第011話:【実食】跳ね棘兎の骨付き背肉ロースト〜甘酸っぱい野イチゴ照り焼きソース〜
炭火の熾火が、パチ……と小さな火の粉を散らした。
煙の立たない赤々とした熱源を囲むように、四本の青竹の長串が地面に突き刺されている。
串の先端に刺さっているのは、先ほど解体したばかりの《跳ね棘兎》の骨付き背肉。
長さ30センチ、幅10センチ、厚さは大人の拳ほどもある巨大な塊肉だ。
骨盤から背骨、そして肋骨に沿って、美しい桜色の赤身が分厚く張り付いている。
「じゅ、じゅるり……」
焚き火の周りに正座したニーナの口から、決壊寸前の音が漏れた。
フェネックの大きな耳がピーンと前方を向き、ふさふさの尻尾が左右に小刻みに震えている。
その隣で、ティオも両手を膝の上に置いて前のめりになり、シェリルに至っては、胸の前で両手を固く組んで、まるで神への祈りを捧げるかのように串焼きを見つめていた。
「おっちゃん……まだかな? もういい匂いがしてきてるよ……!」
「慌てるな。強火の遠火、肉の芯まで熱を通すには、じっくり三十回は串を回さなきゃならん」
バルツは作業台の脇で、木鉢を抱えていた。
鉢の中には、シェリルがすり潰した深紅の「朝露野イチゴ」のペースト。
そこに、ニーナが開けた壺から掬い取った天然の蜂蜜と、小刀の背で細かく砕いた岩塩、そして昨日仕込んでおいた青首突進猪の極上ラードが加えられている。
小さな鉄鍋に移し、熾火の端で軽く温めると――
ポコポコと小さな泡が立ち、野イチゴのペクチンとラードが乳化して、艶やかな照りを持つ深紅のソースが完成した。
甘酸っぱいベリーの爽快な香りと、蜂蜜の濃厚な甘み、そしてラードの動物性の芳醇なコクが混ざり合った、目眩がするほど魅力的な匂い。
「兎の肉ってのはな、脂身がほとんどない純粋な赤身だ。そのまま炭火で炙ると、水分が飛んでパサパサの木屑みたいになっちまう。だから、この特製ソースを刷毛で何度も重ね塗りして、表面に油膜と糖分の『鎧』を作ってやるんだ」
バルツは自生する笹の葉を束ねた手作りの刷毛を取り出すと、深紅のソースをたっぷりと浸した。
そして、熾火の上で表面が白く引き締まった骨付き肉へ、撫でるように塗りたくった。
ジュワアアアアアアッッッ!!!!
猛烈な音が爆発した。
ソースが肉の表面で弾け、滴り落ちた果汁と蜂蜜が炭火に触れた瞬間、立ち上る濃密な白い煙。
焦がし醤油にも似た、香ばしく甘辛いタレの匂い。
そこに野イチゴの華やかな酸味が重なり、野営地全体を暴力的なまでの香気が包み込んだ。
「ひゃああああああっっっっ!!!!」
シェリルが両手で頬を押さえて叫んだ。
「な、なんですかこの香りは……! 甘酸っぱいのに、もの凄く香ばしい……! 胃袋が……私の胃袋が、直接鷲掴みにされて揺さぶられています……!」
「うみゃああああ! おじちゃん、早く! 早く食べたいニャーーー!」
「ティオ、串を半回転させろ。皮目の方を炙るぞ。シェリル、ソースをもう一度塗れ」
「は、はいッ!」
三人は涎を垂らしながらも、バルツの指示通りに懸命に手を動かした。
焼いては塗り、返しては塗る。
五回、十回、十五回。
熱せられた野イチゴの果糖と蜂蜜が、肉の表面でキャラメリゼされ、まるで飴細工のように艶やかな深紅の皮膜を形成していく。
余分な脂は炭火に落ち、煙となって肉を燻し、骨の髄からはプツプツと透明な肉汁が滲み出ていた。
そして――三十分後。
「よし……火から上げろ。串の根元を持て」
バルツの合図が響いた。
ティオが慎重に、まるで聖剣を抜くかのように青竹の串を地面から引き抜く。
完成した『跳ね棘兎の骨付き背肉ロースト』。
キツネ色を通り越して、深紅と黄金色が混ざり合った完璧な焼き色。表面はパリッと香ばしくキャラメリゼされ、肉の奥からは、パンパンに閉じ込められた熱々の肉汁がジュクジュクと音を立てていた。
「……バルツおじちゃん、これ……本当に、かぶりついていいのニャ?」
「骨の周りの肉が一番旨いんだ。行儀悪く、両手で持ってガブリといけ」
「「「いただきまーーーーーーすっっっっ!!!!」」」
三人は同時に、骨付き肉にかぶりついた。
ガブリッ!
パリッ! ジュワッッッッ!!!!
その瞬間、世界から音が消えた。
「――っっっ!?!?!?!??!?!」
ティオの、シェリルの、ニーナの目が、同時に見開かれた。
最初に歯を突き抜けたのは、飴色に焼き固められた野イチゴと蜂蜜のタレの、サックサクの香ばしいクリスピー感。
そして、その薄氷のような皮膜が弾けた刹那――
ドバッッッッ!と、閉じ込められていた熱々の肉汁の奔流が、口いっぱいに津波のように押し寄せてきた。
パサつきなど、微塵もない。
驚くほど柔らかく、驚くほどジューシー。
清流の水で血を抜き、空気で優しく剥ぎ取った赤身肉は、まるで極上のフィレ肉のようにしっとりと舌の上でほどけていく。
野山を駆け巡っていた兎の、力強く純粋な赤身の旨味。
それを、朝露野イチゴの天然の酸味がキュッと引き締め、蜂蜜のコクが包み込み、岩塩のミネラルが極限まで増幅させている。
野性味と気品が完璧に調和した、神々の晩餐にしかあり得ない至高のロースト。
「んんんーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!!!」
ニーナが両耳を激しくバタつかせ、足をジタバタと踏み鳴らした。
言葉が出ない。
骨を両手でガッチリと握りしめ、顔中をタレだらけにしながら、骨の周りに張り付いた肉を一心不乱に食いちぎっていく。
モグモグ、ハフハフ、ゴクン!
肉を噛むたびに、ジュワッ、ジュワッと溢れ出る極上の旨味エキス。
「う……うまい……! うますぎるよ、おっちゃん……!!」
ティオが叫んだ。大粒の涙をボロボロとこぼしながら、骨に齧り付く。
肉と骨の隙間――最も旨味が凝縮された軟骨の部分に歯を立てると、コリッとした快音と共に、骨髄の濃厚な脂が染み出してくる。
それをタレと一緒に吸い尽くす。
喉を通るたびに、全身の細胞が歓喜の歌を歌い、失われていた気力と体力が、驚異的なスピードで満ち満ちていくのが分かった。
「はふ……はふぅぅぅ……っ! 甘酸っぱいソースが、赤身の旨味と完璧にマリアージュしています……!」
シェリルもまた、エルフの淑女としてのプライドを完全に投げ捨てていた。
口の周りを真っ赤な野イチゴのタレで染め上げながら、大きな骨を両手で持ち、夢中で肉をしゃぶり尽くす。
骨の隙間に残った最後の一片の肉すら許さないとばかりに、舌先で綺麗に舐め取り、骨の髄液までチュウチュウと吸い上げる。
プハァッ!と熱い息を吐き出すと、シェリルの全身から、淡い金色の魔力光がポワポワと立ち上っていた。
「体温が……上がります……! 魔力回路が、ポカポカと温かい春の陽気に包まれているようです……! 私……こんなに力がみなぎる感覚、生まれて初めてです……!」
「骨の周りの肉にはな、生き物の生命力の源泉が詰まってるんだ。血行を良くし、魔力の巡りを活性化させる最高の滋養強壮薬だぞ」
バルツは自分の分の骨付き肉をのんびりと味わいながら、竹筒の茶をすすった。
「綺麗に食ったな、三人とも」
見れば、ティオも、シェリルも、ニーナも、手にした骨をまるで新品のようにピカピカにしゃぶり尽くしていた。
肉の一欠片、筋の一本すら残っていない、完璧な完食。
命を奪った獲物への、これ以上ない最大の敬意と感謝の証だった。
「ぷはーーーーーっ! 生きててよかったニャーーー!」
ニーナが満腹になった丸いお腹を撫でながら、落ち葉の上にゴロンと大の字に寝転がった。
フェネックの耳が満足そうにペタンと倒れ、口元には幸せに満ちた笑みが浮かんでいる。
「俺、大剣の素振り、今なら千回……いや一万回くらい振れそうな気がするよ!」
「私もです! 魔力消費の多い上位障壁魔法でも、平気で展開できそうな全能感があります!」
「バカ言え。食った直後に激しく動いたら、胃が痙攣するぞ。1時間、風通しのいい木陰で昼寝だ」
「「「はーいッ!!!」」」
秋の木漏れ日が、清流のせせらぎを優しく照らしていた。
焚き火の煙はシトロネラの香りと混ざり合い、青空へと静かに溶けていく。
過酷な魔境の浅瀬で、満腹の腹を抱えて眠る落ちこぼれたち。
だが、彼らはまだ気づいていなかった。
この極上の食事によって、彼らの骨と筋肉と魔力回路が、かつてない高みへと急速に進化し始めているということに――。




