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第012話:火の番エルフの覚醒! 弱火を制する者は魔法を制す

穏やかな昼下がり。

 木漏れ日が揺れる翡翠川の高台には、満腹になったティオとニーナの規則正しい寝息が響いていた。

 ティオは大剣を抱き枕のようにして仰向けに大の字になり、ニーナは丸太の脇で体を丸め、尻尾をパタパタと寝言に合わせて動かしている。

 その穏やかな静寂の中――

 一人だけ、焚き火の跡の前に正座し、眉根を寄せて集中している少女がいた。

 銀髪のエルフ魔導師、シェリルだった。


「すぅ……はぁ……。一定、一定に……。細く、長く、途切れさせずに……」


 シェリルの右手の人差し指の先端。

 そこには、蝋燭の芯に乗った炎のような、親指大の小さな赤い火種が灯っていた。

 その炎の上には、三脚の鉄五徳にかけられた、川の冷水を満たした小さな小鍋。

 バルツに命じられた食後の特訓――「弱火でお湯を沸かすこと」だった。


「……ふう。お前さん、まだ肩に力が入ってるぞ」


 木陰に腰を下ろし、煙草を燻らせていたバルツが、のんびりと声をかけた。

 シェリルは額に汗を滲ませ、必死に指先を見つめたまま応じる。


「せ、先生……! これ、思っていた以上に過酷です……! 上級火炎魔法《紅蓮の嵐(インフェルノ・ゲイル)》を撃つ方が、100倍簡単です……!」

「そりゃそうだ。大砲をぶっ放すのは引き金を引くだけだが、蛇口から水を一滴ずつ一定の速さで落とし続けるには、指先の極限の集中が要るからな」

「ううっ……指先が、プルプル震えて……火が消えそうに……!」


 シェリルの指先の炎が、フッと小さく揺らぎ、消えかけた。

 慌てて魔力を込めると、今度はボワッ!と火勢が跳ね上がり、鍋の底を舐めてススだらけにしてしまう。


「王立魔導学院の教授たちは、揃いも揃って節穴だな。最大火力ばかりを評価して、出力の『絞り込み』を教えてねえ」


 バルツは煙草の灰を落とし、立ち上がると、シェリルの背後に回った。

 そして、シェリルの右腕の肘の関節に、指先をポンと当てた。


「いいか、シェリル。魔法ってのは、体内の魔力タンクからエネルギーを『押し出す』もんじゃない。大気の中を流れてる自然の魔力と、自分の呼吸を『同調させる』んだ」

「同調……ですか?」

「お前さんの魔力回路は、人1倍太くて頑丈だ。だから意識しないと、ダムが決壊したみたいに一気に魔力が流れ出ちまう。……目を閉じろ」


 シェリルはおそるおそる目を閉じた。

 視界が暗闇に包まれると、五感が研ぎ澄まされていく。

 背後に立つバルツの温かい気配。

 肘に触れている、厚いタコのある指先の確かな感触。

 そして、周囲を流れる翡翠川のせせらぎの音、梢を揺らす風の音、湿った大気の中を脈動する、目に見えない大地の微細な魔力の波。


「息を吸う時、周りの大気の魔力を肺の奥へ引き込め。息を吐く時、その魔力を指先から、糸を紡ぐように一本の線にして垂らせ。……押し出すな。川の水を柄杓でそっと掬うように、ただ流すんだ」


 バルツの低い声が、シェリルの意識の奥底へと染み渡っていく。

 シェリルは深く、息を吸い込んだ。

 大気中の清涼な魔力が、肺を通って全身の血管へと巡る。

 そして――ふうううっ……と、細く長く、息を吐き出した。

 体内の魔力プールから、極小の魔力の糸が指先へと紡ぎ出される。

 無理な圧力はどこにもない。

 大気から取り入れた力を、そのまま指先から大地へと還すような、完全な循環の感覚。


 ボッ……。


 指先の炎が、変貌した。

 先ほどまでの不安定な揺らめきが完全に消え去り、まるで宝石のように透き通った、純粋な青白い火炎が静かに灯ったのだ。

 煙も出ない。爆ぜる音もしない。

 ただ、鍋の底を均一に、完璧な一定温度で温め続ける、理想的な極小の弱火。

 鍋の水面から、細かな泡がプツプツと湧き上がり、やがてシューッと静かな湯気が立ち上り始めた。


「……あ」


 シェリルが目を開けた。

 驚くべきことに、いつもなら一発魔法を撃った直後に襲ってくるはずの「激しい目まい」や「脱力感」が、欠片も存在していなかった。

 それどころか、体内の魔力プールは減るどころか、呼吸を繰り返すたびに、むしろ清らかなエネルギーで満たされていくような感覚すらあった。


「お湯が……沸きました……。私……全然、疲れていません……!」

「合格だ。火を止めろ」


 バルツが言うと、シェリルは指先を軽く引いた。

 青白い炎が、名残惜しそうにスッと消え去る。

 沸騰した小鍋の湯。

 バルツはそこに、朝摘んできた野生のアップルミントの生葉を数枚浮かべた。

 フワリと立ち上る、清涼感あふれるリンゴとミントの甘い香り。

 木椀に注ぎ分け、シェリルの手へと手渡した。


「ほら、お前さんの火で沸かしたハーブティーだ。飲んでみな」


 シェリルは両手で木椀を包み込み、温かい湯気を吸い込んでから、一口すすった。

 スッと喉を通り抜ける、澄み渡るような清涼感。

 急激に強火で沸かした湯と違い、分子の細かい弱火でじっくり温められた湯は、驚くほどまろやかで、ハーブの繊細な香気成分を一滴も壊さずに引き出していた。


「……おいしい。すごく……身体に染み渡ります……」

「弱火を制する者は、すべての火を制する。これは料理だけじゃない、魔法も同じだ」


 バルツは自分の椀に茶を注ぎ、川面を見つめながら静かに語った。


「王都の連中がやってるのはな、魔力を筋肉の力みで押し出す『力技』だ。だから一発撃てば血管が焼き切れそうになり、胃袋のカロリーを使い果たして倒れる。だが自然界の魔力ってのは、本来、空気や水と同じように循環してるもんなんだよ。吸って吐く、ただそれだけの当たり前の呼吸の中に、魔力の流れを乗せてやる。これが『マナ・ブレス(調和呼吸)』だ」

「マナ・ブレス……」

「最大火力なんてものはな、いざって時に出せりゃいいんだ。日常を支えるのは、いつだって細く長い『弱火』だ。火力をミリ単位でコントロールできるようになれば、魔力の無駄遣いはゼロになる。……お前さんはもう、ガス欠で倒れることはねえよ」


 ――ガス欠で倒れることはない。

 その言葉を聞いた瞬間、シェリルの胸の奥に押し込められていた暗い記憶が、音を立てて崩れ去っていった。

 学院の冷たい大理石の講堂。

 『美しいだけで使い物にならん欠陥品だ』

 『魔力プールが底抜けのバケツのようなものだな』

 貴族の子息たちから浴びせられた冷笑。壊れた魔導具のように自分を退学処分にした主任教授の冷淡な目。

 「私は出来損ないなんだ」と、どれほど自分を責め、夜中に毛布を被って泣いたか分からない。

 だが、この辺境の無精髭の老狩人は、たった一杯のハーブティーを沸かす特訓で、その呪いをあっさりと解き放ってくれたのだ。

 自分は、欠陥品なんかじゃなかった。

 ただ、力の上手な使い方を、誰も教えてくれなかっただけなのだ。


「私……もっと学びたいです、先生! 火の魔法だけではありません! 食材を急速に冷やす氷結魔法も、風で煙を制御する風魔法も、すべて料理と解体のために極めてみせます!」

「おいおい、解体のために魔法を極める魔導師なんて、前代未聞だぞ」

「構いません! 王都のエリートたちが気取って撃つ大魔法より、先生の美味しいご飯を支える魔法の方が、何100倍も誇らしいです!」


 シェリルが満面の笑みを浮かべ、木椀を両手で掲げた。

 その瞳の奥には、学院時代の怯えや劣等感は微塵もなく、新たな知識と美味への探求心が、眩い光となって宿っていた。


 ――その時だった。


「……ん? うにゃ……?」


 木陰で眠っていたニーナが、ピクンとフェネックの耳を跳ね上げさせた。

 パチッと金色の目を見開き、川の下流の泥沼の方角へと鼻先を向ける。

 獣人特有の鋭敏な嗅覚が、風に乗って漂ってきた「ある異変」を瞬時に察知したのだ。


「バルツおじちゃん……! なんか……すっごく臭い匂いが、川の下から流れてくるニャ……! ヘドロと、腐った泥の匂いニャ……!」

「泥の匂い……?」


 ティオも目を覚まし、大剣を抱えたままむくりと起き上がった。

 バルツが湯呑みを置き、静かに立ち上がる。

 穏やかだった翡翠川の水面が、下流の沼地の方角から、ブクブクと不気味な泡を噴き上げ始めていた。

 水底に沈殿していた黒い泥が巻き上げられ、清流が一瞬にして濁ったヘドロ色へと染まっていく。

 泥濘の原生林の第二の獲物――厄介極まりない《泥潜り縞川魚(マッド・トラウト)》の群れが、そのぬめる巨体を現そうとしていた。

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