第087話:白熊の胸部から見つかった「黒い結晶」! 異常寒波の真因
チリチリチリ……ッ。
雪洞の中、焚き火の温もりの中で、老狩人バルツの背中に走る無数の古傷が、防寒着の下で激しく疼き続けていた。
天候の急変、雪崩の予兆、吹雪の吹き始め、そして地脈の異常を誰よりも早く察知する、バルツの肉体に刻まれた『生体センサー』。
かつて30年前、王国中央の最高峰討伐隊に所属していた若きバルツは、大陸の地下深くに眠る神話竜の侵食鉱床で、地脈の暴走に巻き込まれたことがあった。
中央の貴族や商人たちが、己の強欲のために古代の封印を乱暴に爆破し、その結果引き起こされた地脈の崩壊。
仲間たちが次々と倒れる中、バルツは身を挺して崩落を食い止め、その背中に神話竜の呪われたマナの破片を無数に浴びて生き延びたのだ。
その古傷は、地脈に流れるマナの濁りや穢れに対して、まるでアレルギー反応のように過敏に神経パルスを放つ。
いま、その古傷が、衣服の上からでも分かるほどに激しく熱を持ち、無数の針で突き刺されるような鋭い痛みを訴えていた。
「おっちゃん……? 背中、痛むのか?」
ティオが心配そうに身を乗り出し、バルツの険しい横顔を覗き込んだ。
バルツは無言のまま、雪の上に広げた鹿革の布の上に、白熊の胸骨から抉り出した『紫黒色の結晶』を静かに置いた。
さらに、自らの懐に忍ばせていた頑丈な鉛の小箱を取り出す。
留め金を外し、中から現れたもう一つの物体。
それは――原生林で、あの暴走していた《断頭亀》の胃袋の底から摘出した、『第1の黒い結晶』だった。
キィィィィィィィン……!
黒い結晶が、雪洞の中で数寸の距離に並べられた瞬間。
まるで生きている毒虫が互いを認識したかのように、結晶の内部で不気味な紫黒色の光が脈動し、甲高い共鳴音を鳴り響かせた。
同時に、周囲の焚き火の炎がフッと小さくなり、雪洞内の温度が一瞬にして二、三度急降下する。
結晶が、周囲の熱とマナを異常な勢いで吸い込み、冷気へと変換して放電していたのだ。
「あ……っ! 共鳴していますわ……!」
シェリルが白樺の杖を握り締め、翡翠色の瞳を険しく尖らせた。
冷え性が完治し、魔力知覚が劇的に研ぎ澄まされた彼女には、結晶の間に張り巡らされた邪悪な力線が、血の糸のようにはっきりと見えていた。
シェリルは杖の先端を結晶の直上に掲げ、極細の魔力光を当てて構造を透視する。
「間違ありませんわ……! 外見の結晶構造、放たれる異常な冷気、そして生物の神経系を狂わせる毒素の波長……断頭亀の中にあったものと、完全に同一の組成です! それだけではありません……結晶の表面に、魔導火薬の残留成分――人工的に岩盤を爆破した際の硝煙反応が付着していますわ!」
「な、なんですの……その禍々しい石は……!? 人工的な爆破……!?」
先ほどまで熊の掌スープでお腹を満たし、幸せそうにしていたエレナが、息を呑んで後退った。
近衛騎士としての直感が、その結晶から放たれる圧倒的な『穢れ』に警鐘を鳴らしていた。
「エレナの嬢ちゃん、よく見ろ」
バルツが煙管を雪の上に置き、隻眼を細めて重々しく語り始めた。
「スノウベール村を襲った未曾有の大雪崩。そして、この霊峰全体を何ヶ月も閉じ込めている異常寒波。村人たちは『山の神の怒りだ』『百年に一度の天災だ』と怯えていたが……違う。自然の神様は、理由もなく山を凍りつかせたりしねえ」
「天災では……ない……? では、この寒波は……!」
「人災だ」
バルツの唇から、重く冷徹な言葉が放たれた。
「こいつはな、普通の鉱石じゃねえ。神話の時代、この大陸の地下深くに封じられたとされる『神話竜の骨』……その地脈に溜まった魔力ヘドロが、不自然な圧力で固められて結晶化したものだ」
「神話竜の骨の……結晶……!?」
「ああ。いいか、よく聞け。山や森、そしてこの大地もな、人間や魔物と同じ『一つの巨大な生命体』なんだよ」
バルツは雪の上に、七本の解体ナイフの一本で大地の断面図をササッと描き出した。
「岩肌は骨だ。土壌は筋肉や肉。樹木や草花は皮膚と毛根。そして、地下水脈やマグマの流れは、全身に栄養と熱を届ける『血管』だ。大気と風の流れは肺の呼吸。解体士の目で見れば、世界そのものが巨大な解剖標本なんだよ。本来なら、地下のマグマの熱と雪山の冷気が適度に混ざり合い、地脈の血管を通って大陸中へと巡ることで、豊かな命が育まれる。だが……何者かが霊峰の奥深く、地脈のツボにあたる重要鉱床を無謀にも爆破し、金になる高純度魔石を乱獲しやがった」
バルツが指差す黒い結晶。
「乱獲によって地脈の血管が傷つき、破裂した。その傷口から吹き出した魔力ヘドロが、この黒い結晶となって霊峰中の水源や土壌に詰まっちまったんだ。人間の身体で言えば、大動脈に血栓が詰まって血流が止まったようなもんだよ。熱の循環が止まり、冷気だけが霊峰全体に逆流して吹き荒れる……それが、今回の異常寒波の正体だ!」
「そんな……! 地脈の血管に、血栓が……!」
ティオとシェリル、ニーナが息を呑んだ。
原生林でも、黒い結晶によって大猪や断頭亀が狂乱していた。
だが、この霊峰では、それとは比べものにならない規模で地脈そのものが汚染され、山全体が重い病に侵されて悲鳴を上げていたのだ。
「白熊が目を覚ましたのも、寒さのせいじゃねえ」
バルツが続ける。
「地脈から溢れ出た黒い結晶が、冬眠洞窟の鍾乳石を伝って滴り落ち、眠っていた白熊の胸に突き刺さっちまったんだ。激痛と汚染マナで全身の神経を焼かれ、狂乱して暴れ回るしかなかった。あいつは破壊者なんかじゃねえ……人間のエゴに巻き込まれた、哀れな被害者なんだよ」
「あ、あまりにも酷すぎます……!」
エレナが銀の手甲をはめた拳を血が滲むほどに握り締め、激しい怒りに全身を震わせた。
その瞳から、大粒の悔し涙が零れ落ちる。
そして、その瞳は、大自然の痛みを自らの身体で受け止め、命への深い慈愛を語る老狩人バルツへと向けられた。
このお方は、ただの辺境の狩人などではない。
王都のどんな高名な学者や大司教よりも、世界の理と命の尊厳を深く理解している真の賢者なのだと、エレナの胸に畏敬と淡い憧憬が強く焼き付けられていた。
「領民たちが飢えと寒さで死にかけている陰で……何者かが自らの私利私欲のために、霊峰の地脈を傷つけ、このような惨劇を引き起こしていたというのですか……!? 許せません……! 騎士として、領主の娘として、私はそのような外道を絶対に許すことはできません……! そのような大罪を犯した者が、この雪山のどこかに潜んでいるというのですか……!?」
「ああ、いるぜ」
バルツが立ち上がり、雪洞の出口から吹きすさぶ雪嵐の奥――霊峰のさらに深部、氷河洞窟の心臓部がある北西の断崖を見据えた。
そこへ、洞窟の周囲を偵察していたニーナが、雪まみれになりながら駆け込んできた。
その手には、雪の中から掘り出してきたばかりの『ある重厚な金属片』が握りしめられていた。
「おじちゃん、エレナ様! 洞窟の裏手、崩れた岩陰から……こんなものを見つけてきたニャ!!」
ニーナが差し出した物体を見た瞬間、エレナの顔色が怒りと驚愕で青白く染まり上がった。
狂乱する白熊の背後に潜む、巨大な人間の悪意。
狂乱する白熊の背後に潜む、巨大な人間の悪意。
霊峰を凍てつかせ、村人を見殺しにして鉱山利権を貪ろうとする闇の組織の正体が、いま白日の下に暴かれようとしていた――!




