら、こっちはどうする?」
「えっ……? 温める、ですか……?」
「そうだ。だが、外から無理やり炙るんじゃねえ。【内側から温めて、回路をショートさせる】んだよ」
「内側から……回路をショート……!?」
ティオとシェリル、ニーナが身を乗り出す。
バルツのナイフの切っ先が、描かれた鹿の頭蓋骨、角の付け根の窪みをトントンと突いた。
「よく見ろ。鹿の角ってのは、ただの硬い骨じゃねえ。頭頂骨から伸びた骨突起の周りに、何千本もの細い毛細血管が網の目のように張り巡らされてる。特にこの巨角鹿の角は、体内の冷気マナを大気中へ逃がすための『放熱ラジエーター』だ。心臓から送り出された血液が、首の動脈を通って角の根元の【角突起動脈環】に集まり、そこで冷気マナを角の切っ先へと送り出してる」
「な、なるほど……! 角の根元が、冷気マナの『送電線』になっているのですね!」
シェリルが膝を打った。
解剖学の視点で見れば、神話の魔獣も精密機械のような循環システムを持っているのだ。
「そうだ。そして、冷気の魔法陣や生体回路ってのはな、極度の低温と一定の圧力があって初めて安定して循環する。もしも……あの角の根元の動脈環に、沸騰するほどの高熱と、強烈な温感オイルをピンポイントで叩き込んだらどうなると思う?」
「あ……っ!」
ティオがハッと息を呑んだ。
「急激な熱膨張……! 冷たさで張り詰めていた血管とマナ回路が、一瞬でパンパンに膨れ上がって……!」
「破裂、もしくは大混乱を起こしますわ! 冷気と温気が体内で激突して、魔力の循環バランスが崩壊し……冷気の放射が完全にストップします!」
「その通りだ」
バルツがニヤリと隻眼を細めて笑った。
「凍ったガラスのコップに、いきなり熱湯を注ぐとどうなる? 粉々に割れるだろ。それと同じ理屈だ。あいつの8メートルの氷晶角を外から力づくで叩き割る必要はねえ。根元の血管に熱のクサビを打ち込んで、内側から自滅させてやるんだよ」
「な、なんという奇策……! 王都騎士団の戦術家でも、魔獣の毛細血管の熱膨張を利用して魔法を止めるなど、逆立ちしても思いつきません……!」
エレナは顎が外れんばかりに驚愕し、老狩人の叡智に震え上がっていた。
王都の騎士団は、大金を注ぎ込んだ高価な魔法巻物や重装甲冑ばかりを誇り、相手の身体の仕組みを学ぼうともしなかった。力押しで挑んで全滅し、「魔獣が強大すぎた」と言い訳を並べ立てる。
だが、バルツたちの戦いは、相手の生命構造を完全に理解し、指先一つの力で急所を突く――美しき自然科学そのものだった。
「よし、武器を作るぞ! ティオ、さっき白熊から取った純白ラードを出せ! ニーナ、大猪の膀胱で作った耐熱水袋を四つ用意しろ!」
「「はいッッッ!!」」
カルテットが素早く動いた。
大鍋で沸かしたグラグラ煮え立つ熱湯。
だが、真水だけでは極寒の雪山ではすぐに冷えて凍りついてしまう。
そこでバルツは、零下でも凍らない白熊の不凍ラードをたっぷりと注ぎ込み、さらに雪山に自生する激辛の『温感唐辛子』と、身体を芯から燃え上がらせる『温感生姜』の濃厚な絞り汁を投入した。
ジュワアアアッ……! と真っ赤な湯気が立ち上り、鼻を近づけただけでクシャミが出るほどの超高濃度カプサイシン温感オイルが完成する。
油膜の蓋があるため、外気がどれほど氷点下であろうとも、内部の沸騰熱は一滴も逃げない。
それを、伸縮性と耐熱性に優れた猪の膀胱水袋へとパンパンに詰め込み、麻糸で口を頑丈に縛る。
「名付けて――【特製・温感ラード投擲弾】だ! 角の根元にぶち当てて破裂させりゃ、沸騰した不凍油が角皮にへばりつき、角突起動脈を一気に百五十度まで過熱する!」
「あたいの投擲の腕前なら、猛吹雪の中でも鹿の耳の裏へ百発百中で放り込めるニャ!」
ニーナが水袋のずっしりとした重みを両手で確かめ、自信満々に尻尾をピンと立てた。
「だが、問題はどうやってあいつの懐へ近づくかだ」
バルツが立ち上がり、大剣を背負ったティオ、杖を構えたシェリル、そしてレイピアと丸盾を握るエレナを順に見据えた。
「突進してくる神獣の巨角をティオが大剣で逸らす。エレナ、お前の盾はティオの背中を支えるソリになれ。盾は壁じゃねえ、衝撃を地面へ滑らせる第二の傾斜板だ。ティオの大剣とエレナの盾の角度が合えば、どんな巨角の激突だって地面へ受け流せる。そしてシェリルが足元の氷を奪って巨躯の動きを止め、ニーナが耳の裏の動脈環へ温水弾を叩き込む。四人の呼吸がコンマ一秒でもズレれば、全員が氷河の藻屑だ。やれるか?」
「ティオ殿、あなたの背中は私が必ず命を賭けて支えます!」
「はい、エレナさん! お互いの角度を合わせて、二枚の斜面になりましょう!」
「わたくしも足元の摩擦ゼロ氷結、完璧なタイミングでお見舞いいたしますわ!」
「あたいの投擲弾で、一瞬で回路をショートさせてやるニャ!」
四人の若者たちの声が、極寒の踊り場に力強く重なり合った。
エレナの瞳には、かつてない誇りと高揚感が満ちていた。
守るべき民が背後にいて、信頼できる仲間が隣にいて、前には進むべき道を示してくれる偉大な師がいる。
ドズウウウウウウウウウンッッッ……!!
その時、主峰の頂から、体長6メートルの《氷霜の巨角鹿》が雪煙を巻き上げて大跳躍し、踊り場の雪原へと地響きを立てて着地した。
8メートルの巨大な氷晶角を天へと振りかざし、狂乱の神獣が真っ赤な双眸でティオたちを睨みつける。
蹄が雪を蹴り、時速を超える突進体勢に入る神話の巨獣。
「行くぞ、全員! 神獣の痛みを終わらせてやれ!」
バルツの力強い号令とともに、四人の若き狩人たちが白銀の雪煙を蹴って一斉に疾走した。
ティオの大剣の黒鉄、エレナの甲冑の白銀、シェリルの杖の琥珀光、そしてニーナの俊敏な純白の影。
骨と血管の理を極めた狩人たちと、吹雪を統べる神話の巨獣。
大自然の調和を取り戻すための、奇跡の連携作戦が、いま幕を開けた!




