第008話:跳ね跳び棘兎の急襲と、大剣の正しい重み
ピシリ、と朝露をまとった小枝が爆ぜるような乾いた音が、静まり返った原生林に響いた。
ティオの全身の産毛が逆立つ。
100メートル先の低木林――霧がわずかに晴れた空間の奥から、ガサリとシダの群生が左右に割れた。
現れたのは、一見すると愛らしい毛玉のような生き物だった。
だが、その全身を覆っているのは、柔らかい冬毛などではない。黒光りする無数の「鋼の針毛」。
背中から首回りにかけて、まるでハリネズミのようにビッシリと生え揃ったそれは、一本一本が鋼鉄のダーツのように鋭利に研ぎ澄まされている。
さらに額の中央には、捻じれた一本の漆黒の角。
魔境浅瀬の初心者キラー、《跳ね棘兎》――危険度Dランク指定の俊足モンスターだった。
「グゥルルル……ッ!」
小さな口の端から、肉食獣のような鋭い牙を覗かせ、血走った赤い瞳がティオを捉えた。
跳ね棘兎の真の脅威は、その針毛ではない。
異常に発達した後脚のバネがもたらす、時速を超える「超高速の跳躍突進」だ。
額の角を突き出し、全身の針毛を逆立てて砲弾のように突っ込んでくるその一撃は、新米冒険者の木製の盾を一撃で粉砕し、内臓を串刺しにする。
「き、来た……っ!」
ティオは背中から大剣を引き抜いた。
ジャキンッ!と重厚な鉄の音が響く。
身の丈ほどもある幅広の剛剣。ティオは両足を踏ん張り、腕の筋肉をパンパンに張らせて、大剣を胸の前に構えた。
――以前の癖だった。
エリートパーティー「金色の暁」にいた頃、リーダーのエドガーから叩き込まれた戦い方。
『前衛は力だ! 筋肉で剣をねじ伏せ、敵の突進を正面から力任せに薙ぎ払え!』
その言葉の通り、ティオは肩に力を込め、歯を食いしばって全身を硬直させていた。
だがその瞬間――
ズキリ。
昨日痛めた腰の奥が、微かに警告の熱を発した。
「力むな、ティオ!」
背後から、低く鋭いバルツの声が飛んできた。
いつもの呑気な声ではない。三十年の魔境の修羅場を潜り抜けてきた、本物の狩人の声音だった。
「肩の息を吐き出せ! 腕で剣を持ち上げるな! 大剣ってのはな、自分の力で振るうもんじゃない。刃の重さと、地球の引力に『仕事をさせる』道具だ!」
「重さに……仕事をさせる……!?」
「そうだ! 剣先を下げろ! 脱力して、切先を地面から30センチの位置に漂わせとけ! 視線は兎の角じゃない、相手の膝のバネを見ろ!」
バルツの指示が、ティオの脳内を雷のように駆け巡る。
敵が突っ込んでくる。あと50メートル、40メートル、30メートル!
常識で考えれば、迎撃するために今すぐ大きく振りかぶらなければ間に合わない。
だがティオは、昨日の豚骨シチューの温もりを、そしてバルツが言った「骨の隙間に刃を滑らせる」という言葉を信じた。
ふうううっ……。
深く、長く息を吐き出す。
ガチガチに固まっていた両肩の力を抜き、肘を緩め、大剣の切先をスッと下段へと落とした。
重厚な鉄の切先が、湿った腐葉土の上、わずか30センチの高さでフワリと静止する。
重心が、足の裏全体へとストンと落ちた。
腰の痛みが完全に消え去り、視界が恐ろしいほどクリアに開けていく。
「ピギィィィィィィッッッ!!!!」
跳ね棘兎が跳んだ。
後脚の太い筋肉が縮み、爆発的なバネとなって大地を蹴り上げる。
泥水と枯れ葉が扇状に吹き飛び、兎の身体が一直線の黒い弾丸となって宙を駆けた。
放物線の頂点。額の角をティオの喉元へ向け、時速の速度で落下してくる!
「ティオ君、危ないっ!」
背後でシェリルが悲鳴を上げ、杖を握りしめる。
学院の教科書には『跳ね棘兎の突進は時速に達し、新米前衛の盾を一撃で粉砕する。即座に風の障壁を展開して進路を逸らすべし』と書かれていた。
だが、バルツが手を出してシェリルを制した。
「見るんだ、シェリル。あいつの足元と、大剣の角度を」
ティオは動かなかった。
大剣を力任せに振り回そうともしなかった。
ただ、兎が落ちてくる落下地点――風と重力が描き出す「放物線の交差点」へと、すり足で右足を半歩だけ進めた。
そして、下段に構えていた大剣の切先を、手首のスナップだけで、ほんの数センチだけ斜め上へと傾けた。
――ただ、置いただけだった。
時速の質量と、身の丈の大剣の自重。
ベクトルが交差した瞬間。
ズシッ…………。
激突音などしなかった。
跳ね棘兎の突進の勢いそのものが、下から斜めに差し出された大剣の切先に、自らの喉元から吸い込まれるように激突したのだ。
刃先が喉の毛皮を滑り、下顎の軟骨の隙間をスッと通り抜け、延髄を一瞬で両断する。
兎の突進エネルギーは、ティオの腕に衝突するのではなく、大剣の厚みと傾斜によって受け流され、切先の上で完全に減速・静止した。
衝撃は、ティオの手首から肘、肩甲骨、そして背骨のS字カーブを通り、両足の母指球から大地へと完全に逃がされていた。
身体を剛体として固めるのではなく、関節をクッションにして重力を受け流す。バルツの解剖学が教える「人体の構造美」が、ティオの若い肉体に完璧に発現していた。
「……え?」
ティオが瞬きをした。
大剣の切先の上に、ぐったりと脱力した跳ね棘兎が、ちょこんと乗っかっていた。
一滴の血もティオの服には飛んでいない。
腰には、痛みの欠片すら走っていなかった。
「う……嘘だろ……?」
ティオは自分の両手を見つめた。
力を込めていない。腕の筋肉はプルプルと震えてすらいない。
ただ、剣の重さを相手の進路に「置いておいた」だけで、あれほど恐怖していた俊足モンスターが、骨の一本も折らずに即死していたのだ。
「にゃっほーーーーーっ! ティオ、一撃ニャ! すごいニャ!!」
ニーナが草むらから飛び出し、ぴょんぴょんと跳ね回った。
シェリルも信じられないものを見る目で口元を押さえている。
「あ、あり得ません……! あんな高速突進を、腕力も魔法も使わずに受け止めて絶命させるなんて……! 跳ね棘兎の後脚の太い腱と、大剣の物理傾斜を完璧に計算しなければ不可能です……! これが……これが『基礎』なのですか……!?」
「よくやったな、ティオ」
バルツがのっしのっしと歩み寄り、大剣の切先から兎の耳をひょいと掴んで持ち上げた。
首の後ろの急所だけが綺麗に切断され、胴体の肉にも毛皮にも、無駄な損傷は一切ない。
内臓が破裂していないため、腹腔内で肉が汚れることもなく、完璧な鮮度が保たれていた。
「おっちゃん……俺……俺、本当に力なんて全然入れてないんだ……! 剣を置いただけなのに……なんであいつ、勝手に倒れたんだ……!?」
「それが『大剣の理』だ。あんなデカい鉄の塊、人間の腕力で振り回すもんじゃない。相手のスピードと自重を利用して、刃筋を合わせてやりゃ、獲物自身が自分の力で切れてくれるのさ」
バルツは獲物の後脚の筋肉を指先で軽く押してみせた。
「見てみな。跳ね棘兎の後脚の腱は、太いバネのように張ってるだろ? こいつらは跳躍の瞬間、全身の筋肉を限界まで緊張させてるんだ。緊張してる筋肉に刃を当ててやりゃ、風船に針を刺すのと同じで、相手の自重でスッパリ切れる。力と力をぶつけ合うのは三流のやることだ。一流は、相手の力をそのまま刃筋に変えるんだよ」
バルツは懐から手ぬぐいを取り出し、ティオの大剣についた僅かな脂をサッと拭き取ってやった。
「お前には、良い目と度胸がある。相手が突っ込んでくる恐怖に打ち勝って、最後まで刃先をブレさせなかった。……立派な前衛の仕事だぞ」
「おっちゃん……!」
ティオの胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
『金色の暁』では、どれだけ体を張っても「盾の癖に遅い」「使えない」と罵倒されるだけだった。
自分の戦い方を、自分の存在を、こんなふうに真正面から褒められたのは、生まれて初めてだった。
折れかけていた少年の誇りが、バルツの温かい手によって、しっかりと真っ直ぐに継ぎ直されていく。
「さあて! 極上の獲物が手に入ったな。血が回らないうちに、川辺へ運んで解体するぞ」
「はいッ!」
「お肉! お肉ニャ! お腹ぺこぺこニャ!」
「先生、野イチゴの自生地は川のすぐ対岸です! ソースの準備、任せてください!」
朝日が原生林の木々を黄金色に染め上げていく。
四人は獲物を囲み、満面の笑みで川辺の野営地へと歩き出した。
いよいよ、魔境の極上キャンプ飯――絶品の『跳ね棘兎の骨付きロースト』の調理が始まろうとしていた。




