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第090話:絶対零度の猛吹雪! 村を呑み込もうとする氷結の嵐

ゴオオオオオオオオオオッッッ……!


 天が裂け、大地が凍りつく。

 標高2500メートルの氷壁から、神話の主《氷霜の巨角鹿(フロスト・メガロセロス)》が解き放った絶対零度の冷気嵐。

 それは、通常の吹雪などという生易しいものではなかった。

 空中の過冷却水蒸気が一瞬で超微小な針状の氷晶へと凝固し、時速の猛烈な暴風に乗って横殴りに吹き荒れる。

 岩肌に生えていた樹齢数百年の白樺の大樹が、冷気の直撃を受けた瞬間、樹液ごと瞬時に凍結して「ピキキキキッ……!」とガラス細工のように破裂し、木っ端微塵に粉砕されて吹き飛んでいく。


「きゃああっ……!?」


 銀装の軽装甲冑を纏ったエレナが、丸盾を構えて前傾姿勢をとるが、その巨岩をも動かすほどの冷気圧の前に、身体が木の葉のように雪原を後方へと押し流されそうになった。

 盾の表面には一瞬で数センチの氷が張り付き、手甲越しに握る革の持ち手が凍傷の激痛を訴える。

 金属鎧は極寒の雪山では最悪の凶器だ。外気の冷気をそのまま吸収し、内側の防寒服を通り越して皮膚へと張り付き、無理に剥がせば皮膚ごと肉を引き裂いてしまう。


「手甲と盾の柄の間に乾いた布を噛ませろ、エレナの嬢ちゃん! 金属に直接触れるな!」

「くっ……! は、はいッ……! な、なんという風圧……! そしてこの寒気……! 近衛騎士団の魔法障壁ですら、数秒と持ちこたえられません……!」

「エレナ様、わたくしの後ろへ!」


 シェリルが駆け寄り、白樺の魔導杖を両手で天へと突き立てた。

 冷え性が完治し、魔力回路がフル開通したエルフの少女の翡翠色の瞳に、強い光が宿る。


「展開しなさい――《白樺の温風天蓋(サーマル・ドーム)》ッ!!」


 ポッと、淡い琥珀色の温かい魔力光が、杖の先端から半球状に広がった。

 派手な防御結界ではない。

 かつて第1章の野営でバルツから叩き込まれた、焚き火の温気と気流を操る『熱流制御結界』だ。

 正面から冷気の津波を受け止めるのではなく、ドームの急勾配な傾斜面に沿わせて、絶対零度の風を頭上と左右へと滑らかに受け流していく。

 激しい突風の轟音がドームの外側を甲高く滑り去り、内部の温度はかろうじて活動可能な氷点下五度前後に保たれた。


「ふう……! これなら息ができますわ!」

「助かりました、シェリル殿……! ですが、見てください、下を……!!」


 エレナが青ざめた顔で、温風ドームの隙間から山麓を指差した。

 一行を飛び越えて谷底へと吹き降ろしていった冷気の津波。

 それが、尾根に積もっていた何1000000トンもの新雪を巻き込み、巨大な『表層雪崩』を形成して、遥か眼下のスノウベール村へ向けて猛烈な勢いで雪煙を巻き上げながら雪崩れ落ちていたのだ。


「あ、あの雪崩が村を直撃すれば……村の木造家屋など一瞬で押し潰され、領民数百人が生きたまま氷の下に埋まってしまいます……!!」


 エレナが絶叫した。

 せっかく昨日、雪山保存食のスープで息を吹き返し、希望を取り戻したばかりの無垢な村人たち。

 子供たちや老人たちの笑顔が、再び破滅の危機に晒されている。

 王立軍事アカデミーで教わった「民の危機には身を挺して盾となれ」という言葉に突き動かされ、エレナが剣を抜き、山を駆け下りようとした――その時。


 ガシッ!


 逞しい手が、エレナの肩をがっしりと掴んで引き止めた。


「待て、エレナの嬢ちゃん。山を駆け下りたって雪崩より早く走れるわけがねえ」

「バ、バルツ様……! ですが、このままでは村が……!」

「村なら心配いらねえよ。俺たちが昨日、村の周囲の斜面に何を仕掛けてきたか忘れたか?」

「え……?」


 エレナが目を見開いた。

 昨日、スノウベール村を出発する直前。

 バルツは村の屈強な若者たちを集め、村の北側の急斜面に、幅5メートル、深さ3メートルの巨大な『V字型の誘導雪溝』を何本も掘らせていた。

 雪崩の力学において、雪の塊は最も抵抗の少ない溝へと引き寄せられる性質がある。

 さらに、シェリルの魔法で溝の壁面を凍らせてツルツルの鏡面にコーティングし、摩擦係数をゼロにして雪の流速を加速させ、村の直前で雪の流路を左右の無人の深い渓谷へと逸らす『雪崩誘導堤(スノー・ダイバータ)』を完璧に組み上げていたのだ。


 ズズズズズズズズズッ……!!


 遥か山麓から、重厚な地鳴りが響いてきた。

 斜面を時速で転がり落ちていった巨大な雪崩の濁流。

 それが村の背後の尾根に激突した瞬間――バルツたちの掘った巨大な誘導雪溝に吸い込まれ、まるで運河を流れる水のように、村の境界を綺麗に迂回して左右の深い断崖絶壁へと豪快に滑落していったのだ。

 スノウベール村の屋根には、ただ白い粉雪がサラサラと優しく舞い落ちただけだった。


「あ……あぁ……っ! ゆ、雪崩が……村を避けて、谷へ落ちていきました……!」


 エレナの瞳に、信じられないという驚愕と、熱い安堵の涙が溢れ出した。

 騎士団の教練では、雪崩が起これば全員で逃げるか、魔法の壁で耐えることしか教わらなかった。力で止めようとして押し潰され、命を落とした先輩騎士たちの顔が脳裏をよぎる。

 だが、バルツは自然の破壊力を正面から受け止めることなく、溝を一本掘るだけの知恵で、完全に無傷で数百人の命を救い去ったのだ。

 このお方は、ただの狩人などではない。

 民の命を何よりも重んじ、自然の猛威を完全に手玉に取る、真の知将であり英雄なのだと、エレナの胸は激しい憧憬と忠誠心で震えていた。


「バルツ様は……あの時からすでに、この大雪崩の発生を予見していらしたのですか……!?」

「当たり前だ。俺の背中の古傷が、朝からチリチリ疼いてたからな。雪山に入る以上、万が一の雪崩対策を打っとくのは解体士のブッシュクラフトのイロハだ。大自然の猛威と力比べなんざ、百回やっても百回負ける。だが、相手の進む道をほんの少し曲げてやるだけなら、スコップ数本で十分なんだよ」


 バルツは隻眼を細め、温風ドームの切れ目から、主峰の頂に立つ《氷霜の巨角鹿》を鋭く見据えた。

 巨角鹿が胸を大きく波打たせ、ブレスを吐き終えた後の反動で荒い呼気を吐き出している。

 どんな強大な魔獣であっても、体内の魔力を吐き出した直後には、必ず数秒から数十秒の『魔力充填の空白時間(インターバル)』が生じる。


「村の安全は確保された。ブレスの後の息切れ……あいつの魔力回路が最も不安定になるのは今だ。心置きなくあのデカ物に集中できるな」

「はいッッッ!!」


 ティオが黒鉄の大剣の柄を強く握り締め、力強く頷いた。

 恐怖は完全に消え失せていた。

 仲間への絶対の信頼と、バルツが授けてくれた知恵が、若き狩人たちの心に揺るぎない勇気の火を灯していた。


「慌てるなよ、若僧ども。どんなに凍てついていようが、どんなに神々しかろうが……鹿は鹿だ。骨の隙間と急所の理を突けば、あの8メートルの氷晶角だって、ただの『放熱アンテナ』にすぎねえんだよ! ティオ、そりから温水袋と香草油を出せ! 次の一手で、あの冷気回路を根元からショートさせるぞ!」

「了解ッ! 温水袋、油壺、すべて準備完了です!」

「あたいの爪も研ぎ澄まされてるニャ! いつでも飛び出せるニャ!」

「わたくしの温風フィールドも、最大出力でカルテットを包み込みますわ!」

「私も……皆様の背中を守る盾となります!」


 全員の呼吸が、一つの生き物のように完璧に重なり合った。

 バルツの不敵な笑みが、極寒の吹雪を切り裂いた。

 神話の主の絶対零度を打ち破る、逆転の解体戦略が始まろうとしていた!

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