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第010話:風向きを読む野営地と、虫除けシトロネラ草

翡翠川のせせらぎが、午前の陽光を浴びてキラキラと眩い光の帯を作っていた。

 川辺の砂利場。ティオが両腕いっぱいに抱えてきた枯れ枝をドサリと下ろし、汗を拭いながら川のすぐ傍の平坦な砂地を指差した。


「おっちゃん! ここなら水も汲みやすいし、地面も平らだし、絶好の野営ポイントだよね! ここにテント張って、焚き火を起こそうぜ!」

「バカ野郎。川辺のすぐ真横に寝床を作る奴があるか。一晩で全滅するぞ」


 バルツの容赦のないツッコミが飛んできた。

 ティオが「えっ!?」と目を丸くする。


「水場に近い方が便利じゃないのかよ!?」

「便利だが、それはモンスターにとっても同じだ。魔境の生き物にとって、川辺は一日一度必ず訪れる『共同の水飲み場』だ。そんな場所に無防備に寝転がってりゃ、夜中に水を飲みに来た大型モンスターに頭からバリバリ噛み砕かれるのがオチだ」


 バルツは川岸から一段高くなった崖の上――川面から5メートルほど標高が高く、視界の開けた小高い丘を指差した。


「野営の鉄則その一。『水場から最低でも50メートルは離れ、川を見下ろせる高台に陣取れ』。上流で鉄砲水が起きても流されんし、夜間に水を飲みに来る獲物の動きも一望できる」

「な、なるほど……! 水場の利便性より、防衛と安全が最優先なんですね」


 シェリルが手帳を取り出し、熱心にペンを走らせる。

 バルツはさらに、高台の周囲の地面を指差した。


「もう一つ、地面の『獣道(けものみち)』を必ず確認しろ。草が不自然に倒れていたり、土が固く踏み固められている筋があるだろ? あれは夜行性の大型魔物がパトロールする高速道路だ。獣道の上にテントを張ったら、深夜に寝袋ごと踏み潰されるぞ。獣道から最低でも20メートルは離れた、風通しのいい窪地を選ぶんだ」

「ひゃあ……! 地面を見るだけで、そんなことまで分かるのニャ……!」


 ニーナが目を丸くして地面を凝視する。

 そのシェリルの背後で、ニーナが「うにゃあ!」と短い悲鳴を上げて首元をパシッと叩いた。

 指先には、黒く小さな羽虫が潰れていた。


「バルツおじちゃん、虫が……虫がいっぱい寄ってくるニャ! 刺されるとチクチク痒いニャ!」


 湿地帯の原生林特有の害虫、毒ブヨや湿地蚊の群れだった。

 人間の汗の匂いと体温を感知し、無数の黒い影がジトジトとまとわりついてくる。

 普通の冒険者であれば、高価な虫除けポーションを体に塗りたくるか、煙に咽びながら耐えるしかない嫌な時間だ。


「ニーナ、騒ぐな。さっき摘んできた草の束を出してみな」

「これニャ?」


 ニーナが差し出したのは、細長いイネ科の葉の束。

 葉を軽く揉むだけで、レモンとユーカリを混ぜ合わせたような、極めて鮮烈で爽やかな香気が立ち上った。


「野生の『シトロネラ草』だ。この草に含まれる精油成分は、魔境の羽虫や毒ブヨが最も嫌う天然の結界になる」


 バルツは高台の野営地に立つと、落ち葉を一枚手のひらに乗せて宙へ放った。

 風は、川の上流から下流へ向かって、穏やかに吹き抜けている。


「野営の鉄則その二。『風向きを読み、風上に燻し場を作れ』」


 バルツは高台の風上側に、平らな石を三つ並べて小さな火床を作った。

 乾いた小枝で小さな種火を起こすと、その上に、水分をたっぷり含んだ生のシトロネラ草と、自生のヨモギの葉を覆いかぶせるように乗せた。

 モクモクモク……。

 ジュウという音と共に、白く濃密な煙が立ち上る。

 だが、その煙は目や喉に染みるような嫌な煙ではなかった。

 まるで高級なアロマを焚いたかのような、柑橘系の清涼感あふれる芳醇な香気が、風に乗って高台の野営地全体をすっぽりと包み込んでいく。


「うわあああ……! すっごくいい匂いです……!」


 シェリルが深呼吸をして目を輝かせた。

 その瞬間、あれほど執拗にまとわりついていた毒ブヨの群れが、蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ去っていった。

 高台の周囲3メートルに、目に見えない「防虫の結界」が張られたかのようだった。


「にゃっはー! 虫がいなくなったニャ! 耳の周りのブーンって音も、全然聞こえないニャ!」

「すごいな、おっちゃん! 魔法のポーションなんかより、ずっと効き目があるよ!」

「自然のものは、自然の知恵で防ぐのが一番安上がりで確実なんだよ。……さて、ティオ。シトロネラの煙が効いてるうちに、風下側に『調理用の本焚き火』を作るぞ」


 バルツの指示のもと、四人の連携が鮮やかに回り始めた。

 ティオが集めてきたナラやクヌギの硬い広葉樹の枝。火持ちが良く、煙が少ない上質な薪を、ティオは腰に負担をかけない美しいスクワットの姿勢で、手際よく井桁(いげた)状に組み上げていく。

 さらにティオは、バルツから借りた小刀を使い、青竹の枝から器用に肉刺し用の長串を削り出していた。

 腕力で木を削るのではなく、刃を木目に当ててスーッと滑らせる。昨日バルツに教わった脱力の極意が、こんなところにも活かされていた。


「シェリル、火種を頼む」

「はいッ、先生!」


 シェリルが進み出て、人差し指の先端を薪の中心に向けた。

 昨日のような、大砲をぶっ放すような力みは一切ない。

 呼吸を整え、体内の魔力回路を細く、穏やかに絞り込む。

 プシュッ。

 指先から放たれたのは、豆粒ほどの極小の火炎弾。

 それが杉の枯れ葉に触れた瞬間、パチパチと心地よい音を立てて、確実に炎が燃え広がった。

 薪の隙間から吸い込まれた空気が火勢を強め、見る見るうちに、赤々と力強く燃え盛る調理用の熾火(おきび)が完成した。


「できた……! 魔力消費、わずか1パーセント未満です……!」

「上出来だ。火の粉も散ってねえし、煙も出てねえ。最高の熾火だな」


 バルツに褒められ、シェリルが誇らしげに胸を張る。

 そのシェリルの足元には、対岸の群生地から摘んできたばかりの「朝露野イチゴ」が、竹籠いっぱいに盛られていた。

 ルビーのように深紅に輝く野イチゴ。

 栽培種と違って小粒だが、その分、太陽の光と大地の魔力を凝縮した野性味あふれる酸味と、天然のペクチンが豊富に含まれている。加熱して潰せば、砂糖をほとんど使わずとも、極上のとろみを帯びた照り焼きソースになる奇跡の果実だ。


 高台の野営地には、風上からの爽やかなシトロネラの香りと、パチパチと爆ぜる広葉樹の温かい温もりが満ちていた。

 川を見下ろす絶好のロケーション。

 湿地の冷気も虫の恐怖も完全に遮断されたそこは、もはや過酷な魔境などではなく、まるで森の精霊に祝福された極上のリゾート空間そのものだった。


「さあて……野営地は整った」


 バルツが解体台の巨石から、清流で冷やして身を引き締めておいた《跳ね棘兎》の肉塊を両手で持ち上げた。

 桜色の瑞々しい赤身肉。

 骨盤から背骨、そして肋骨に沿って、分厚いロース肉がしっかりと骨に張り付いている。


「ティオ、削った串を持ってこい。シェリル、野イチゴを木鉢ですり潰せ。ニーナ、塩と蜂蜜の壺を開けろ」

「「「はいッッッ!!!!」」」


 三人の返事が、秋晴れの青空へと高く響き渡る。

 誰もが腹を空かせ、誰もが笑顔を輝かせていた。

 昨日までギルドの底辺で「無能」「落ちこぼれ」と蔑まれ、涙を流していた若者たちの姿は、そこにはもうなかった。

 自然の理を知り、生きるための技術を身につけた者だけが味わえる、誇り高き開拓者の輝き。

 バルツは目を細め、静かに炭火の熾火を見つめた。

 いよいよ、全員が待ち望んでいた「魔境ピクニック最初のフルコース」――『跳ね棘兎の骨付き背肉ロースト〜甘酸っぱい野イチゴ照り焼きソース〜』の調理が、始まろうとしていた。

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