第007話:いざ魔境へ! 落ちこぼれたちのるんるんピクニック
東の地平線が、ようやく薄墨色のグラデーションから淡い茜色へと染まり始める頃。
要塞都市「竜哭の砦」の北門――魔境「神代の原生林」へと続く唯一の出撃口には、冷え切った朝靄の中、重厚な鉄の匂いと張り詰めた殺気が充満していた。
門をくぐるのは、いずれも選りすぐりのベテラン冒険者たち。
全身を重厚な板金鎧で覆った前衛、魔導書を胸に抱き真剣な面持ちで精神統一をする魔導師、毒矢の油を丹念に確かめる弓手。
誰もが一言も発することなく、これから足を踏み入れる「死の領域」を見据えていた。
魔境とは、そういう場所だ。
一歩足を踏み入れれば、そこは人類の法も神の加護も届かない弱肉強食の深淵。油断した者は、初日の浅瀬ですら骨の一片も残さずモンスターの胃袋へと消える。
――そんな極度の緊張感が支配する北門の検問所に、場違い極まりない楽しげな足音が響いてきた。
「おっちゃん、見て見て! 門の脇に生えてるこの草、すっごくスーッとするハーブの匂いがするよ!」
「おう、野生のアップルミントだな。肉の臭み消しにも使えるし、食後に湯を注げば胃がスッキリするぞ。根っこごと引っこ抜くなよ、葉っぱだけ摘んどけ」
「はーい! シェリル、ポシェット貸して!」
「もう、ティオったら慌てないでください。葉の裏に朝露が残っているうちに摘むと、香りが長持ちするんですよ。……あ、先生! あそこの石垣の隙間に、野生のマスタードシードらしき黄色い花が咲いています!」
「おお、目ざといなシェリル。あとで肉を焼くときに、種をすり潰して塩と練り合わせりゃ、極上の粒マスタードになるぞ」
「ふんす! あたし、一番大きなお鍋を背負ってるニャ! カチャカチャ鳴らないように、中に乾いたタオルを詰めてきたニャ!」
検問所の衛兵たちが、ぽかんと口を開けて固まった。
ベテラン冒険者たちが、信じられないものを見る目で一斉に振り返る。
そこにいたのは、組の奇妙なパーティーだった。
先頭を歩くのは、無精髭に使い古した革エプロンをつけた中年男、バルツ。背嚢には七本の解体小刀と砥石、そして年季の入った黒皮の道具袋が揺れている。
その隣を歩くティオは、身の丈ほどの大剣を背負っているものの、その腰回りにはなぜか鋳鉄製の重厚なフライパンと、まな板が括り付けられていた。
エルフのシェリルは、高価な魔導ローブのポケットから野生のハーブを器用に摘み取って仕分けており、その手には杖ではなく木べらと計量スプーンが握られている。
そして最後尾のニーナは、自分の身体よりも大きな寸胴鍋を背負い、フェネックの尻尾をご機嫌に左右に振りながら、鼻歌交じりにスキップしていた。
「……お、おい。あいつら……何しに行くんだ?」
「武器より調理器具の方が多いぞ……」
「あれ、昨日ギルド長室に呼び出されてたFランクの落ちこぼれたちだろ! 追放されたんじゃなかったのか!?」
「引率があの腰痛ジジイのバルツだぞ。魔境の浅瀬にピクニックでも行く気か? 正気の沙汰じゃねえ!」
周囲から容赦なく浴びせられる嘲笑と侮蔑の視線。
しかし、四人の耳には、そんな雑音は一切届いていなかった。
彼らの頭の中を占めていたのは、ただ一つ。
『今日の昼メシ、何を食べようか』という、純粋で絶対的な幸福感だけだった。
「身分証を」
検問所の門番が、呆れ果てた表情で手を差し出した。
バルツがドノバン直筆の「特別基礎演習許可証」を差し出すと、門番はこれ見よがしにため息を吐いた。
「許可は出てるようだが……バルツさん、本気か? あんた昔は凄かったって噂だが、今は腰の曲がった解体屋だろ。それにその子供たち……腰を痛めた重戦士に、ガス欠エルフに、ドジ獣人だぞ。浅瀬の跳ね棘兎の一撃で全滅するのが目に見えてる」
「忠告どうも。だがよ、門番さん」
バルツは懐から干し肉の小袋を取り出し、門番の掌にひょいと乗せた。
燻煙草の香ばしい匂いが立ち上る。
「腹が減ってピリピリしてる奴より、旨いメシを食うために目を輝かせてる奴の方が、土壇場でしぶといもんさ。……ほら、開けてくれ。日が昇りきっちまう」
「……チッ。死んでも文句言うなよ」
ガタガタガタ……と、巨大な鉄格子の落とし戸が巻き上げられた。
重厚な門の向こう側に広がるのは、鬱蒼とした原生林。
太古の巨木が天を覆い、青白い朝霧が絨毯のように地表を這う、魔境「神代の原生林」の第1層――泥濘の浅瀬地帯だった。
冷涼な朝の空気が、門の隙間から吹き抜けてくる。
湿った腐葉土の匂い、甘い樹液の匂い、そして遠くの茂みの奥から漂ってくる、未だ見ぬ野生モンスターたちの獣臭。
「行くぞ、お前ら。足元に気をつけろ。泥に足を取られたら、無理に踏ん張らずに膝を抜け」
「「「はいッ、おっちゃん(先生)!!」」」
四人は並んで、要塞の門をくぐり抜けた。
石畳の硬い感触が消え、足裏に伝わってくるのは、フカフカとした柔らかい腐葉土の弾力。
木々の隙間から差し込む朝日が、霧を黄金色のカーテンのように照らし出していた。
樹齢数百年を超える巨大な黒椈や水楢の幹には、蛍光色の青い苔がビッシリと張り付き、朝露を吸って微かな燐光を放っている。
「うわあぁぁぁ……! すっごい……! 木が、王都の建物よりずっと大きいです……!」
シェリルが感嘆の声を漏らし、銀髪を朝風になびかせた。
エルフの故郷である人工的に手入れされた森林とも違う、圧倒的な生命力と原始の息吹。
空気を吸い込むだけで、肺の奥が清涼な魔力で洗われるような感覚があった。
彼女の繊細な魔力感覚が、大地の底を流れる太い地脈の脈動を捉えていた。魔境とは、大地そのものが生きている巨大な生命体なのだ。
「シェリル、足元のシダの葉を見るな。目線は常に木々の幹の3メートル上だ」
「えっ、幹の3メートル上……ですか?」
「モンスターの体格と、飛びかかってくる角度を測るんだ。木肌の皮が剥がれて樹脂が出てるだろ? あれは昨夜、角のある獣が背中を擦り付けた跡だ。まだヤニが乾いてねえ。……つまり、この近辺が餌場になってるってことだ」
「な、なるほど……! 痕跡から時間を逆算するのですね!」
シェリルはトランクから取り出した手帳に、猛烈な勢いで羽ペンを走らせる。
教科書には載っていない、生きている森の読み解き方。
一方、身の丈の大剣を背負ったティオは、荷物の重さに耐えながら、一歩一歩の足取りを噛み締めていた。
「ティオ、腰の調子はどうだ?」
「ぜーんぜん平気! 大鍋も鉄板もずっしり重いけど、おっちゃんに言われた通り、肩甲骨を寄せて骨盤の真上に荷物の重心を乗せるようにしたら、腰に余計な負荷が全然かからないよ! まるで荷物が身体の一部になったみたいだ!」
「そうだ。荷物も大剣も同じことさ。腕の筋力で抱え込もうとするから腰が死ぬ。地球の引力と、自分の骨の並びを利用すれば、重さは味方になるんだ」
バルツは歩みを止めず、枯れ枝を踏み折らないよう、足の外側の縁を使って静かに進む。
三十年の実戦で培われた、音を立てない「忍び歩き(ストーキング)」の基礎だ。ティオたちも無意識のうちにその足取りを真似て、落ち葉の上を滑るように進んでいた。
「ニーナ、風下はどうだ?」
「くんくん……!」
ニーナが立ち止まり、フェネックの大きな耳をパタパタと前後に動かした。
小鳥たちのさえずりが、ある一角だけピタリと止んでいる。
湿った黒い鼻先をスンスンと鳴らし、朝露の湿気の中に混じる微細な粒子を嗅ぎ分ける。
「西の方角……100メートル先の低木林から、ツンとした刺激臭と、野生の草の実の匂いがするニャ! ……あそこ、跳ね棘兎の縄張りニャ!」
「よく分かったな。風下に回って正解だ。朝露が乾く前の兎は、針毛が湿って空気抵抗が増えるから、動きが鈍る。……ティオ、お前の出番だ」
「俺の……!?」
ティオが息を呑み、背中の大剣の柄に手を伸ばした。
昨日は腰を砕かれ、路地裏に打ち捨てられた自分が、今、魔境の最前線で獲物と対峙しようとしている。
緊張で喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。
だが、その胸の中にあるのは、昨日のような恐怖ではなかった。
仲間たちが背後にいて、頼れる老狩人が隣に立っている。
そして何より、腹の底には、昨日の豚骨シチューがもたらした熱い活力が、今なお滾々と湧き上がっていた。
「慌てるなよ。敵を力でねじ伏せようとするな。『お前の大剣を、兎が走りたい道の上に置いてやる』……それだけでいい」
「置いてやる……」
バルツの穏やかな声が、ティオの背中をトンと押した。
霧の向こう、ガサガサと茂みが揺れ動く。
朝日に照らされたシダの葉を押し分け、赤い瞳を爛々と光らせた野生のモンスターが、その獰猛な姿を現そうとしていた。
魔境落ちこぼれカルテットの、記念すべき最初の狩りが、幕を開ける。




