第085話:至高の食材「熊の掌(てのひら)」の解体と、灰汁抜きの下処理
ヒュウウウウウウ……ッ。
標高2000メートル「氷壁の踊り場」。
雪原に横たわる体長5メートル、体重3トンの巨獣《冬眠白熊》の周囲に、湯気のような白煙が立ち上っていた。
雪山の解体において、最も重要なのは『冷気と時間との戦い』である。
3トンもの巨体は自らの体温で内臓を蒸らし、放置すれば数十分で肉が発酵・腐敗し始める。
だが逆に、外気は氷点下二十五度。
悠長に作業をしていれば、肉も脂肪もカチカチの氷塊と化し、解体ナイフの刃が通らなくなってしまうのだ。
「ティオ、そりから木製の樋と大釜を出せ! シェリルは雪を溶かして熱湯を沸かせ! ニーナは胸の皮を剥ぐぞ!」
「「「はいッッッ!!」」」
バルツの号令が飛ぶや否や、カルテットが一斉に持ち場へと散った。
無駄な動作は一つもない。
何十頭もの魔物を解体してきた経験が、弟子たちを熟練の職人へと変貌させていた。
「まず、胸骨に突き刺さったこの禍々しい石を外す」
バルツは解体ナイフの二番刀――頑丈で幅広の『骨スキ包丁』を手にとった。
白熊の胸骨のど真ん中、肋間神経を圧迫していた紫黒色の結晶。
結晶の周囲には、黒く壊死した組織と、紫色の鬱血した太い血管が絡みついている。
バルツは刃先を斜めに入れ、骨と結晶の結合部へと滑り込ませた。
コリッ……!
小気味よい音が響き、テコの原理で手首を返すと、大人の手のひら大の黒い結晶が、ボロリと雪原へとこぼれ落ちた。
ジュウウウッ……!
結晶が雪に触れた瞬間、周囲の雪がドス黒く泡立ち、焦げたような悪臭を放つ。
激痛の元凶が取り除かれた瞬間、白熊の巨体からピクリと震えが消え、巨大な胸が深く、穏やかに上下した。
「よし、激痛の芯は抜けた。次は頸動脈と胸腔動脈からの急速放血だ」
バルツは長刀《黒喰》の切っ先を、首の付け根と鎖骨上窩の隙間へと滑り込ませた。
ドクッ……ドクッ……!
樋を伝って、湯気を立てる鮮血が雪の穴へと流れ落ちる。
雪山での放血は、雪の中に掘った深い穴に血を吸わせるのが鉄則だ。血の匂いを空気に拡散させず、肉食魔獣の誘引を防ぐためのブッシュクラフトである。
血が抜けるにつれ、赤黒かった筋肉が美しい桜色へと変わり、獣特有の生臭さが消え失せていく。
「バルツさん、腹腔を開けます! 胆嚢を傷つけないように注意しますね!」
ティオが慎重に皮剥ぎナイフの切っ先を滑らせる。
熊の解体において、肝臓の裏側に張り付いている漆黒の胆嚢は、古来よりあらゆる病を癒す万能薬として金と同じ重さで取引される超高額部位だ。
もし胆嚢を刃先で傷つければ、強烈な苦味成分が肉全体に飛び散り、せっかくの最高級肉が台無しになってしまう。
ティオは指先で胆管の根元を探り当て、麻糸でしっかりと縛ってから綺麗に摘出してみせた。
「上出来だ、ティオ。綺麗な胆嚢だ。風通しのいい雪洞で陰干しすりゃ、村の連中の特効薬になる。さあ、ここからが今日の本番だ。熊の身体の中で、古代から『天上の珍味』と崇められてきた至高の部位を取り出すぞ」
「天上の珍味……? 熊のロース肉やヒレ肉のことですか?」
傍らで固唾を呑んで見守っていたエレナが問いかけた。
バルツはニヤリと隻眼を細め、白熊の太い前足――あの丸太のような巨腕の先端を指差した。
「肉じゃねえ。【熊の掌】……特に、この右前足の肉球部分だ」
「えっ!? あ、足の裏の肉球ですか……!?」
エレナが目を丸くした。
王国の貴族たちの間でも、熊肉のローストや塩漬けは時折供されることがある。
だが、足の裏など、硬い角質と泥にまみれた部位であり、とても人間が口にできるものとは思われていなかった。
「はははっ、貴族の連中は本物の美味さを知らねえんだよ」
バルツがナイフを巧みに操りながら解説を始めた。
「熊って生き物はな、冬眠に入る前に何十キロもの野イチゴや木の実、蜂蜜、川の鮭を食い溜める。そして冬眠中、無意識に自分の右前足をチュウチュウと舐め続ける習性があるんだ。熊は右利きが多くてな、蜂蜜を掻き出すのも右腕だ。冬の間に全身から集まった極上の脂と栄養が、この前足の肉球に凝縮される。外側の皮は分厚いが、その下には純度100パーセントの『天然のゼラチン質とコラーゲンの塊』がぎっしり詰まってんだよ」
「ぜ、ゼラチンとコラーゲンの塊……!」
ニーナがペロリと口元を舐めた。
バルツの手元では、前足の手根骨(手首の骨)の関節の隙間にナイフの刃が滑り込んでいた。
軟骨の結合部をチュンと突くだけで、大人の頭ほどもある巨大な白熊の右前足が、ゴロリと綺麗に切り離された。
切り口から見えるのは、雪のように真っ白な皮下脂肪と、飴色に透き通る筋膜の層だ。
「だがな、熊の掌はそのままじゃ絶対に食えねえ。泥と毛と、特有の獣脂臭が染み付いてるからな。ここからの下処理が、職人の腕のすべてを決めるんだ」
バルツはティオに合図を送り、焚き火から集めた『純白の白樺木灰』を木樽にたっぷりと入れさせた。
そこへ、シェリルが沸かした熱湯を注ぎ込み、強アルカリ性の木灰湯を作る。
「木灰のアルカリ分で、毛根のタンパク質を緩めるんだ。いわゆる鹸化反応だな。熱湯に五分浸けた後、冷たい雪水で一気に締める!」
ジュウウウウッ……!
湯気とともに木灰の香りが立ち上る。
バルツがピンセットと小刀を取り出し、白熊の掌の毛を指先でつまむと――。
ツルリッ……!
「あ……っ! 毛が……根元からごっそり抜けるニャ!」
ニーナが歓声を上げた。
あんなに硬く密集していた剛毛が、まるで熟した桃の皮を剥くかのように、根元からツルリと綺麗に抜け落ちていくのだ。
毛根が溶けて剥がれ落ちた後には、まるで磨き上げられた純白の象牙のように滑らかな、ぷるぷるの皮下組織が露わになった。
さらにバルツは、肉球の指の間に隠れた微細な汗腺と臭腺を、小刀の切っ先でミリ単位で丁寧に削ぎ落としていく。
「臭みの元になる腺組織を完全に切除し、爪の根本の硬い角質を外す。これを三回、温感生姜と香草を放り込んだ大釜で茹でこぼして灰汁を完璧に抜くんだ」
コトコトコトコト……。
大釜の中で、下処理を終えた熊の掌が、黄金色の香草出汁の中で静かに踊り始めた。
灰汁が泡となって浮かび上がるたびに、ティオが木杓子で手際よく掬い取っていく。
やがて、極寒の踊り場に、野性味あふれる芳醇で甘やかな香りが漂い始めた。
獣臭さなど微塵もない。
まるで何十年も熟成させた上極のコンソメのような、奥深い至高の薫香。
「な、なんて香りでしょう……! これが……本当に、あの凶暴な白熊の足の裏なのですか……!?」
エレナのお腹が、グウウウウウ……ッ! と盛大に鳴り響いた。
踊り場全体に響き渡るほどの音量に、気高い近衛騎士の頬が一瞬でリンゴのように真っ赤に染まる。
「あ、あの……! い、いまのは風の音でして……! け、決して私の腹の虫などでは……!」
「ふふっ、エレナ様、我慢なさらないでくださいな。わたくしもお腹がペコペコですわ!」
「あたいの胃袋も、さっきから大暴れしてるニャー!」
「はははっ、匂いだけで腹が減るのが本物の証拠だ。ティオ、皮下の純白ラードも大鍋で熱して油粕を作っとけ。あの透き通った熊油は、零下でも凍らない天然の不凍オイルだ。スープの仕上げに一垂らしすりゃ、表面に油膜が張って極寒の雪山でもスープが冷めなくなる」
「了解です、おっちゃん! 雪山での油膜の蓋ですね!」
「よし、そろそろ極上のとろ火スープに仕立てるぞ!」
バルツの豪快な笑い声とともに、極寒の雪原での至高のサバイバル宴が始まろうとしていた。




