第009話:風船のようにツルリ! 棘兎の安全風船剥ぎ
原生林の間を縫うように流れる、透き通った清流「翡翠川」。
水底の丸石がくっきりと見えるほどに澄んだせせらぎの音と、川面を渡る冷涼な風が、獲物を仕留めたばかりの四人の肌を心地よく冷ましていた。
川辺の乾いた平らな巨石の上。
ティオが大剣の切先に乗せて運んできた《跳ね棘兎》の巨体が、ゴトリと横たえられていた。
改めて間近で見ると、その迫力は凄まじい。
成体の1メートル近い胴体。背中から側面にかけてビッシリと密生している黒い針毛は、一本一本が鋼鉄のように硬質で、先端には獲物の肉を切り裂く微細な逆返し(バーブ)がついている。
「う……うにゃあ。間近で見ると、やっぱりトゲトゲで怖いニャ……」
ニーナがフェネックの耳を伏せ、恐る恐る人差し指を伸ばしては引っ込めた。
「指で触ったら、チクッて刺さって血が出るニャ。ギルドの先輩たちも、跳ね棘兎を解体するときは、革の手袋を三重にはめて、ペンチで針を一本ずつ引き抜いてから皮を剥いでたニャ……。それだけで半日仕事ニャ」
「私も学院の生物解剖学で学びました。針毛の根元には微弱な麻痺毒を含んだ分泌腺があり、素手で触れるのは厳禁とされています。……しかし、先生。この無数の針毛を一本ずつ抜いていては、肉が冷めて鮮度が落ちてしまいませんか?」
シェリルが真剣な表情でバルツを見上げる。
普通の冒険者や解体屋であれば、針毛を力任せに刈り取るか、あるいは毛皮ごと肉を削ぎ落として、可食部を半分以上無駄にしてしまう難物だ。
だが、バルツは腰の道具袋を広げると、平然とした顔で無精髭を撫でた。
「ペンチで抜く? そんな無駄な力仕事、腰が痛くなるだけだ。針毛なんて一本も抜く必要はねえよ」
「えっ、抜かずにどうやって皮を剥ぐんですかおっちゃん!?」
ティオが目を丸くする。
バルツは道具差しから、長さ5センチほどの極細の管――中が空洞になった鳥の骨でできた【吹き管】と、三稜の細い麻痺針を取り出した。
「生き物の皮膚ってのはな、筋肉と接着剤でベッタリくっついてるわけじゃねえ。皮と肉の間には、蜘蛛の巣のように細い線維が張り巡らされた『皮下結合組織(薄膜)』があるだけだ。この薄膜さえ剥がしてやりゃ、皮なんて衣服を脱ぐようにツルリと外れるんだよ」
「薄膜を……剥がす……?」
「よく見てろ。これが『風船剥ぎ』だ」
バルツはまず、兎の眉間にある急所へ、麻痺針をスーッと垂直に刺し込んだ。
ピクリ、と兎の四肢が微動し、全身の強張っていた筋肉が完全に弛緩した。
針毛を逆立たせていた立毛筋が脱力し、硬かった針毛がペタリと寝る。
「第一段階。筋肉の緊張を解く。死後硬直が始まる前の、この数分間が勝負だ」
次に、バルツは丸刃の小刀を抜き、兎の尾の付け根――排泄腔のすぐ脇の柔らかい皮膚に、わずか5ミリほどの小さな切れ目を入れた。
一滴の血も滲まない。
そこに、手にした鳥骨の吹き管の先端を、スーッと皮下へと差し込む。
角度は水平。肉の筋肉層には一切刃を入れず、皮と筋膜の間の「隙間」へ管を滑り込ませたのだ。
「ティオ、皮の端を指先で軽く押さえて、隙間から空気が漏れないようにしとけ」
「は、はいッ!」
「シェリル、ニーナ、兎の腹と背中を見てろよ」
バルツは吹き管の端を口に含むと、深く息を吸い込み――
ふうううううっ……!と、一気に肺の中の空気を管へと吹き込んだ。
その瞬間だった。
プチプチプチプチプチッ!!!!
まるで無数のプチプチを指先で連続して潰すような、小気味よい音が兎の全身から響き渡った。
吹き込まれた空気の圧力が、皮と筋肉の間を波のように駆け抜けていく。
クモの巣状に結びついていた皮下結合組織が、空気の刃によって均一に、完璧に、一瞬で剥離されていくのだ。
プクウウウウウウッ……!
見る見るうちに、兎の胴体がパンパンに膨らんでいく。
黒い針毛をまとった硬い皮が、まるで丸い風船のように大きく膨らみ、内側の肉から完全に浮き上がった。
「にゃ、にゃああああああああっっっ!?」
「う、兎が……風船みたいに膨らんだぁぁぁ!?」
ニーナが飛び上がり、ティオが叫んだ。
シェリルが口をあんぐりと開けて固まっている。
「く、空気の圧力で、皮下組織を内側から剥離したのですか……!? 刃物を使わずに、空気の力だけで……!?」
「刃物を使えば、どんなに腕が良くても肉の表面に傷がつくし、毛皮の裏にも傷が入る。だが空気なら、一番弱い結合組織だけを綺麗に引き剥がしてくれる。力も要らんし、傷もつかん」
バルツは吹き管を抜くと、尾の切れ目から指先を滑り込ませた。
すでに内側で完全に浮き上がっている皮。
バルツが両手で皮の端を掴み、頭部へ向かってツルリと裏返すように手繰り寄せた。
シュルルルルッ……!
まるで脱ぎ捨てられるストッキングのように、針だらけの皮が、頭から足先まで一瞬で裏返りながら外れ落ちた。
パサリ。
巨石の上に残されたのは――
傷一つない、息を呑むほどに美しい「桜色の肉塊」だった。
筋肉の繊維は一本も断ち切られておらず、澄んだ朝露のような透明な肉汁が、朝日に照らされてキラキラと輝いている。
そして外れた毛皮の裏側は、余分な脂肪の付着も変色も一切ない、まるで純白のビロードのような極上の革肌を晒していた。
危険だった針毛は、すべて内側に包み込まれる形になっており、素手で触れてもチクリともしない。
「……す、すごいニャ……」
ニーナが震える手で、桜色の肉の表面にそっと触れた。
ひんやりとしていて、吸い付くような弾力。
獣特有の生臭さは微塵もなく、清涼な野山の若草の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「トゲトゲの兎さんが……こんなに綺麗な、ピンク色のお肉になったニャ……! ギルドで見てたボロボロのお肉と、全然違うニャ……!」
「泥を落とし、血を回さず、空気で剥いてやったからな。肉の細胞が生きてる証拠だ」
バルツは感嘆する三人を制し、道具差しから極細の【除腺・細工刀】を抜いた。
「だが、ここからが本当の勝負だ。皮を剥いだら、次は三十秒以内に『内臓』を抜く。獲物が死んだ瞬間から、胃袋や腸の中の消化液と細菌が暴れ始めるからな」
「内臓……! 臭くならないんですか?」
ティオが唾を呑み込む。
初心者が解体で最も失敗するのが、この内臓抜き(エヴィセレーション)だ。
力任せに腹を裂いて胃袋や腸を破り、内容物の悪臭が肉全体に染み付いて、すべてが台無しになる。
だが、バルツの手さばきは、熟練の外科医のように静かで繊細だった。
刃先を上向き(逆刃)にし、人差し指と中指で腹壁を軽く持ち上げながら、皮一枚だけをスッと縦に割いていく。指が刃先をガードしているため、内臓を傷つける心配はゼロだった。
パカッと開いた腹腔。
そこに現れたのは、淡いピンク色の腸と、暗赤色の肝臓、そして翡翠色に輝く小さな球体だった。
「見ろ、この小さな緑色の袋。これが『苦玉(胆嚢)』だ」
「わっ……すっごく綺麗な色ニャ!」
「綺麗だが、こいつを針先一つでも突いて破いたら、その瞬間に肉全体が吐くほど苦くなって犬も食わなくなる。絶対に刃先を触れさせちゃいかん」
バルツは刃を使わず、親指と人差し指の爪先で、胆嚢の付け根にある細い管(胆管)を優しく挟み込んだ。
そして、キュッと捻るようにして、管だけを千切って摘出する。
次に、喉元の食道に麻紐を巻きつけて固結びにした。胃の内容物が逆流しないための「栓」だ。
そして骨盤の隙間に指を差し込み、直腸の周りを丸くくり抜いて、肛門側から内臓全体をツルンと一塊にして引き抜いた。
残された腹腔内には、一滴の消化液も、一滴の汚れた血も残っていなかった。
清流の冷水で腹の内側をサッと洗い流すと、まるで陶器のように清浄な肉の空洞が完成した。
「……信じられません」
シェリルが胸を押さえ、感極まったように呟いた。
「血の臭いも、内臓の悪臭も全くしません……。これは、ただの解体ではありません。解剖学と生命倫理の結晶です……! 生き物の命を奪った責任を、これほどまでに清らかに果たす技術が、この世界にあったなんて……」
「大袈裟だな。美味しく食うための下準備だよ」
バルツは立ち上がり、腰をとんとんと叩いた。
「さあて、皮剥ぎと内臓抜きは終わった。肉を清流の冷水で冷やして身を引き締めている間に、野営地を整えるぞ。ティオ、薪を集めろ。太い広葉樹の枝だ。シェリル、対岸の野イチゴを摘んでこい。ニーナ、風上の虫除け草だ」
「「「はいッ、おっちゃん(先生)!!」」」
三人は弾けるような返事をして駆け出した。
恐怖のモンスターが、プロの知恵と技術によって「極上の食材」へと変わる奇跡。
その確かな手応えが、若者たちの瞳を、これ以上ないほど明るく輝かせていた。




