第089話:霊峰の頂が鳴動する! 吹雪の化身《氷霜の巨角鹿》の降臨
ドズオオオオオオオオオオッッッ……!
北嶺の霊峰「白銀山脈」の天辺が、雷鳴を伴って激しく鳴動した。
標高3000メートル。
雲を突き抜けて天にそびえる主峰の切り立った氷壁から、青白いオーロラのような巨大な光の柱が天空へと垂直に噴き上がった。
それは、地脈に詰まった邪悪なマナが限界まで膨張し、霊峰の心臓部から溢れ出した破滅の兆候。
鉛色の雪雲が蜘蛛の巣のように青白く割れ、山脈全体が巨大な太鼓のようにドクン、ドクンと不気味な脈動を繰り返していた。
「な……なんという地響きでしょう……! 山全体が……まるで生き物のように苦しんで悲鳴を上げています……!」
氷壁の踊り場から氷河洞窟の入り口へと急行していた近衛騎士エレナが、レイピアの柄を強く握り締めながら足を止めた。
急激な気圧の変化。
耳の奥がキーンと甲高い耳鳴りを上げ、吐き出す息は白く濁るどころか、瞬間的に極小のダイヤモンドダストとなって宙を舞う。
気温は、先ほどの氷点下二十五度から、さらに氷点下三十五度以下へと一気に急降下していた。
防寒着の鹿革の表面がカチカチに硬化し、衣服が擦れ合うだけでパキパキと硝子が割れるような乾いた音を立てるほどの極限世界。
「ニーナ、耳の奥を塞げ! 急激な気圧差で鼓膜をやられるぞ! ティオ、シェリル、重心を低く保て!」
老狩人バルツの鋭い指示が飛ぶ。
バルツの背中の古傷は、いまや衣服が焦げるのではないかと思えるほどの激痛と熱感を放っていた。
地脈の血管が完全に破裂寸前まで追い込まれ、汚染された冷気マナが霊峰全体へと逆流している証拠だ。
「来るぞ……! 白熊どころじゃねえ。この白銀山脈の生態系の頂点に君臨する、霊峰の真の主だ!」
バルツが叫んだその瞬間――。
キィィィィィィィン……!
耳障りな超高周波の氷結音が、主峰の尾根から吹き降ろしてきた。
突風が雪を巻き上げ、視界のすべてを真っ白に染め上げる猛烈なホワイトアウト。
その純白の吹雪のカーテンの奥、標高2500メートルの切り立った氷壁の頂に、その『神話の影』が姿を現した。
「あ……あぁ……っ……!」
エレナが息を呑み、その場に棒立ちになった。
ティオも、シェリルも、ニーナも、言葉を失って天空を見上げていた。
そこに立っていたのは、あまりにも巨大で、あまりにも美しく、そしてあまりにも恐ろしい、吹雪の化身そのものだった。
体長約6メートル。体高だけで4メートルを超える超巨大な古鹿。
白銀霊峰の守護神にして、極寒の吹雪を統べる神話級魔獣――《氷霜の巨角鹿》。
その巨躯を覆っているのは、絹糸のように細く、銀色に輝く純白の毛皮。
太い四肢は、まるで古代の白亜の神殿を支える大理石の円柱のように力強く、蹄は透明な永久青氷で覆われていた。
だが、何よりも見る者を圧倒したのは、その頭上にそびえ立つ『巨大な角』だった。
ゴオオオオオオオッ……!
左右に広がる角の差し渡しは、優に8メートル。
王宮の大広間に飾られる超特大のシャンデリアのように幾重にも美しく枝分かれし、そのすべてが純度100パーセントの透き通る『永久氷晶』で形成されていた。
鹿の角とは本来、頭頂骨から伸びた突起組織であり、血管の通る角皮(袋角)に覆われて成長する。
だが、この巨角鹿の角は、何千年も生き続ける中で霊峰の純粋な氷河マナと同化し、骨組織と氷晶が分子レベルで結合した奇跡の天然魔導アンテナと化していたのだ。
角の無数の切っ先から、青白い冷気のマナが、まるで逆巻く炎のように天空へと噴き上がっている。
巨角鹿が一歩、氷壁を踏み締めるたびに、その蹄から同心円状に波紋のような絶対零度の衝撃波が広がり、周囲の雪原が一瞬でカチカチの鏡面氷へと凍結していく。
「あ、あれが……霊峰の主……《氷霜の巨角鹿》……! 伝説の神獣……!」
エレナの声が震えていた。
シルフィード家に代々伝わる古い羊皮紙の記録には、かつて初代国王がこの霊峰を訪れた際、白銀の主である巨角鹿の気高さに打たれ、山脈一帯を神聖な不可侵の聖域と定めたと記されている。
本来であれば、大自然の調和を司り、人間に危害を加えることのない誇り高き存在。
王立アカデミーの戦術指南書には「角の大きな魔獣は、攻城兵器で角をへし折って制圧すべし」と記されていたが、いまのエレナにはそれが愚行の極みであると分かっていた。あの氷晶角を折れば、山脈の魔力循環そのものが永久に失われ、霊峰は死の山と化してしまうからだ。
だが――その神獣の姿は、いまや狂乱の地獄へと呑み込まれていた。
「グルルルルル……オオオオオッッッ……!」
巨角鹿が、鹿とは思えないほどの重低音の咆哮を轟かせた。
その巨大な頭部を激しく振り乱す。
本来であれば、澄み切った満月のように美しい黄金色をしているはずの双眸が、無数の毛細血管が破裂したように真っ赤に濁り、狂気と苦悶に染まっていた。
太い鼻孔からは黄色い泡が吹き出し、そして――巨角鹿の胸元。
白銀の毛皮の奥、巨大な胸骨の隙間に、白熊のものよりもさらに巨大な、大人の頭ほどもある『漆黒の侵食結晶』が深々と食い込んでいたのだ。
「黒い結晶……! 白熊の倍以上の大きさですわ……!」
シェリルが白樺の杖を構え、悲鳴のような声を上げた。
「あの結晶から放たれる邪悪なマナが、巨角鹿の冷気循環器官を強制暴走させています! 角から溢れ出ている冷気は、魔法の放射ではありません……激痛に耐えかねて、全身の熱を奪われて凍死しかけている神獣の、悲痛な叫びですわ……!」
「ああ、その通りだ」
バルツが長刀《黒喰》の柄を握り締め、隻眼を冷徹に細めた。
「『黄金の天秤』の奴らが地脈の奥深くを削岩機で爆破したせいで、最も深い場所に眠っていた神話竜のヘドロ鉱石が、あの鹿の胸を貫いちまったんだ。角は本来、体内の余分な魔力を放出して体温を調節するラジエーターの役割を持ってる。だが、胸の黒い石が暴走したせいで、角から無制限に冷気マナが吹き荒れ、山全体を凍りつかせちまってるんだよ!」
「そんな……! このままでは、麓のスノウベール村まで……村人たち全員が、氷河の底に沈んでしまいます……!」
エレナが蒼白な顔で叫ぶ。
巨角鹿が前足を高く跳ね上げ、氷壁を粉砕した。
ゴオオオオオオオオオッッッ!!!!
8メートルの巨大な氷晶角から、視界のすべてを白く染め上げる、絶対零度の猛吹雪が巨大な津波のように吹き降りてくる。
木々を凍らせ、雪原を削り取りながら迫り来る死の嵐。
だが、その破滅の光景を前にしても、老狩人バルツの背中は微動だにしなかった。
「慌てるな、エレナの嬢ちゃん。相手が神獣だろうが何だろうが、鹿の骨格は鹿だ。眼の視野角は広いが、真後ろと角の真下は完全な死角。骨の隙間と関節の理を知り尽くしていりゃ、必ず命を救う道はある!」
「おっちゃん、指示をくれ!!」
ティオが黒鉄の大剣を構え、母指球を深く雪に沈めて叫んだ。
シェリルが魔導杖を構え、ニーナが二本の解体小刀を逆手に構える。
エレナもまた、レイピアを凛と正対させ、「私も命を賭けて、皆様の背中をお守りいたします!」と声を張り上げた。
狂乱する神獣の命を救い、霊峰の大自然を蘇らせ、飢えに苦しむ領民たちを救い出すための奇跡の連携。
骨の隙間に刃を滑らせる狩人たちの熱き魂が、いま絶対零度の猛吹雪を真っ向から迎え撃つ!
白銀の霊峰の頂きで、神話の主と若き狩人たちによる、命を懸けた最終決戦の幕が切って落とされた!




