第013話:ニーナの鼻と、ヘドロに潜む黒い影
翡翠川の清らかなせせらぎが、下流の蛇行地点で淀み、重苦しい黒褐色へと色を変えていた。
原生林の奥深くから流れ込む腐葉土と、火山灰混じりの泥が堆積する「泥濘の淀み」。
ブクッ……ブクブクブクッ……。
水底から立ち上る無数の泡が水面で弾けるたび、鼻を突く強烈な硫黄臭と、ヘドロが腐敗したようなドブ川の悪臭が漂ってきた。
「う……うにゃあああ……! 鼻が、鼻が曲がりそうニャ……!」
ニーナが両手で鼻を覆い、涙目になって後ろへと飛び退いた。
常人の何倍もの嗅覚を持つ獣人にとって、この臭気はもはや物理攻撃に等しい。
ティオも口元を腕で覆い、眉をひそめて濁った水面を睨みつけた。
「うっ、くせえ……! さっきまでの爽やかなハーブの匂いが台無しだよ! おっちゃん、これ、絶対ヤバい毒沼なんじゃないのか!?」
「毒沼じゃねえよ。ただの泥の溜まり場だ。だが……この悪臭の元凶は、泥そのものじゃねえ」
バルツは平然とした顔で川岸の泥地にしゃがみ込むと、小刀の切先で水底の泥を突いた。
ズズズッ……。
泥の中に、丸太のように太い黒い影が潜んでいた。
体長およそ一・5メートル。
ナマズのように平たい巨大な頭部と、分厚いゴムのような灰色の皮膚。胴体には毒々しい黒と紫の縞模様が走り、口元からは四本の太い触鬚が泥を探るように蠢いている。
魔境浅瀬の厄介者、《泥潜り縞川魚》――危険度Dランクの巨大怪魚だった。
「ひゃあ……! 出た、マッド・トラウトだ!」
ティオが思わず後ずさりした。
ギルドの酒場でも、この魚の名前は悪名高かった。
『あいつを釣り上げたら、一週間は手の臭いが取れなくなる』
『肉は泥を噛んだみたいにザラザラして臭くて、豚ですら食わずに逃げ出すハズレ魔物だ』
冒険者たちが網にかかったマッド・トラウトを、唾を吐きかけて川へ投げ捨てる姿を、ティオは何度も目撃していた。
「私も、魔導学院の博物学講義で標本を見ました」
シェリルが手帳を胸に抱き、青ざめた顔で水面を見つめる。
「マッド・トラウトは泥の中の有機物や腐敗物を主食としているため、体内に強烈な泥臭気成分である『ゲオスミン』と『メチルイソボルネオール』を常人の致死量レベルで濃縮蓄積しています。煮ても焼いても泥の臭いが肉の繊維にこびりつき、食用には適さないと結論づけられていますが……まさか先生、これを食べるおつもりですか……!?」
「当たり前だ。食うために捕まえるんだよ」
バルツのあっけらかんとした返事に、シェリルとティオが絶句した。
ニーナに至っては、「お、おじちゃん……あたし、あのドブ臭いお魚だけは無理ニャ……!」と耳をペタンと伏せて首を激しく横に振っている。
「ははは、無理もない。下処理の知恵がない奴らが食えば、そりゃ泥の塊を食ってるのと変わらんからな。だがよ、シェリル」
バルツは立ち上がり、下流の淀みを指差した。
「泥の中で生きてる魚ってのはな、冷たい泥水から身を守るために、極上のコラーゲンと分厚い脂を全身に蓄えてるんだ。泥臭さの元凶さえ完璧に切り離してやりゃ、清流のイワナやタイを遥かに越える、天上の白身に化けるんだよ」
「天上の……白身……!?」
「そうだ。知恵のない人間にとってはゴミでも、仕組みを知る解体士にとっては極上の宝の山よ。……さて、まずはあいつを浅瀬に誘い出すぞ」
バルツはティオとシェリルに向き直った。
「ティオ、大剣を持って川の浅瀬に立て。ただし、決して剣を水に叩きつけるなよ。平を水面と平行に寝かせて、川の底石を擦るように波紋を立てろ」
「波紋を……? 叩かないのか?」
「マッド・トラウトは目が退化してる代わりに、側線とヒゲで水流の微細な振動を感じ取ってるんだ。ドカンと叩けば泥の底に潜っちまうが、小魚が逃げ惑うような細かな波紋を作ってやりゃ、エサだと思って勝手に浮き上がってくる」
「分かった、やってみる!」
ティオは大剣の重みを腰に乗せ、ジャブジャブと浅瀬へと踏み入った。
大剣の腹を水面にそっと沈め、手首を細かく揺らして、小刻みな波紋を淀みへと送り込む。
昨日のような力みは一切ない。水流に逆らわず、川の流れと一体化するような滑らかな剣さばき。
大剣の重みが水圧と噛み合い、まるで大剣自身が水生生物のように滑らかに水面を撫でていた。
すると――
ボコッ、ボコッ……!
淀みの底の黒い泥が盛り上がり、巨魚の黄色い目が水面近くへと浮上してきた。
ティオの立てる規則正しい振動に引き寄せられている!
「シェリル、今だ。魚の背後の深みに、先ほどの『弱火』を撃ち込め」
「背後に……弱火を!?」
「そうだ。マッド・トラウトは極度の冷水を好む。深場の水温を一瞬だけ二度上げてやりゃ、嫌がって前方の浅瀬へと逃げ込んでくる」
シェリルは深く息を吸い込み、マナ・ブレスを意識した。
指先から放たれたのは、大爆発ではなく、水中で音もなく広がる極小の熱波。
水分子の振動をわずかに高めるだけの、ミリ単位の熱量制御。
ジュッ……と、深場の水が微かに温められた瞬間、巨魚がビクンと身を震わせ、温水を避けるようにティオの立つ浅瀬へと猛然と突進してきた。
「来たニャーーーッ!」
水深わずか20センチの浅瀬に乗り上げたマッド・トラウト。
体表を覆う分厚い灰色の粘液が、泥水を弾いてヌラヌラと光る。
その顎には、やすりのように細かい無数の鋭い小歯が並び、一度噛みついたらスッポンのように決して離さない強靭な噛合力を持っていた。
背ビレを水面から突き出し、丸太のような太い尾ヒレで泥を跳ね上げて暴れる巨体。
そこへ、岸辺の岩場から一筋の影が音もなく滑り降りた。
ニーナだった。
「てぇぇぇぇぇいニャッ!」
身軽な跳躍と共に、ニーナの小刀の刃先が、暴れる巨魚のエラ蓋の隙間へと正確に滑り込んだ。
チクリ。
延髄と主動脈を同時に断ち切る、バルツ直伝の急所刺し。
バシャバシャと激しく跳ね回っていた一・5メートルの巨魚が、一瞬にして脱力し、水面にプカリと腹を上にして静止した。
「と……獲れたニャ!」
ニーナが巨魚の尾ヒレを掴み、浅瀬の砂利場へと引きずり上げた。
手傷一つない、完璧な即死状態での確保。
だが、陸に上がった巨魚の体表からは、依然として鼻をつまみたくなるような強烈なヘドロ臭がモワモワと立ち上っていた。
皮膚を覆う厚さ数ミリの灰色の粘液層。これが泥の中の有害なバクテリアや硫黄成分を取り込み、魚体を守るバリアとなっているのだが、陸上では最悪の悪臭発生源と化していた。
「ううっ、やっぱりすっごく臭いニャ……! 近くで見ると、もっとドブの匂いがするニャ……! バルツおじちゃん、これ本当に食べられるようになるのニャ……?」
「任せとけ」
バルツは腰の道具袋から、細身の除腺小刀と、一本の青竹のヘラを取り出した。
その瞳には、獲物を前にした熟練の職人だけが宿す、静かな自信が満ちていた。
「この魚の泥臭さには、明確な『発生源』がある。第一がこの体表の保護粘液、第二が背骨の下にある黒い血合い肉、そして第三が側線に埋まった『泥腺』だ。この急所を順番に完璧に切除してやりゃ、臭みなんて欠片も残らん。……よく見とけ、これが泥魚の完全解剖だ」
バルツの言葉に、ティオもシェリルも、そして臭さに顔をしかめていたニーナも、ゴクリと唾を呑み込んで解体台を取り囲んだ。
秋の木漏れ日の中、誰もが「ゴミ」と嘲笑い捨て去っていた泥まみれの怪魚を、「至高の白身」へと昇華させるバルツの神技が、いよいよ始まろうとしていた。




