第014話:泥臭さの完全切除! 側線の泥腺引き抜き術
翡翠川の岸辺に据えられた、平らな花崗岩の解体台。
その上に横たえられた一・5メートルの《泥潜り縞川魚》の巨体を前に、ティオ、シェリル、ニーナの三人は息を潜めて見守っていた。
鼻を突く重苦しいドブとヘドロの臭気。
だが、バルツは顔色一つ変えず、自作の青竹のヘラを右手に握りしめた。
「いいか、よく見とけ。魚の解体で最も大切なのは『順番』だ。臭い成分を肉の繊維に触れさせないよう、外側から内側へ、完璧に封じ込めながら進める」
「は、はいッ!」
ティオが木桶に清流の冷水を汲んで構える。
バルツはまず、巨魚の頭部を左手で固定すると、竹ヘラのエッジを魚の体表に斜めの角度で当てた。
ズザザザザザッ!
尾から頭へ向かって、一気にヘラを滑らせる。
すると、魚体を覆っていた厚さ数ミリの灰色の保護粘液が、まるで濡れた泥のパックを剥がすように、ボトボトと石の上にこそぎ落とされていった。
灰色の粘液が剥がれた下から、銀色と紫色の美しい縞模様の鱗が姿を現す。
「第一段階。体表の保護粘液の切除だ。こいつを落とさずに包丁を入れると、刃先に粘液の臭いが付いて、切るたびに肉へ臭みを塗りつけることになる。粘液をこそぎ落としたら、すかさず粗塩をひとつかみ揉み込んで、残った毛穴の汚れを浸透圧で浮き上がらせる」
バルツが岩塩を魚肌に擦り込むと、微細な泡と共に、毛穴から黒ずんだアクがジュワッと滲み出てきた。
ティオが汲んできた冷水をバシャリと浴びせかけると、黒い汚れが綺麗に流れ去り、すでにこの時点で周囲の悪臭が半分以下に減衰していた。
「す……すごいです! 体表のぬめりを落としただけで、あのドブ臭さが激減しました!」
「まだだ。ここからが本番よ」
バルツは道具差しから、薄刃の【背開き刀】を抜いた。
背ビレの付け根に刃先を当て、背骨の硬い感触を刃の腹で感じながら、スーッと尾の付け根まで一息に刃を走らせる。
ギチギチギチ……と、肋骨の先端を軽やかに外していく快音。
魚体がパカッと左右に開かれた。
現れたのは、驚くほど分厚く、脂の乗った乳白色の白身だった。
だが、その背骨の真下――背骨の骨幹に沿って、真っ黒な筋状の塊がベットリと張り付いていた。
「第二段階。血合い肉と腎臓の完全掻き出しだ」
バルツは小刀の背を使って、背骨の下の黒い血の筋を、一筋の淀みも残さずガリガリと掻き出した。
冷水を注ぎながら歯ブラシ状の竹刷毛で擦ると、背骨の白い骨肌が露出し、魚の内側に溜まっていた澱んだ血が完全に洗い流された。
「魚の生臭さの八割は、この背骨の奥に残った古い血が酸化して腐敗することが原因だ。流水で骨の隙間まで徹底的に洗い流せ。……そして、最後の仕上げだ」
バルツは小刀を置き、細工用の細いピンセットを手にした。
魚の横腹――エラ蓋のすぐ後ろから尾ビレにかけて、一直線に点線状に並んでいる微細な小孔の列。
魚類が水流や水圧を感知するための感覚器官、「側線」だ。
「マッド・トラウトが他の川魚と決定的に違うのは、この側線の直下に、泥の毒素を中和して蓄える特殊な分泌器官……『泥腺』を持ってることだ」
「泥腺……!」
「泥濘の原生林の泥には、微細な地脈の毒素や腐敗菌が含まれてる。普通の魚なら一週間でエラが腐って死ぬが、こいつはこの泥腺から特殊なアルカリ粘液を分泌して、体内に侵入した毒素を中和し、一箇所に隔離してるんだ。つまり、この魚が生き抜くための『解毒フィルター』だな」
バルツの解説に、シェリルがハッと目を見張った。
「解毒フィルター……! つまり、この泥腺そのものがヘドロ毒を濃縮した袋になっているからこそ、肉そのものは無毒で清浄に保たれているのですね!?」
「その通りだ。泥腺が毒を引き受けてくれてるから、身は守られてる。だが針穴一つでも傷つけりゃ、中の濃縮毒素が肉全体に噴き出して、一瞬でドブ水と同じ臭いに染まる。……シェリル、虫眼鏡を持って手元を照らせ」
「は、はいッ!」
シェリルがトランクから取り出した拡大鏡を掲げ、指先の微細な光で解体台を照らし出した。
拡大鏡のレンズの向こう。
側線の起点――エラの後ろの皮膚を、バルツが極細の小刀でミリ単位の深さで浅く切開する。
バルツの指先には、微小な震えすら存在しなかった。
呼吸を完全に止め、心臓の鼓動の合間を縫うように、刃先を正確無比にコントロールしている。
わずか1ミリの切れ目の奥に、絹糸のように細い、半透明の白い管が埋まっていた。
バルツはピンセットの先端を差し込み、その白い管の先端を、息を止めてそっと摘んだ。
「息をするなよ、ティオ、ニーナ」
「ご、ごくり……」
ピンと張り詰める空気。
バルツの手首が、ミリ単位で、水平に、ゆっくりと後ろへ引かれた。
スルスルスルスル……ッ。
奇跡のような光景だった。
魚の横腹の肉の隙間から、まるで縫い目を解く一本の白い糸のように、長さ40センチに及ぶ半透明の泥腺が、途切れることなくスーッと引き抜かれていく。
プツン。
尾の付け根で管が完全に抜け落ち、石の上に放り出された。
反対側の側線からも、まったく同じ手際で、一本の濁りもない泥腺が完璧に摘出された。
「……終わったぞ」
バルツが息を吐き出すと同時に、ニーナの手元へ合図を送った。
「ニーナ、レモングラスだ!」
「ふんすニャ!」
ニーナが川辺に自生していた野生のレモングラスの葉を両手で力いっぱい揉み潰し、青汁のような爽やかな果汁を魚の身の上に絞りかけた。
さらに葉の束で、白身の表面を優しく円を描くようにマッサージする。
冷水をザバッと浴びせかけ、晒し布で水気を拭き取った瞬間――。
「……あ」
シェリルが息を呑んだ。
ニーナが目を丸くし、大きく鼻をヒクつかせた。
消えていた。
先ほどまで野営地を覆い尽くしていた、あの息もできないほど酷いドブとヘドロの悪臭が、跡形もなく、綺麗さっぱり消滅していたのだ。
それどころか――。
「……にゃ、にゃあ!? すっごく、すっごく爽やかな匂いがするニャ……!」
ニーナが思わず魚の身に顔を近づけた。
漂ってくるのは、清流のせせらぎのような澄み切った川の香りと、レモングラスの爽快な柑橘の香り。
解体台の上に横たわっていたのは、もはや悪名高い泥魚などではなかった。
半透明に透き通るような純白の身に、極上の霜降りのように細やかな白い脂が網目状に差し込んだ、最高級の「大トロ白身フィレ」だった。
指先で押すと、跳ね返してくるような力強い弾力。
泥臭さの完全切除。
知識と技術が、自然の猛毒と悪臭を完全に制圧した瞬間だった。
「どうだ。これが、マッド・トラウトの真の姿だ」
バルツが小刀を拭いながら、満足そうに顎髭を撫でた。
「冷たい泥の中で脂を蓄えに蓄えた、最高峰の白身だぞ。煮ても崩れん、焼けば皮はパリパリ、中はフワッフワだ。……ティオ、清流杉の生木を薄く削って板を作れ。乾燥した木材じゃダメだぞ。水分をたっぷり含んだ青杉を使うことで、蒸し焼きにする時に杉の清涼な木の香りが肉の芯まで染み渡るんだ」
「なるほど、青杉の水分を利用するのか! 任せてくれ、大剣の刃を鉋代わりにして、極薄の杉板を削り出すよ!」
「シェリル、本焚き火の熾火を均一に広げろ。昼飯のメインディッシュを作るぞ」
「はいッ! 弱火の熱量調整、完璧にやってみせます!」
歓喜の声が、原生林の空へと響き渡る。
悪臭の怪魚を奇跡の美味へと変える、究極のブッシュクラフト料理――『泥潜り縞川魚の杉板挟み香草ホイル焼き』の調理が、今まさに始まろうとしていた。




