第086話:【実食】冬眠白熊の掌と温感生姜の極上とろ火スープ
ゴトゴトゴトゴト……。
氷壁の踊り場に設営された雪洞の内部。
外を吹き荒れる猛吹雪を遮る純白のドームの中央で、焚き火の熾火にかけられた大釜が、心地よい煮沸音を奏でていた。
外は依然として氷点下二十五度の猛烈な地吹雪が荒れ狂っている。
だが、雪洞の中はシェリルの極薄氷壁コーティングと、焚き火の放射熱によって、まるで春の陽だまりのようにほんのりと暖められていた。
「そろそろいい塩梅だな。ティオ、蓋を取れ」
「はいッ、おっちゃん!」
ティオが両手に分厚い鹿革の手袋をはめ、大釜の重い木蓋をゆっくりと持ち上げた。
その瞬間――。
ボワッ……!
雪洞の天井を満たすほどの濃密な白い蒸気とともに、想像を絶する芳醇な香りが爆発した。
甘やかで、力強く、それでいてどこまでも気品に満ちた薫香。
野生の温感生姜のスパイシーな清涼感と、白樺の幹で燻された香草の香り。
さらに、雪下熟成によって糖度が3倍に跳ね上がった野人参や雪山根菜の甘み、凍結乾燥させて旨味成分グアニル酸を極限まで凝縮させた干し山キノコの芳香。
そして何よりも、冬眠を控えて数多の山の恵みを蓄え込んだ巨熊の極上コラーゲンが溶け出した、黄金の香りだ。
「はぁぁぁぁぁ……っ! なんという香り……! 匂いを嗅いだだけで、鼻の奥から喉、胸の奥までカッと熱くなりますわ……!」
シェリルが両手を胸の前で合わせ、うっとりと目を細めた。
ニーナも鼻先をピクピクと激しく動かし、尻尾をパタパタと雪の上に叩きつけている。
「おじちゃん! スープが……スープが黄金色に輝いてるニャ!」
「ああ。熊の掌の分厚いコラーゲンとゼラチンが、雪解け岩清水の極軟水と温感生姜のエキスに溶け込み、完全に乳化した証拠だ」
大釜の中を覗き込むと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
透き通るような飴色と乳白色が混ざり合った、とろみのある黄金色のスープ。
その中央には、じっくりと煮込まれて角が取れ、まるで宝石の琥珀のようにプルプルと震える大人の手のひら大の『熊の掌肉』が鎮座していた。
スープの表面には、先ほど精製した白熊の純白ラードが一筋垂らされており、透明な油膜の蓋となって熱気を一滴も逃さずに閉じ込めている。
「熊の掌はな、古来より古代王朝の皇帝や賢者が、長寿と気力回復のために金貨数百枚を積んで求めた天上の薬膳料理だ。寒さで縮こまった自律神経をリセットし、内臓の毛細血管を一気に押し広げる。さあ、冷めねえうちに食え! 極寒の雪山でしか味わえねえ、至高の滋養強壮スープだ!」
バルツが木彫りの深い椀に、たっぷりの黄金スープと、ぷるぷるに煮崩れた熊の掌肉を盛り分け、全員へと手渡した。
最後に受け取ったエレナは、湯気を立てる椀を両手で包み込み、震える指先で木のスプーンを握り締めた。
「これが……あの猛獣の、足の裏……。王都の宮廷料理人でも作れないという、幻の珍味……」
ゴクリと喉を鳴らす。
スプーンを入れると、まるで極上のプリンのように柔らかく、熊の掌肉がスッと抵抗なく切り分かれた。
透明感のある飴色のゼラチン質。
エレナはフーフーと息を吹きかけ、意を決してそれを口の中へと運んだ。
――チュルンッ。
「んんんんんっっっ……!?」
エレナの瞳が、カッと見開かれた。
噛む必要など、まったくなかった。
舌の上に触れた瞬間、人肌の体温だけで、濃厚なゼラチン質の塊がとろりと液状に溶け崩れたのだ。
口いっぱいに広がるのは、これまで味わったどんな肉料理とも異なる、圧倒的なコクと甘み。
臭みや油っぽさは微塵もない。
冬眠の間に蓄えられた野生の木の実や蜜の滋味、そして骨の芯から抽出されたアミノ酸の結晶が、舌の味蕾を総動員して押し寄せてくる。
さらに、温感生姜のピリリとした心地よい辛味が、濃厚なゼラチンの旨味をキリリと引き締め、喉を滑り落ちていく。
「な、なんという口溶け……! お肉が……ゼラチンが、舌の上でフワッと消えてしまいました……! そして……あ、温かい……!?」
エレナが思わず胸元を押さえた。
スープが食道を通って胃袋に落ちた瞬間、まるで体内に小さな太陽が灯ったかのような熱波が生まれたのだ。
ドクンッ、ドクンッ……!
温感生姜の血行促進作用と、熊肉の驚異的な滋養強壮成分が、全身の血管へと瞬時に駆け巡る。
凍えて感覚が鈍っていた指先、足の爪先、耳たぶにまで、ドクドクと温かい血液が巡り出し、ポカポカとした熱気が皮膚の下から湧き上がってくる。
「う、美味い……! 美味すぎるッッッ!!」
ティオが大椀に口をつけて、豪快にスープを呷った。
「なんだこれ!? スープにとろみがあって、喉を通るたびに身体が燃えるように熱くなってくる! 大剣を振るって疲れてた腕や腰の筋肉が、じわじわと解けていくみたいだ!」
「んん〜〜〜っ! お肌が……お肌がプルプルになっていくのが分かりますわ!」
シェリルが両手で頬を押さえ、うっとりと頬を紅潮させて身悶えした。
「極上のコラーゲンが全身の細胞に染み渡っていくようですわ! 指先もポカポカして、魔力回路の隅々にまで熱が満ちてきます!」
「肉球、最高ニャーーーッ!!」
ニーナは椀にかぶりつき、ハフハフと息を吐きながら貪り食っている。
「ぷるぷるで、もちもちで、噛むとジュワ〜ッと甘いお汁が溢れてくるニャ! こんな美味いもの、生まれて初めて食べたニャ!」
エレナもまた、二口目、三口目とスプーンを動かす手を止めることができなかった。
気高い近衛騎士としての矜持も、テーブルマナーも、すべてが吹き飛んでいた。
唇を黄金色のコラーゲンでテカテカと輝かせながら、夢中で椀を空にしていく。
身体が、魂が、この温もりと命の結晶を激しく求めていたのだ。
「はふっ……んぐっ……美味しい……! 本当に……美味しいです……っ!」
エレナの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
大雪崩で村が孤立し、領民たちが飢えに苦しみ、王都の中央ギルドからは冷酷に見捨てられた数ヶ月間。
自分一人で領民を救わなければならないと、張り詰めていた心が、この一杯の温かいスープによって、優しく解きほぐされていくようだった。
「エレナの嬢ちゃん、泣きながら食うとスープがしょっぱくなっちまうぞ。ほら、まだ大釜に山ほどある。村の連中への持ち帰り用もたっぷり取ってあるから、いくらでも食え」
「は、はいっ……! バルツ様……おかわりを……おかわりを所望いたします……!」
顔を真っ赤にしながら、空になった椀を両手で差し出すエレナ。
二杯目のスープを夢中で飲み干した彼女は、さらに大釜の底に残った濃厚な出汁に、乾燥米と刻んだ雪下キャベツを放り込んだ【熊脂の黄金雑炊】までペロリと平らげてしまった。
米粒の一粒一粒に熊の旨味脂がコーティングされ、噛むたびにプチプチと弾ける至高の締めの一杯。
「ふあぁぁ……っ、もう一歩も動けません……お腹が、破裂しそうです……」
エレナは銀の甲冑の革ベルトをこっそり一段緩め、ぽっこりと膨らんだ自分のお腹を恥ずかしそうに両手で隠した。
その顔からは、いつもの険しい表情が完全に消え去り、極上の満腹感と幸福感に包まれた、ただの無邪気な少女の笑みがこぼれていた。
「ふふ、エレナ様、すっかりおっちゃんの胃袋の虜ですわね」
「う、うぐっ……! シェリル殿、からかわないでくださいまし……! で、ですが……本当に、こんなに美味しいものをいただいたのは、生まれて初めてなのです……!」
雪洞の中に、温かい笑い声が満ちる。
だが――全員が胃袋を満たし、心身ともに熱気を取り戻したところで、バルツは静かに懐から『あの物体』を取り出した。
白熊の胸骨から抉り出した、紫黒色の禍々しい結晶。
それを見つめる老狩人の隻眼が、氷のように鋭く引き締まっていた。




