第092話:温水袋と香草油! 巨角鹿の冷気放射管を特定するカルテット
ズッシャアアアアッッッ……!
標高2500メートル「氷壁の踊り場」。
体長6メートル、体高4メートルを超える神話の主《氷霜の巨角鹿》が、白銀の雪煙を巻き上げながら猛然と突進を開始した。
四本の太い大理石のような脚が雪原を蹴り破るたび、何トンもの氷塊が後方へと弾丸のように吹き飛ぶ。
時速。
差し渡し8メートルにも及ぶ巨大な氷晶角を前方に突き出し、角の無数の切っ先から絶対零度の冷気光弾を乱射しながら迫り来る威容は、まるで白銀の攻城列車そのものだった。
巨角が空気を切り裂くことで猛烈な気圧差が生じ、周囲の雪原を巻き込んで巨大な竜巻のようなダウンウォッシュ(下降気流)が発生する。
普通の冒険者パーティーであれば、その風圧だけで吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて全身の骨を粉砕されているところだ。
「来るぞッ! シェリル、温風の道を切り拓け!」
「任せてくださいまし――《風切り温風の矢》ッ!!」
先頭を走るティオの叫びに応え、後方のシェリルが白樺の魔導杖を水平に薙ぎ払った。
杖の先端から放たれたのは、細く絞り込まれた琥珀色の超高密度温風。
突進してくる巨角鹿の真正面、吹雪の渦巻く気流の隙間へと一直線に射込まれる。
冷気と温気が衝突した瞬間、激しい熱対流が発生し、猛烈な乱気流が左右へと美しく裂かれていった。
カルテットが駆け抜けるための『無風の熱流トンネル』が一瞬にして雪原の上に切り拓かれたのだ。
(これが……おっちゃんが教えてくださった【気流の解体】ですわ!)
シェリルは走りながら、胸の中で歓喜の炎を燃え上がらせていた。
冷気嵐を力任せに打ち消そうとすれば、どれほど膨大な魔力があっても足りない。
だが、風の吹き抜ける『目の中心』を見極め、そこへほんのわずかな熱のクサビを打ち込んでやれば、相手の生み出した気圧差が勝手に風を左右へと押し広げてくれる。
あの氷晶岩魚の滋養で冷え性を完治させ、体内の魔力循環が神懸かり的に洗練されたシェリルだからこそ成し得る、最小魔力での気象制御だった。
「風圧、消えたニャ! 突っ込むニャーッ!!」
ニーナが純白の雪鼬のように身を低く沈め、熱流トンネルの中を矢のように滑走した。
先ほど捕獲した雪鼬の動きそのままに、新雪の表面張力を利用して跳ねるように進む。
その後方を、黒鉄の大剣を構えたティオと、銀の丸盾を構えたエレナが並走する。
真正面から迫る、巨大な氷晶角の威容。
近づけば近づくほど、その冷気圧は肌を刺す痛みを増していく。
まつ毛は白く凍りつき、吐き出す息は吸い込む空気ごと肺を凍傷で焼こうとする。
だが、四人の足は一歩も緩まなかった。
「ニーナ、角の根元の動脈環は見えたか!?」
「探してるニャ……! あたいの鼻と耳なら、必ず見つけ出すニャ!」
ニーナが走りながら、猫耳をピクピクと前後に激しく動かした。
猛烈な風音と、巨蹄が雪を踏み砕く轟音の奥底。
ニーナの鋭敏極まる聴覚が、巨角鹿の頭骨の内部を流れる『微細な循環音』を拾い集めていた。
ドクン……ドクン……という巨大な心臓の拍動音。
そして――ヒューヒューと甲高い超音波を立てて角へと吸い上げられていく、魔力循環の唸り声。
さらに、獣人の鋭い嗅覚が、極寒の無臭の空気の中に潜む『かすかな鉄分と生体熱の匂い』を捉えた。
「あったニャ……! 耳の付け根、巨大な氷晶角の真下、頭頂骨の窪みだニャ!」
ニーナが叫んだ。
巨角鹿の巨大な頭部。
8メートルの氷晶角が頭骨と結合している付け根部分――左右の耳のすぐ斜め上の窪み。
そこには、直径30センチほどの、うっすらと赤みを帯びた皮膚の露出部が存在していた。
十三股に美しく枝分かれした氷晶角のすべての根元が、その小さな窪みへと集中している。
胸の黒い結晶から吸い上げられた邪悪なマナと、心臓からの血液が交差し、青白いマナ光が渦を巻いて角へと送られている中枢点。
バルツの言っていた【角突起動脈環(冷気放射管)】そのものだった。
「左右に二つ! あの窪みの奥に、冷気マナの心臓部があるニャ!」
「確認しましたわ!」
シェリルが杖を掲げ、翡翠色の瞳でそのポイントを正確にロックオンした。
「右の角の根元の方が、血流の脈動が激しいですわ! まず右側へ温感弾を叩き込めば、左右の魔力バランスが崩れて一気に暴走を止められます!」
「了解ニャ! 右の耳の裏へ全弾叩き込むニャ!」
「よし……二人が投擲する隙は、俺たちが作ります!」
ティオが叫び、黒鉄の大剣を両手で強く握り直した。
かつて、身の丈の大剣の重さに耐えかねて腰を痛め、王都ギルドから追放されて泣いていた少年。
だが今、ティオの背骨には寸分のブレもない。
バルツの言葉が、少年の胸の中で鐘のように鳴り響いていた。
『ティオ、恐怖を感じたら、相手をただの肉と骨の塊として見ろ。神獣だろうが魔王だろうが、皮を一枚剥げば同じ血が流れ、同じ骨で立ってる。理を知る者に、恐れるものなんざ何一つねえんだよ』
その隣で、銀装の甲冑を鳴らす近衛騎士エレナが、丸盾をティオの背中へとピタリと寄り添わせた。
「ティオ殿! あなたの背中は、私が支えます! どんな衝撃が来ようとも、決して退きません!」
「頼みます、エレナさん! お互いの角度を合わせて、二枚の巨大な屋根になりましょう!」
少年と騎士の呼吸が、完全に一つに溶け合った。
エレナはこれまで、騎士団で「盾とは敵の攻撃を真っ向から受け止める壁」と教え込まれてきた。
だが、バルツに教わった真理は違った。
盾とは、相手の運動エネルギーを地面へと逃がすための『斜面』であり『ソリ』なのだ。
かつて孤立した寒村で、中央の腐敗に絶望し、一人で泣いていた名門の騎士。
それが今、背中を完全に預け合い、命を共にして立ち向かえる本物の仲間を得た。この胸に湧き上がる誇らしさと熱い鼓動こそが、真の騎士の生きる道なのだと、エレナの魂が歓喜に震えていた。
ティオは母指球を深く圧雪層へねじ込み、かつての大沼地帯で毎日のように啜った骨スープで鍛え抜かれた大腿四頭筋と脊柱起立筋を一本のしなやかなバネのように連動させる。
エレナもまた、自らの左肩と丸盾をティオの右肩の背面に密着させ、二人の重心を完全に一致させた。
大剣の傾斜角。
エレナの丸盾の傾斜角。
二枚の鋼の斜面がピタリと噛み合い、一本の滑らかな巨大スロープを雪原の上に形成した。
その斜面の真後ろで、ニーナが両手に【特製・温感ラード投擲弾】を構える。
猪の膀胱水袋の中で、沸騰した不凍油と激辛カプサイシンオイルが、獲物を狙うマグマのように熱気を滾らせていた。
後方数歩の位置では、老狩人バルツが愛刀《黒喰》の鯉口を静かに切り、神話の主の胸元――あの巨大な黒い結晶へと、隻眼の照準を寸分の狂いもなく定めていた。
ドズウウウウウウウウウンッッッ……!!
巨角鹿との距離、残りわずか3メートル。
時速、数トンの質量を乗せた8メートルの氷晶角が、空気を圧縮して衝撃波を巻き起こしながら、二人を丸ごと串刺しにせんと頭上から猛烈な勢いで突き刺さる!
大剣と盾の斜面、極薄の鏡面氷、そして耳の裏へ迫る温感弾。
「受け止めるな、流せ! 雪山と一つになれッ!」
老狩人バルツの魂の叫びが、氷壁の踊り場を激しく突き抜ける。
刹那の静寂の中、命を賭けた四人の連携が、神話の奇跡へと昇華する瞬間だった――!
氷煙が吹き荒れ、視界が真っ白に染まる氷壁の踊り場。
ティオの全身の細胞が、極限の集中の中で冴え渡っていた。
足裏の皮膚が一枚一枚、氷の凹凸をグリップし、大地の反発力を背骨へと伝えていく。
寒さなど微塵も感じない。
仲間と共に作り上げた完璧な解体の連携が、今、神話の巨獣を捉えようとしていた。




