第006話:愛刀《黒喰》の油拭きと、7本の解体ナイフ
夜の帳が降りた「竜哭の砦」。
北の山脈から吹き下ろす夜風が、石造りの街並みを冷ややかに撫で、窓の隙間から細い笛のような音を鳴らしていた。
ギルド本部の裏手、木造平屋の小さな作業小屋。
厚手のフェルトカーテンで外界の冷気を遮断した室内には、鯨油ランプの橙色の灯火が揺らぎ、乾燥させた月桂樹の葉と、上質な鉱物油の匂いが満ちていた。
パチッ、と小さな鉄ストーブの中で薪が爆ぜる。
頑丈な作業机に向かい、使い古された厚革のエプロンをつけたバルツは、布切れに油を染ませ、静かに刃先を拭っていた。
「……よっと。刃先の返り(バリ)は取れたな」
卓上には、厚手の鹿革を敷いた巻き型の道具袋が広げられている。
そこには、用途ごとに異なる七本の解体小刀が、刃の向きを揃えて美しく並んでいた。
一本目は、刃先が円弧を描くように丸みを帯びた【皮剥ぎ刀】。獲物の筋肉を傷つけず、皮の内側の薄い結合組織だけを掬い取るための、極上の蛤刃。
二本目は、刃の背が厚く、刃先が鋭角に反り返った【骨割り刀】。硬い関節の隙間にクサビのように打ち込み、骨と骨を繋ぐ強靭な靭帯を軽い力で断ち切るための剛刀。
三本目は、外科手術に使うメスのように細く、針のように尖った【除腺・細工刀】。臭みの元となる泥腺や、破れやすい胆嚢、致死性の猛毒を蓄えた毒袋を、周囲の肉に触れさせることなくミリ単位で摘出するための精密刀。
その他にも、魚の鱗を弾かずにこそぎ落とす鋸刃刀、腱を引っ掛けて引き抜く鈎爪状の筋引き刀、そして獲物の延髄を一撃で突いて苦痛なく仮死状態にさせる三稜麻痺針。
いずれも二十年以上の酷使に耐え、研ぎ減って元の刀身の半分ほどの細さになっていたが、その切先はランプの灯火を浴びて、恐ろしいほどの青白い光を宿していた。
「道具を見りゃ、その職人の腕と心が分かる……か。親父の言ってた通りだな」
バルツは懐かしむように呟き、油を塗った小刀を一本ずつ鹿革のポケットへと差し込んでいく。
そして――最後に残った一本に、視線を落とした。
道具袋の中央、特別な黒革のホルダーに収められた、無骨な短刀。
鞘から音もなく引き抜かれたその刀身は、一切の光を反射しない、吸い込まれるような完全な「漆黒」を帯びていた。
刃渡りはおよそ20センチ。
鋼ではない。鉄でもない。硬質な黒曜石のようでありながら、木肌のような微細な年輪模様が、黒い闇の奥に幾重にも浮き彫りになっている。
愛刀《黒喰》。
20年前、魔境の最深部――人類未踏の聖域「世界樹の心臓」から、バルツが生きて持ち帰った唯一の遺物だった。
「……お前も、久しぶりの魔境だな」
バルツは指先で黒い刃の峰をそっとなぞった。
冷たくない。
通常の金属刀であれば氷のように冷たいはずの夜気の中でも、この刀身はまるで生き物の体温のように、ほんのりと温かい微熱を帯びていた。
研ぎ石を当てる必要すらない。
20年間、一度も研いでいないにもかかわらず、その刃先は今なお、触れただけで大気の分子すら両断しそうな極限の切れ味を保ち続けていた。
どれほど強靭なドラゴンの鱗であろうと、魔法で強化された要塞亀の甲羅であろうと、この《黒喰》の刃筋を通せば、まるで温めたナイフでバターを切るように、無音で吸い込まれていく。
だが、この刀の真の力は、その破壊力ではない。
『命を傷つけず、調和の理をもって解きほぐす』こと。
苦痛を与えず、細胞を破壊せず、生前の生命力をそのまま肉と素材に留める、神代の世界樹の枝から削り出された調和の神具。
――『バルツ、頼む……これを持って、生き残ってくれ』
――『この世界の命は、壊すためにあるんじゃない……大地へ還すためにあるんだ……』
脳裏をよぎる、吹雪の中で事切れた親友――先遣調査隊の隊長だった男の、最後の笑顔。
バルツはぎゅっと瞼を閉じ、深いため息と共に短刀を鞘へと納めた。
カチリ、と静かな音が、夜の小屋に響いた。
「……還す、か。偉そうなことを言っても、俺はただの解体屋だからな。目の前のガキどもに、腹一杯メシを食わせるのが関の山だよ」
バルツが道具袋をくるくると巻き、麻紐で縛り上げた、その時だった。
バァァァァァァンッ!!
勢いよく小屋の木戸が蹴破るように開け放たれた。
吹き込んできた冷たい夜風と共に、飛び込んできたのは――
「おっちゃん! 大変だ! 明日の朝メシのこと、何も決めてないことに気づいたんだよ!!」
身の丈ほどの大剣を背負ったティオだった。
息を乱し、茶髪を汗で張り付かせながら、目を爛々と輝かせている。
その背後から、フェネックの耳をピコピコと動かしたニーナが駆け込んできた。
「バルツおじちゃん! あたし、荷造り終わったニャ! 予備の調味料袋と、お塩の壺、一番大きなリュックに詰めたニャ! 明日はお肉、何キロ食べるニャ!?」
「ちょっと、二人とも落ち着きなさい! 夜分遅くに押しかけて、先生のご迷惑でしょう!」
最後に飛び込んできたのは、銀髪を夜風に揺らしたシェリルだった。
常識人ぶって二人を叱りつけているが、その両手にはなぜか、王立魔導学院の特注トランクいっぱいに詰め込まれた「野営用の食器セット」と「火起し用の乾燥ハーブ」が抱えられていた。
しかも、そのエルフの美しい瞳は、すでに獲物を狙う鷹のようにギラギラと輝いている。
「せ、先生! 私、調べました! 魔境浅瀬の湿地帯には、早朝にしか採れない極上の『朝露野イチゴ』が自生しているそうです! 明日の朝食のパンに合わせるジャムとして、採取ルートを完璧に計算してまいりました!」
「……お前らなあ」
バルツは頭を抱えた。
時計の針は、すでに夜の十時を回っている。
明日から、死線と隣り合わせの魔境へ足を踏み入れるというのに、この三人の頭の中には「恐怖」や「緊張」の二文字がミリグラム単位ですら存在していなかった。
完全に、前夜祭で浮かれる遠足前の子供そのものだった。
「ティオ、腰の痛みはどうした。安静にしてろって言ったろ」
「あ、それがさ! あの豚骨スープを飲んでから、嘘みたいに腰が軽いんだよ! スクワット百回やっても、全然痛まないんだ!」
「バカ野郎、調子に乗るな。骨の奥の傷はまだ塞がってねえ。大剣を振り回したら、また元の木阿弥だぞ」
「へへっ、分かってるよ! だから明日は、おっちゃんの荷物持ちに専念する! 大鍋でも鉄板でも、俺が全部担ぐからさ!」
「あたしも手伝うニャ! 鼻を利かせて、一番柔らかいお肉の魔物を最初に見つけるニャ!」
「私も、弱火の維持なら自信があります! いつでも極上のスープを煮出せるよう、魔力の出力を微調整する訓練をしておきました!」
三人がバルツの作業台の前に並び、キラキラとした瞳でバルツを見上げる。
その瞳には、かつてギルドの路地裏で浮かべていた絶望や涙の痕跡など、微塵も残っていなかった。
美味しいものを食べ、明日への希望を見出した若者たちの生命力。
それは、どんな強力な治癒魔法よりも眩しく、力強く輝いていた。
「……はあ。ったく、騒がしい連中だ」
バルツはため息をつきながらも、作業台の引き出しから、油紙に包まれた一口サイズの茶色い塊を三つ取り出した。
干し肉と乾燥果実を蜂蜜で固めた、手作りの携帯保存食だ。
「ほら、これを口に放り込んで、さっさと自分の部屋に戻って寝ろ」
「わっ、なにこれおっちゃん!? すっごくいい匂い!」
「魔境の携帯食だ。噛めば噛むほど味が出る。……明日の朝は、日が昇る前に出発するぞ。遅刻した奴の分の朝メシは、ニーナに全部食わせるからな」
「「「絶対に遅刻しません!!!」」」
三人はペミカンを受け取ると、大事そうにポケットにしまい、満面の笑みで部屋を飛び出していった。
嵐のような騒がしさが去り、再び静まり返る小屋の中。
バルツはストーブの火を見つめながら、ぽりぽりと無精髭を掻いた。
「……朝露野イチゴのジャム、か。悪くねえな。跳ね棘兎のローストに添えたら、いい酸味になりそうだ」
独りごちた老狩人の唇に、ふっと確かな笑みがこぼれた。
腰の後ろの古傷を一度だけ軽く叩き、ランプの灯火を吹き消す。
明日は、晴れる。
魔境の冷たい風をものともしない、熱々の冒険が、すぐそこまで迫っていた。




